Case 3 過去と未来を繋ぐもの
山縣の去った事務所は、なんとなくがらんとしてしまったような気さえする。
帰り際に山縣は、倉部の顔を真っ直ぐに見て言った。
「ボクは最近まで、この事務所が変わってしまったと思っていた。でもね、根本的なことは変わってないんだなってね、理解するまで時間がかかってしまったよ。アプローチが増えたんだと、ようやく気づいたんだ」
そして、にやっと笑ったかと思えば「ボクは暇をしているから、ボランティアで手助け出来ることがあったら声を掛けてよ。ハハハ。探偵みたいな真似事が好きな、家内の方が適任かもしれないがね。彼女は『ポアロ』だが、ボクはその助手以下かもなぁ」
そう言って事務所を出て行ったのだった。
「チーフ? なんかデスクの方で携帯鳴ってますよ? あの個性のない着信音は、チーフのだと思いますケド?」
応接室の扉から身体半分を、聞き耳を立てるようにデスクの方へ乗り出しながら、鬼海が言った。
「そういや自分、チーフが走ってるのって見たことないかもなー」
大股歩きで応接室を出て行く倉部を見ながら、鬼海は呟く。
「龍之介くんは、見たことある? ややっ? ……自分の方が付き合い長いのか。あはは。そうでした、そうでしたっと」
頭の後ろに手を組み応接室を出て行こうとした鬼海が、扉のところで躓くのを見た龍之介は、テーブル布巾を握りしめたまま、クスッと笑ってその姿を見送った。
給湯室からはユキが小さく歌う声が、食器を洗う音に混じって微かに聞こえる。
龍之介はもう一度応接室をざっと見渡し、床に置かれたままの段ボール箱に気づくと、互い違いになるように蓋を閉め再びキャビネットの上に片付けようと箱を持ち上げた。
その重さに酒井を想い、あらためて龍之介の胸は痛む。
龍之介がユキと片付けを終えて事務所に戻るのと、ちょうど倉部が携帯電話を切るのとが同時だった為、その電話の内容を窺い知ることは出来なかったものの、それは倉部にとってあまり良くない知らせであることは、一目瞭然だった。
「何か、あったんですか?」
そっと鬼海にユキが尋ねる。
いつになく真面目な顔をした鬼海が、小さく首を振る。
会話を終えるや否や無言でジャケットを羽織り、ズボンのポケットに携帯電話を捻じ込む様子からも、いつもとは違う緊張感が見てとれた。
「すまない、ちょっと出て来る。龍之介、時間になったら帰れよ。鬼海もユキも、俺が遅いようなら待たずに事務所を閉めて終わりにしてくれて構わないから」
そう言うと倉部は、一度も振り返ることなく事務所を出て行ってしまった。
「誰からの電話だったんですか?」
倉部の姿が完全に見えなくなるのを待って、龍之介は鬼海に尋ねた。
「うーん。はっきりとは分からないケド、あれは柴崎さんだと思うなー」
「……事務所じゃなくて、倉部さんの携帯に? 個人的なことかしら?」
人差し指を唇にあてて考えるユキの姿に、鬼海は頬を緩ませる。
「個人的なこと、ですか? そういえば倉部さん、以前は警察庁に居たとかおっしゃっていましたよね?」
龍之介の言葉に、鬼海は頷く。
「うん。これは自分が言って良いことかどうか悩むトコなんだけど……。ま、いっか。倉部さんには探している人がいるのは、知ってるよね?」
対して悩む様子もなく、鬼海はさらりと言った。
「……はい」
「その人さ、倉部さんの婚約者なんだ。弁護士さんのお手伝いをする仕事をしていて、倉部さんと知り合った。どういう出会いかまでは、知らないよ? 柴崎さんとも知り合いみたいだし。チーフがこの事務所に来ることになったのも、『並行世界』を信じるきっかけになったのも、その人がいるから。……ん? いたから? アレ? 消えたから?」
こほん、とこれ見よがしな咳をひとつした鬼海は続けて言った。
「チーフは……倉部さんは見たんだ。龍之介くんのようにね。目の前で、その人が忽然と消えるのをさ」
倉部は自然と、急ぎ足から駆け足になるのを堪える。
『千葉県の海岸で、身元不明の遺体が打ち上げられたそうだ。……あいつと歳格好が一致するから、本社に顔出せ。ま、違うとは思うが念のためにな。その携帯にファイルを送るわけにもいかないからよ』
柴崎の困ったときの癖で、頭をガシガシと搔く音まで聞こえてきそうだった。
分かりましたと短く答える自身の声が、どこか遠くで響く。
歩くのがこんなにも、もどかしいなんて。
やはりタクシーで行くか、と通りを見渡す。
倉部の頭の中には、最悪の結末が渦巻いていた。
あいつと柴崎が呼ぶ、
祖父の弁護士事務所に大学卒業後、パラリーガルとして働いていた
髪の長さはショートボブ。化粧っ気もなく、くっきりとした目鼻立ちのどちらかと言えば勝気な女性である。
倉部とのなれそめを友人に聞かれた時に、
しかし、空穂にとっては誰が何と言おうと「夢の中で繰り返し出会う知らない人」が、実際に目の前に現れたことから興味を抱いたのが倉部だったのである。
銀杏並木が、黄金色に輝く秋の日。そのいちばん綺麗な時間、夕暮れ。
祖父の小さな弁護士事務所のパラリーガルといっても、その仕事は法律を扱う仕事よりも、今はまだ事務所にいる三人の弁護士のスケジュール管理や来客対応、郵便物の発送や管理、お茶出しなど秘書業務の方が多かった。あと数年もすれば、やがては起案やヒアリングなど、弁護士補助業務も増えてくるだろうが、なにせベテランのパラリーガルさんが幅を利かせていることもあり、ともすればアルバイトのようである。
その日も郵便物を出したあと、身軽になった空穂は、のんびり散歩をしながら事務所に戻る途中だった。祖父ともう一人は民事事件のみを取り扱う弁護士だったが、事務所には一人だけ刑事事件を取り扱うことを厭わない弁護士がいる。得意、不得意もさることながら、刑事事件は、その証拠集めをはじめとする手続きの煩雑さや、裁判が長期化しやすいことから、祖父の小さな事務所は民事事件を専門として立ち上げた。いわゆるマチ弁である。……立ち上げた筈だったが、最後に採用した一人が変わり者だったため、時折刑事事件も手掛けることとなったのだ。
「てっきり独立するもんだと思っていたんだがなぁ」
祖父がそう嘆くのが、事務所に来て八年を過ぎるこの変わり者のイソ弁である。
振った後で、しまったと思う。
石田は一人ではなく、連れがあるようだった。その隣りを歩く人物は背が高く、痩せ型だが筋肉質で、しっかりとした足取り。まるで自分に自信があるようにも見えるその様子は、近づくにつれて顔がはっきりと見えるようになればなるほど分かった。容姿端麗、というやつである。
やな感じ。
そう思った
夢の中に繰り返し出てくる見ず知らずの人物、その人だったからである。
「空穂さん、お使い? あ、コレ僕の大学時代の友人の倉部。倉部、
これもまた、夢なのだろうか。
現実の曖昧さに、ぼんやりしていた空穂の耳に入ってきた石田のその適当な紹介の仕方は「何なのよ。まったくもう」と軽く睨むが、当の石田はどこ吹く風だ。
「はじめまして。友人の倉部です」
初めて会う筈の彼の声に空穂は、胸が締め付けられそうな懐かしさを感じる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます