Case 3 過去と未来を繋ぐもの ⑥
「……真実を話すことが遅くなり、申し訳ありません」
倉部の告白を聞き終えた小鳥遊弁護士は、ゆっくりと閉じていた双眸を開けると、空穂と良く似た眼で倉部の顔をひたと見つめる。
「……倉部くん。聞いてもいいかね? 君は、どうして今日……いや、今になって、その話をしようと思ったのだろう」
もっともな質問であった。
「全部で三つの理由があります。ひとつめには、今日見た女性が……空穂さんとよく似ていたことです。そしてわたしは、空穂さんが見つかるとしたら、あのような状況では見つからないと推測していること。
今日その女性を見た瞬間、その推測は確信に変わりました。どこかで誰かが見つかるたびに、わたしは空穂さんではないと思いながらも一抹の不安を拭いきれなかった。
しかし空穂さん……彼女は、優しく賢い女性です。もしここに戻って来ているのなら……戻って来れたのならば、小鳥遊さんを悲しませるような結果を、自ら選ぶとは思えない。……また、苦境にあっても、そうならないように懸命に努力するでしょう。
なぜなら、空穂さんは自らの意思で失踪したのではなく、不可抗力な何かによって『消えて』しまったから。
空穂さんが見つかるとした場合、通常のようにはいかない。そしてそれを説明するには、話していなかった到底信じられない話をお聞かせするしか無いと思ったんです。……ふたつめは」
「……私には残されている時間が少ない、ということだろうな。倉部くん」
倉部は頷く。
真実のみを、述べるべきだ。
小鳥遊弁護士は高齢であり、今まで話さないできたこと自体が間違いであったのだと倉部は思う。
この人は、嘘を見抜く人だ。
倉部の荒唐無稽な話が、嘘や作り話でないことくらい分かると、信じることが出来なかった……。
いや、そうではない。
あの時、空穂が目の前で消えてから、時間が経つごとに自身の見たものを信じることが曖昧になった倉部が、愚かだったのだ。
『空穂さんは、消えたんです』
そう言ったとき、この高潔な人に嘘つきだと思われたくない自分と、目の前で見た自身でさえ信じられない事実を、見ていない人が信じるわけがないと決めつけてしまった倉部が、愚かだったのである。
「自分の目にしたものが信じられず、ずるずるとここまで来てしまいました。一方でそれを信じている自分もいたんです。『それ』とは、ここではない何処かがあること。
そうしてあの日から、さまざまなアプローチで空穂さんを探して来ました。
最後、三つめの理由です。わたしは空穂さんを探す方法とついに出会えた。
その結果、断言できます。
空穂さんは、この『世界』からは消えてしまいました。何処にいるのか、現状のわたしでは分かりませんが、いつか必ず空穂さんに会ってみせます」
「……なるほど。理由は分かった。そして……改めての、決意表明か」
目を細めて倉部を見た小鳥遊弁護士は、無意識に湯呑みを口に運ぶと、その冷えてしまったお茶の不味さに一寸、驚いたような顔をした。
「先に居なくなってしまう私の心残りは、空穂だ。だからこの老人に、君がそう言ってくれるのは嬉しい。しかしそれでは君の人生は、無駄になってしまうかもしれない。
……いや、すでに無駄にさせてしまったのかもしれないがな」
自らの掌から、
いちど倉部は両手を見下ろし、再び小鳥遊弁護士に向き合った。
「……分かりません。正直、恨めしく思ったことも、迷うことも迷ったこともあります。
けれど、目の前で今までの常識が覆ってしまう瞬間を見たわたしは、その不可解なことに挑むと決めたんです。空穂さんを取り戻したい。でも、それは常識に当て嵌めていては取り戻せないと、目の当たりにしたわたしは、身に染みて分かったんです。
だから掌に空穂さんを残すことを決めた」
「それはもう、意地かね? 空穂を諦めて、また既存の常識に戻ることも、まだ遅くはない。年寄りの私と違ってな。やろうと思えば出来るだろう?」
いえ、と短く首を振る。
もちろん意地もあるだろう。
しかし倉部は、すでに取り憑かれてしまったのだ。
そう、それはまるで……酒井のように。
「そうか……。では、ひとつ、私からも話さなくてはな……。
空穂が消えたと君に聞いた時。……実は私は、この日がいつか来るのではないかと、心のどこかで恐れていたんだ。
察しの良い君なら、私のこの話が何処へ向かうのか気づいているかもしれないな。
それは、空穂が八歳。息子夫婦が事故で亡くなったときに遡るんだ……」
あの日は、この街でも珍しく、ちらちらと雪の舞う寒い朝から始まった。
「
窓の外にちらつく雪を見て、小鳥遊は頬を緩ませた。
息子夫婦は一人娘の空穂を連れ、二泊三日の雪遊びに出掛けていた。
毎冬恒例の家族旅行のひとつだ。
結婚を機に、スノーボードを始めた息子の
小鳥遊自身は、温泉三昧で雪見風呂酒付きですよ、という誘いには惹かれるものの、寒いのが苦手ということもあり、冬の家族旅行は親子三人水入らずで行ったら良いと毎回誘いを断っていた。
日程では今日が最終日であり、昨日の夜の電話で『夕飯までには帰る』と受話器の向こうで亘がそう言えば、その背後からだろう。楽しそうな笑いを含んだ大きな空穂の声で『お祖父ちゃま! お土産、期待しててね』と言うのが聞こえた時からすでに、小鳥遊は三人が帰ってくるのを楽しみにしている。
夕方も大分遅い時間。
一緒に食べようと約束した夕飯までは、まだ間があるものの何の連絡もないことに、小鳥遊は不安を隠せないでいた。
妻を亡くしてから、息子が小鳥遊に寄せる心配や心遣いは以前より増え、時に自分はまだそんな歳ではないと突っ撥ねることがあるものの、息子の優しさに救われることが多いのも事実である。
そんな息子が、遅くなることに連絡ひとつ寄越さないのは、何かあったとしか考えられない。
いや、違う。きっと偶々、連絡が出来ないだけだと自身を慰めてみても、不安は増すばかりだった。
家の電話が鳴る。
やれやれ、やはり杞憂だったと小鳥遊が受話器を持ち上げた途端。
「……聞こえてきたのは、亘の声でも千佳さんでも、空穂でもなかった。……警察からだったんだよ。亘が落石を避けようとハンドルを切り、崖の下に落ちたという話だった。
残念ですが車の中で、すでに……という話でね。ところが、おかしなことにいつまで経っても空穂の話が出てこないんだ。
私が『孫の空穂も車に乗っていたはずですが、どうなりましたか?』と尋ねてみると、潰れた座席のどこを探しても、空穂の姿はない。乗っていなかったのではないか、と言うんだよ。
外に放り出されたのでは、と私が食い下がるも、窓の割れ具合を見ても、辺りを見渡してもそんな様子はないと言う。
私は取るものも取り敢えず、言われるままそこに駆けつけた。
……無残な様子だったよ。
ようやく辿り着いた闇の中、現場を見せてくれと頼み込んだ。……連れて行ってくれた……ぽっかりとそこだけ灯りに照らされた崖の下を見た。そのひしゃげた車は黒く小さく、悪い夢を見ているような、訳の分からない穴を覗き込んでしまったような、まるで現実感はなくてね。
翌朝、陽の光のもと再びその場を見て、引き上げられる車と、下まで降りては行けない自身を呪ったよ。空穂はあそこに居るんじゃないかと、自分の目や手で確かめることの出来ないもどかしさに、気が狂いそうだった。
その後千佳さんのご両親も駆けつけて、亘と千佳さんは見つかったのに空穂だけが居ないのはおかしいと、再三警察の人に訴えたんだ。
だが……車外に放り出された形跡もなし。そのうえ、昨夜遅くから振り出した雪が深く積もり、崖の下のこれ以上の探索は無理だと言われてしまった。
確かに、放り出される可能性は少ない。車に乗るときはいつでも、チャイルドシート……いや、八歳の空穂はジュニアシートに乗っていたはずだ。だから外に放り出される可能性は少ない。一緒に潰されていなかったのなら、どこにいるのか……。
見せられた姿ではない二人を、荼毘に付し引き取って、帰宅した。
何ひとつとしてやりたくないのに、やるべきことは沢山あったよ。
幼い空穂の姿のないことは、私たちをさらに苦しめた。
寒空の下、どこかにいるんじゃないか。警察は、ああ言ったものの、やはり車の近くに投げ出されているんじゃないのか。
千佳さんのご両親と葬儀の相談をして、とりあえず二人の葬儀を身内だけで行おう、空穂の捜索は続けよう、と決めたその夜……」
千佳の両親をホテルに送った後、ぐったりと疲れた身体をソファに預けた小鳥遊は、両腕を顔の上に乗せて深く息を吐いた。
静かな夜だった。
音が家中の壁に吸い込まれているのではないかと思うほど、静かな夜だった。
……カチャ……。
そのとき耳にしたのは扉の開く音。
まるで誰かが遠慮がちに開けたような。
……誰でもない。
もう、誰もいない。
小鳥遊は溢れてきた涙を拭うこともせず、現実から逃れたいがばかりに、とうとう聞こえる筈のない音まで聞こえてきたのかと肩を震わせる。
……情けない。
両腕を下ろし、重い身体を起こしながら頭を振って顔を上げ、息を呑んだ。
空穂だ。
寝ぼけ
幻を見ているのだ、と思った。
幻聴の次は、幻覚か……と。それでも良いような気さえしていた。
……否、違う。
小鳥遊は自身の見ているものに、肌で感じる何かがあった。
人の発する熱量というのだろうか?
それは空穂が歩き、少しずつ近づいてくるその空間に生じる、子どもの
「お祖父ちゃま? ……どうしたの? 泣いているの? お身体が痛いの? 大丈夫? パパを呼びましょうか? ママは?」
凍りついたままの小鳥遊に、質問を浴びせる空穂はいつも通り可愛らしく小首を傾げて言った。
「お祖父ちゃま……? もしかして泣いているのは空穂たちが、お出掛けしちゃうのが寂しいから? ひとりぼっちは嫌よね? そしたら、お祖父ちゃまも一緒に行きましょうよ、ね?」
名案でしょうと優しく笑う空穂に、堪え切れなくなった小鳥遊は、自身の顔を両手で覆い隠すと、大きく頷き
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