Case 3 過去と未来を繋ぐもの ④
「ただいま」
龍之介が家に帰ると玄関からもうすでに、夕食の美味しそうな匂いがしていた。
途中にある洗面所で手を洗い、居間の扉を開ける。対面キッチンをまわり込み、冷蔵庫のドアをなんとなく開けた。冷蔵庫のドア越しに台所の奥を覗くと、レンジ台の前で母親が鍋の中を覗き込んでいる。
「おかえりなさい龍之介。冷蔵庫は意味なく開けないのよ」
喉が渇いたんだよ、と龍之介は言い訳しながら水出しルイボス茶を取り出した。
ちらりとこちらを見る母の視線を感じて、首をすくめる。
「お鍋、何?」
「これ? 筍とフキの煮物。おばあちゃんが送ってくれたのよ。今日はあと、菜の花のおひたしに鶏肉の照り煮。お味噌汁は
食卓を見れば、いつものように兄の分も同じように陰膳として用意されていた。
兄の無事を祈り供えた食膳。
「あれ? お父さんの分がないけど?」
「送迎会らしいわ。電話があったの」
龍之介はコップにルイボス茶を注ぐと、息継ぎなく飲み干した。
「……ふうん。お土産ないかな」
「まったく、小さな子どもみたいなこと言って。いくつになるんだか」
呆れたふうに首をふる母親の、いつのまにか龍之介よりも小さくなった背中を見て、子どもでいられるのは一体いつまでなんだろうと思う。
そして無条件に、兄も同じように歳を重ねていると思っていた自分に気づいて、はっとする。『並行世界』に消えてしまった兄は、この世界の常識とは外れたところに居るのだ。
もし、あの日のまま兄の時が止まっているとしたら……。龍之介の記憶に残る七歳の兄の笑顔。
ふと龍之介は思う。
自身より幼い兄が、再びこの世界に現れててもおかしくはないのだと。
「さて、出来た。ご飯が炊けたら、食べちゃいましょう。お母さん、お腹空いちゃった」
エプロンを外しながらそう言った後、続いて「ところで龍之介。アルバイトは、どうなの?」と龍之介が二人分の箸や茶碗を用意するその背中に向かって、母親の尋ねる声がした。
どきっとして、手が止まりそうになる。
顔を見られていない龍之介は、手の動きが疎かにならないように気をつながら、当たり障りのないことを話す。
「みんな良くしてくれるよ。良い人ばかりだし。難しいことのないアルバイトだし。今日なんてさ、お茶にお饅頭つきだよ」
「ふーん。お饅頭、美味しかった?」
「うん」
「分からないことは、ちゃんと聞いて、迷惑かけないのよ」
「うん」
母親は、それだけ言うと炊飯器の炊き上がりの電子音に気を取られて、龍之介から視線を外したようだった。
後ろめたいことなどありはしないのに、龍之介はうっすらと背中に、汗が浮かんでいるのを感じる。
鶏の照り煮は、龍之介の好きなものの一つだ。照り焼きに似ているが、焼いておらず、お酢を加えて煮ているので、それよりもさっぱりしている。添えられた白髪葱は、幼い頃は苦手だったが、いまは不可欠である。口いっぱいに頬張りながら、そういえば、兄もこれが好物だったと考えていた。
「……お母さん。お兄ちゃんのこと、聞いてもいいかな?」
母親と向かい合ってご飯を食べていた龍之介が、突然その手を止めて茶碗の中の白米をじっと眺めながらそう言った。
そんな龍之介の思い詰めたような様子に、母親が心配そうな視線を投げかける。母親が、良いとも悪いとも答える前に、龍之介は質問を続けていた。
「お兄ちゃんは、戻って来ると思う? もし、もしも、だよ? お兄ちゃんが、あの日の姿のまま戻って来たら、お母さんは怖い? それとも、成長したお兄ちゃんだったら……ぼくたちちゃんと、分かるかな?」
箸を置いた母親は、龍之介の顔を見ながらゆっくりと考えるように話す。
「そうねぇ。どんなに月日が経っても、覚えているのは、七歳の
だけどそのうち、わたし達だけが歳を取っていて、朔ちゃんが成長していないことに不安になるかも? ……うーん。そうかなぁ? なるかなぁ? 怖いこと言うかもしれないけど、お母さんは、それでもいい。正直に言うとね。だって知らないところで成長した朔ちゃんを、突然、受け入れる方が難しいかもって思うのよね。
この青年が、あなたの息子の朔太郎ですって、いきなり連れて来られても、ようやく会えた嬉しいって思った次の瞬間から、時間が経つにつれて疑念が生じてくるのは拭えないと思うの。たとえ息子と科学的に証明されても、離れていた間の訳の分からない不安から、似ているところよりも違うところを探してしまうような気がする。目の前の朔太郎は、同じ朔ちゃんじゃないかもって。そうやって、目の前の息子の共有するはずだった空白の時間から逃げられない恐怖のほうが、わたしは怖いかもしれない。
……おかしいかしら? でも、きっとお父さんは違うわね。七歳のままの朔ちゃんを気味悪がって、歳相応の朔太郎を受け入れるような気がする。
お母さんも、お父さんも、同じように朔ちゃんは、何処かで生きていると信じているのにね。お父さんの方が現実的なのかもしれないわね。
……龍之介は?」
龍之介もまた、手に持つ茶碗の中に答えがあるかのように、じっと覗き込むようにしたまま一言ひとこと考えながら話す。
「今まで、いつかお兄ちゃんは帰ってくるとしか考えてなかった。
どんな姿とか、どんな年齢とか……全然、考えてなかった。鶏肉の照り煮、好物だけど小さい頃は白髪葱苦手で、お兄ちゃんもそうだったなぁって考えていて、ふと思ったんだ。お兄ちゃんも成長してるんだよね? ってさ。そしたら見て分かるかなって。
……ぼくは……ぼくが、弟だからそう思うのかもしれないけど……小さいお兄ちゃんは、違和感あるかな。でも、覚えてるのはあのお兄ちゃんなんだよね」
「そうよねぇ。ふふ。思い出すのは、生意気な七歳の朔太郎よね。大きくなった姿は想像もつかないわよね」
食卓の上に置かれた、兄の留守の無事を祈る陰膳に、二人で目をやる。
再び箸を取り上げた母親に龍之介は促されて、自身も箸を動かす。
フキの煮物は春の味がした。
……カチッ。
時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
龍之介は、その音ではっと目が覚める。耳の奥底で低く、心臓の打つ音が聞こえた。
深い眠りから突然浮上してしまうような、そんな夢を見ていたような気がする。
しかし、内容は全く覚えていなかった。所詮は夢だと、龍之介は毛布の中に眠りを求めて潜り込む。
ああそうか、倉部さんだ。
ぼくは倉部さんを気にしているから……。
再び眠りに落ちる瞬間、うとうとしながらも、龍之介は明日の始発で事務所に顔を出さなければと思っていた。誰よりも早く、行かなければならない、と働かない頭で考えている。
何故だろう?
倉部が呼んでいるような気がするのだ。そして今まで尋ねたことはないが、倉部はそこで頻繁に寝泊まりしているような気がしたのである。いや、確信していると言ってもよかった。家に、帰りたくても帰れない倉部。
……そうだ。
だって、倉部さんは……。
唐突に闇の中から現れた眠りが、沈みゆく龍之介を、ゆっくりと優しく抱きとめた。
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