Case 3 過去と未来を繋ぐもの ⑤



 小鳥遊たかなし弁護士事務所は、今でも空穂うつほの祖父が現役で働いている。

 とは言っても、今年九十四歳を迎える小鳥遊弁護士は、自身で案件を受け持つことはない。所長であることは変わらないものの、新米弁護士のアドバイザーのような立場である。石田が言うには、事務所の生き神様、生き字引の所長タヌキ先生さま、だそうだ。

 その石田は、今はこの事務所の共同経営者となっているから、倉部にとっては止まったままの時間も、ここでは確実に流れていた。小鳥遊弁護士事務所は、実質、石田弁護士事務所なのである。

 空穂がそれを知ったら、驚きで目を丸くするだろうと倉部は思う。決して悪い意味でなく、石田が小鳥遊弁護士事務所を残そうとしていることに対して、驚くだろう。


『石田さん、遠慮しないで事務所の名前変えちゃっていいのに。名前を消しちゃうのは、お祖父ちゃまに失礼? まさか。うーん……じゃあ、小鳥遊・石田弁護士事務所でいいじゃない?』

 空穂の明るい声。

 そして、安易な解決策だと石田が茶化すまで倉部には想像できるのだ。


 その空穂は、どこにも居ない。


「やぁ、倉部くん。今日はどうしたのかな? 空穂に進退でもあったんだろうか?」


 杖に時折、身体を預けてはいるものの、小鳥遊弁護士……空穂の祖父は自らの足で、ゆっくりとではあるが確かな足運びで、倉部の向かいの椅子のところまで歩いて来ながらそう言った。

 初めて空穂に小鳥遊弁護士を紹介してもらった時よりも、全体的にふたまわり程細くなったが、その顔を見れば、あの頃と寸分違わぬ強い意志の持ち主であることは容易に見てとれる。目の奥には、些細なことに喜びを見出せる人独特の輝きと、衰えぬ探究心が、歳を取った今でもあの頃と変わらず、小鳥遊弁護士を魅力ある人物にしていた。


 倉部が椅子から立ち上がり、頭を下げようとするのを鷹揚に手で制する。


「まあまあ、座って。今、お茶を持って来させるから、飲みながら話をしようじゃないか」

 

 小鳥遊弁護士事務所は、十坪と少しの広さに所長の他、三人の弁護士が勤務している。石田と若い弁護士二人である。

 オープンスペースに本棚やキャビネットで仕切りを作り、狭いながらも三人の執務室として確保している。

 倉部が通された応対室は、来客のない間は非常勤となっている小鳥遊弁護士の個室として使われているようだった。

 

「このところ私も、時折事務所に顔を出すだけになっていてね。いつ引退しても良いのだが、何しろ石田くんが辞めさせてくれなくて困っているんだよ」


 小鳥遊弁護士の話が聞こえていたのだろう。応対室の扉が開いて、お茶を運んで来た石田が二人に顔を顰めて見せた。


「そんなこと言って、また年寄りアピールですか? まだまだ僕は、先生が居てくれないと困るんですよ。使えない若手ばっかりじゃ、大変なのは僕ですからね。頭脳は現役なんですから所長タヌキ先生には若手を育ててもらわないと。……あっ、いま誰得なんだ? って思いましたね? 勿論、僕得ですよ。どう考えても、所長タヌキ先生に得はありませんからね」


 小鳥遊弁護士はひとしきり愉快そうに笑うと、お茶を置いて石田に出て行くように促す。

「今日は倉部くんとゆっくり話がしたい。しばらく部屋には誰も入れないでくれるかな」

 そう言ったのは、倉部のいつにない、ただならぬ様子に何か感じるところがあったのだろう。

 不服そうな振りをした石田が、部屋を出て行くのを見送った倉部と小鳥遊弁護士は、顔を見合わせてまた笑う。

「いい奴なんですが」

 そう倉部が言えば、小鳥遊弁護士も大きく頷く。

「そうだな。石田くんは、いい奴だよ。もちろん、君もな」

 それぞれがお茶に口をつけるしばらくの間、静寂な時間が流れた。


 扉越しに聞こえる椅子の軋む音。

 ぱらぱらと本を捲る音。

 倉部のかたん、と茶托に湯呑みを置く音。


 居住まいを正す倉部の仕草に、小鳥遊弁護士は両手を腹の上で組むと、双眸を閉じた。それは話を聞くときの準備が出来た、いつもの小鳥遊弁護士である。


「先ほど、似たような人が見つかったと知り合いから連絡があり、警察庁へ行って参りました。……空穂さんでは、ありませんでした」


 ほうっと息を吐く音。


 小鳥遊弁護士の双眸は、依然として閉じたままだ。倉部は続ける。


「……今日お伺いしたのは、その話とは別の件です。……わたしは以前、空穂さんはのだと言いました。ご両親のお墓参りの帰途、姿を消したのだ、と。

 当時、成人女性の失踪として、出来得る範囲内のあらゆる方法で、わたし達は一緒に捜索しました。その方法は、今でも間違っていなかったと思っています。

 しかしそれでは空穂さんを救うには至らない、と知っていた……。本当はあの時から、そのことは分かっていたんです。でも、ああした通常の方法で探すことしか出来なかった。

 ……もどかしい思いでした。

 なぜなら真実は、違うから……空穂さんは姿んです。言葉の綾というのではなく本当に……。

 今からお話しすることが、あの日、わたしと空穂さんに起きた全てです……」



 倉部と空穂は墓前に報告にあがるため、空穂の両親の墓がある、とある霊園を訪れた。インターチェンジから直ぐのその霊園で、二人で花を手向ながら空穂は「結婚することになりました」と墓石に向かって言った後、倉部を見て照れくさそうに笑った。


「石に向かって話すのって、なんだかへんだと思わない? まあ、この中にあるのは骨だから、仏壇に向かって話すのよりも近いってことなのかな。でも、よく亡くなった人は『お空から見てるのよ』って言うじゃない? そんな普段から見られてるなら、生きている者にはプライバシーも何もない、だだ漏れってやつよね。それでもやっぱり……見てくれてるのかな?」


 冗談紛れにそう言う空穂のその表情は、幼い女の子に戻ってしまったようだった。

 どこかで見てるのなら、教えて。

 本当は、会えないなんて寂しい。


「……なるほど。見られたらマズイことでもあるんだな?」

 倉部が、にやりと笑う。

「えっ? まあ……そりゃあ……ねえ? 全部見られてるなら……恥ずかしいこと、この上なしです」


 がくり、と俯く空穂の耳が赤くなっているのが見えて、倉部は思わず抱き寄せようとした手を途中で止める。

 ……見られている、か。

 そのやり場のない手で、空穂の頭をぐりぐりと撫でた。

「……お義父さん、お義母さん。ご心配な娘さんの空穂さんは、わたしに任せて下さい」

「誰が、どうご心配なのよ」

 空穂は顔を上げて、舌を覗かせている倉部を軽く睨む。


 次は、うちの両親だな。


 倉部の両親は、まだ空穂に会ったことはない。電話で簡単に報告をしただけで、後日互いの都合を合わせることになっていた。

 倉部の姉が最近、初孫を産んだことに浮かれ騒いでいた両親は、初孫自慢に花を咲かせてなかなか息子の電話の内容を理解出来ず、ようやく理解した後には此度こたびの息子の報告に絶句した後「そうか……いやあ、正直、親から見れば考えていることが分からないというか、変わり者のところがあるから結婚なんて出来ない……あ、いやいやいや。結婚はしない、と思っていたから何と言ったら良いのか……。そうか……それはまた……なぁ、母さん?」と、息子を彼等流に祝福したのだった。

 

「ね。帰る途中で、お夕飯のお買い物しましょうよ。一緒に食べるでしょ? 今日は何にしようか?」


 歩きながら空穂はそう言って、倉部を振り返ると後ろ向きのまま話続ける。


「……お肉か、お魚か。迷うなぁ。お祖父ちゃまは、意外とお肉派なのよね。湊さんはどっちが良い?」


 危ないから前を向いて喋りなよ、と倉部が言おうと口を開いたその瞬間。

 踵で躓き、仰向けに転ぼうとする空穂に手を差し伸べようとして、倉部は宙を掴む。


 ……。

 ……!?



 ふっと、音もなく突然。

 空穂は、消えたのだった。


 

 そのまま何も、出来なかった。

 伸ばした手を、戻すことも。

 足を踏み出すことも。

 叫ぶ?

 ……まさか。

 声なんて、出るわけがない。

 自分の身体と意識が切り離されてしまって、何ひとつ動かないのに?

 そんなことは、不可能だ。



 信じられないものを目にした時、人は為す術なくただその場に立ち続けるのは本当なんだと、その時のことを思い出す。


 倉部は今でも、自身の一部はあの霊園に置いたままになってしまっているように感じることがある。




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