Case 3 過去と未来を繋ぐもの ⑦


 倉部は知らず知らずのうちに、テーブルの上に両手を乗せ、なかば腰を浮かせて身を乗り出すような格好で小鳥遊弁護士の話を聞いていたことに気づき、再び椅子に浅く腰掛けた。


「……その時の私の気持ちを、何と言ったら良いだろうな? 自然的法則を超えた超自然、というものを目の当たりにした人間は。……おのれの小ささを感じる? 

 いや、そんなものではないよ。

 自身では到底計り知れないが、この世の中に実在すると知った恐怖……いや、畏怖というのだろうか。

 見えない何かにひれ伏すような、感覚だった。


 昔の人は、子どもは神さまの預かりものだとよく言っていたのを君は知っているかね? 子どもの歳が、とおを数えるまでは、その子は神さまからの預かりものだという考えだ。

 現代とは違い、幼い子どもが成長するのは難しかった時代ころ。大切な預かりものだから大事に育てよ、という意味。

 それから、とおになる前に神さまの元に還るかもしれないが、それは預かりものなのだから仕方のないことだ。神さまの元に還ったのだから悲しんでばかりいてはならない、という意味もあるらしい。

 自分ではどうしようにも出来なかったこと、出来ないことを、それは自分の出来得る範囲外だったとためにある言葉だ。

 すべては神のせいだと、誰かのせいにして自分を守るため……いや、かもしれないがね……何にせよそれは自分のせいではない、神の意思だとしてしまう。


 それは、困難に向かい合うことの出来ない人間の弱さだと、私は捻くれた考えしていたんだよ。子どもを大事にするのは当たり前だ。神さまだの何だのと、果たしてそんなものが存在するわけがない。

 だからそれまでの私は、辛いことが起きた時に自分を守るための言い訳くらいだろうとしか思っていなかった。

 ……自分が経験したこともないことを、そう言い切ってしまう私は、なんて未熟で想像力のない人間だったんだろうな? 

 そうして情けないことに、不意に息子達を失ったとき、私は初めて、自身ではどうする事も出来ない『無力』というのを知ったんだ。

 

 翌朝、一晩経っても空穂うつほが消えずに、現実に存在することを確認した私は、一度新潟に帰ると言っていた千佳ちかさんのご両親が泊まるホテルに、まだ滞在している時間のうちにと、急ぎ電話で事実のみを話した。

 空穂が突然現れた、とね。

 私の言葉を信じられない……当たり前だな。千佳さんのご両親が、すぐさま我が家に飛び込んで来て空穂を……私が目の当たりにしたものを見て、文字通り腰を抜かした。

 その後、最初に言った言葉が『……預かりものとはよく言ったもんだが……』だったんだよ。

 それを聞いた私は、ああそうか、と分かったんだ。神が実際に存在するかどうかは、どうでも良い。自分を守るためでも、辛いことから逃げるためでもいいなら、それを『奇跡』としてとして神の存在を使って何が悪いとね。

 訳の分からないことを、必死で理解しようとするのは、誰にだってあることだ。

 まあ、どこまでも捻くれているが、その時の私は息子夫婦を失い、世の中全てを憎んでいたのだから勘弁してもらおう。


 それから千佳さんのお父様は、こう続けて言ったんだ。

 『……信じられない。信じられないが、八歳の空穂は、本当に神さまの預かりものなのだと考えればおかしくない……。おかしくないよな? そうだろう? 神さまの気紛れで一度失ったが、また預けて貰えたと考えれば……』

 混乱する自身に言い聞かせるように、何度もそう言って、目の前の空穂を見て泣いていたよ」



「確かに、混乱しますよね……どうやっても、信じられないことが目の前にある」


「……そうだな。あの事故現場を実際に目にした私たちは、皆で空穂を探すとは決めたものの、空穂が生きているとは誰も信じていなかったように思う。

 ……正直に言えばな。

 我々で現場を探索すると、そう決めたのは空穂が生きているとだけなんだよ。

 その空穂が、目の前に現れた……。

 我々は取るに足りない人間だ。自分の力では、どうすることも出来ないことがある。それを言い訳にすれば……信じられないことを神の気紛れとして認識することで、自身の精神の崩壊から逃げることは罪ではないだろう? それに結局は目の前のことを、信じるしかないからな」


「空穂さんは、どうしましたか? 」


「酷なようだが、子どもを言い包めるのは難しいようでいて、簡単だよ。信じる人達の言葉の重さ。両親の居ない事実。

 記憶を創り上げたんだ。

 ……というより最早ある意味洗脳だな。

 両親を失うという事故のショックで記憶がないということにした。繰り返し病院にも行った。突然現れた空穂を隈なく検査してもらう良い口実になったのは、否めないがね。

 空穂は……混乱していたが健気だったよ。

 私たちは、再び現れた空穂を失うことは出来ないと、必死だった。


 千佳さんのご両親もとうに亡くなり、このことを知るのは私だけだ。いや、今はもう君と私だけだな」


「空穂さんはその事故をきっかけに、旅行に行く前、つまり過去に戻ってきたという事で良いんでしょうか?」


「……それがよく分からないんだ。

 空穂の記憶は、確かに旅行に出掛ける前のものだった。

 しかし再び現れた空穂によれば、旅行へ行く日付けが違うというんだよ。その空穂が言うには一週間ずれているんだそうだ。だからあの時、泣いている私を見て、お祖父ちゃまも良いと誘ったんだそうだ。


 それとな、倉部くん。

 戻ってきた空穂には幼い頃の火傷の痕がないんだ。三歳の時、熱いアイロンを悪戯して出来た左手首の下の、三角形の茶色い滲みのような火傷の痕が、なかったんだよ。

 千佳さんのご両親が気づいていたのかどうかは、知らないがね。……気づいていたとしても、言わなかっただろう。

 空穂に変わりはないが、空穂ではないのかもしれない。

 わたし達は、それでも良かった。

 幼い孫を喪いたくない、欲。あるいは独りになりなくない私のエゴ……利己的主義がそうさせるのかもしれないが、誰に迷惑をかける? そう開き直って空穂を、返してもらった空穂の生命を大事にすることにしたんだ。

 

 あんな奇跡を目にしても、この歳になる今だって、神もあの世も信じてはいない。だが、もしも本当にあの世があるとすれば、が出来るかもしれないと考えてしまう自分がいるんだよ。ひょっとしてそこには息子夫婦だけでなく、もしかしたらあの日に一緒だった幼い空穂も、そこに居るのかもしれないと思うこともあってね。

 私も、もう歳だ。最近はよく、そんなことを考えてしまうんだ。

 ……そうなると千佳さんのご両親は、もうあの子たちに会えたのかもしれない。なんにせよ、私にも真実を知るそう遠くない日が来るのだと思うことにしているよ」


 ふうと大きく息をく小鳥遊の疲れた顔を見て、今日はこれでおいとまさせて頂きますと倉部は頭を下げた。

 軽く頷くと椅子に寄り掛かり、再び双眸を閉じた小鳥遊は、きつく刻まれた眉間の皺が緩々と柔らかくなると、ほどなくして寝息を立て始める。

 なるべくそっと音を立てないように応対室の扉を閉め、目を上げると石田が倉部に手招きしていた。目が合うと、その指先を石田自身の胸、倉部を指した後、弁護士事務所の外へ向ける。声なく唇を動かし『外で話そう』と言うので、倉部は頷いた。



 「御大おんたいは、もう歳だから事務所に来ても半分以上は、うつらうつら寝てるんだよ」


 事務所の入った小さなビルの前で、石田は倉部に言った。


所長タヌキ先生からこの仕事を取ったら、もう何もないからね。家にぽつんと独りでいることを考えちゃうと……無理にでも頼んで来てもらっているんだ。皆その方が安心するし、事務所の若い子も所長タヌキ先生を慕ってる。行方不明の空穂さんのことも古参のパラリーガルさんから聞いて知っているから尚更ってのもあるけど。まあ、ご高齢も超高齢のおじいちゃんとはいえ、起きている時の頭は切れるから実際、助かってもいるんだけどね。あは」

 それから石田は少し声を落とし、いつになく真面目な顔で「空穂さんが見つかったわけじゃないんだろ?」と倉部を覗き込む。


「ああ、違ったよ。空穂はまだ、見つかってない」


 そうか、と溜息を吐き出しながら小さな声で呟くと、無言で倉部の腕を軽く叩いた。


「……莉子ちゃんは? もう高校生だったよな?」

「うん? いやー心配の毎日だよ。こっそり莉子のツイッターとかインスタ覗いちゃったりね……。あははっ……って笑えなすぎる」


 ひとしきり娘の話で盛り上がった後、石田は腕時計に目をやり、顧客と約束があるんだと倉部に告げる。


「事務所に顔出すのは気まずいにしろ、僕には気軽に連絡してよ。少ない友達と疎遠で寂しくしてるんだ」

「……分かった」

「言っておくけど、その友達ってお前だゾ」


 じゃあ、と事務所に戻って行く石田の背後姿を見て、倉部は自分たちが日々確実に歳を取っていることを思い知る。

 

 無性に空穂に会いたかった。





 

 ……見慣れた天井。


 顔に当たる温かな光。感じる眩しさに、目蓋を開けた空穂は、ぼんやりと自室の天井を見上げていた。


 さっきまで、湊さんと霊園に居たはずなのに……。

 わたし、何してるんだろう? 具合が悪くて倒れた? 


 しかしそんな感じは全くない。どちらかといえば、いつになく身体が軽く調子も良いようだった。

 突然、お腹が空いていることに気づく。


 ……夕飯を何にしようって話してたんだったわね。


 ベッドから出ようとして、手をついたその時。空穂は自分の手を見下ろし息が止まりそうになった。


 ……え?


 慌てて飛び起き、部屋の姿見の前に走る。


 そこで見たもの……目の前の鏡に映るのは、その場にへたり込む八歳の空穂の姿だった。


 


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