閑話 山縣の話③


 「……それだけじゃないですよね? 山縣さんの話からすれば、田邊夫妻がデパ地下で先に声を掛けています。つまり、どちらの田邊夫妻の『並行世界』にも山縣さんが同じように存在しているということになりますよね?」


 龍之介がそう言って山縣を見ると、きっぱりと頷き返された。

「そう。まさに、その通りだ」

 茶碗を抱えたまま話し込んでいた山縣は、再びお茶をひと口飲んで茶托に戻す。

「……その日も街歩きから帰るや否や、家内はその話さ」




 その日、街歩きから帰った山縣は、疲れた身体をソファに投げ出すようにどっかりと腰を下ろした。冷房の効いた室内の有り難さ。山縣は軽く目蓋を閉じて、ふぅと大きく息を吐いた。心地よい疲労が、冷たい空気の中にゆっくりと溶け出すようだった。

 喉が渇いたと思う間もなく、冷蔵庫の開く音、ガラス同士がぶつかる高い音に続いてドアがぱたんと閉まる音が聞こえたかと思うと、正面に何かの気配を感じた。薄く目を開けると、冷たい麦茶をいれたグラスを手渡ししようとする妻が目の前に立っている。


「いやぁ、済まない。ありがとう」

 山縣はひと息で飲み干し、唸り声と共にソファに再び背を預ける。

「で、どうでした? 田邊夫妻はいらしてたの?」

 空になったグラスを受け取りながらそう尋ねる妻の顔は、帰るのを待ち構えていたのがありありと分かる表情をしていて、尚且なおかつ物語の続きをねだる幼いの頃息子によく似ていた。


 やっぱり親子だなぁ。


 山縣が変なところで感心しているのを目敏く見抜いた妻は、そんなことは良いから、とでも言いたげな顔で繰り返し尋ねる。

「いらしてたんでしょ? あなた、お礼を言うって言っていたじゃないの」

 まあまあ、と山縣は両の掌を妻に向かって翳しなだめると、自身の座るソファの隣をポンと叩いて座るよう促した。

「ささ、座ったすわった。話はそれからだよ」

 そして妻がグラスを置きに台所へ行き、ソファに戻り座るのを待ってから山縣は話し始めた。


 今日の街歩きで田邊夫妻に会ったこと。

 そこで先日のお礼を言ったが、見に覚えが無いと首を傾げていたこと。

 しかし、冗談めかして確かめてみたところ、やはり忘れ物を取りに戻ったときに見かけた田邊夫妻が、今日街歩きで一緒だった二人のような気がすること。


 途中で口を挟むことなく最後まで聞いていた妻が、話終えた山縣に問いかけた。


「ねえ。あの日、あなたに声を掛けてきた田邊夫妻は、今日会った田邊夫妻と全く同じだった?」

 思っても見なかった問いに、山縣は考え込んでしまった。


 同じ?

 ……違うところ?


「うーん。いつも洒落ていて、中折れ帽が似合うって言ったよね? そこは同じだったなぁ。……えーっとね。うーん……? あ!」

 ポンと膝を打つ山縣に、ずいっと顔を近づける妻を見て笑う。

「いやいや、大したことないかもしれないけどね。気さくな人だとは思っていたけれど、まさか背後から手を置くようにして話しかけられるとは思っても見なかったなぁ、ってさ。

 あの時、ひとは見掛けによらないな、と一瞬思ったんだよなぁ。今日会った時も、そんなふうにするような人じゃなさそうだった。……うん。何て言うか、親しき中にも礼儀あり? あれ? 使い方違う?」


 それを聞いた山縣の妻は、あっけらかんと言ったのだ。


「それならやっぱり、今日の田邊夫妻とあの日の田邊夫妻は違うのかも。やっぱり第三者の見るドッペルゲンガーって別の世界のその人なんじゃないのかしら? あの日の田邊夫妻は、この世界に紛れ込んでしまった別の世界の田邊夫妻なんじゃないのかしら? いえ、待って。あなたが行ったあの喫茶店カフェーが……?」


 山縣は頭がこんがらがりそうだった。


「どういうことだい?」

「それより、他には何か違いはないの?」


 山縣は腕を組み、思い出そうとするときの癖で目をつぶって顔の中心にぐうと力を込める。


「うーん。……奥さんが……アレ? 奥さんの顔って……アレ? 顎に黒子ほくろがない……? あれ?」

 ソファから軽く腰を浮かせて、ズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出した。

 保存してある写真一覧を表示すると、目的のものを選び、その画面を妻に向かって見せる。

「今日の写真。集合した時のだ。見てほら、これが田邊夫妻」

 指で拡大して見せた。

「あら。話で聞いているのと、見るのでは違うわね」

「ん? 見せたことなかったかな」

「ないわよ……。うーん。この方達が……」

 五十を過ぎてからは、いつも首から紐で下げている老眼鏡を掛けると、顔を近づけるようにして携帯の画面を見ている。

「ほら、持って良く見てごらんよ」

 手渡された携帯の画面を、指で大きくしたり小さくしたりと動かすたびに、首までひょこひょこ動くなんだか滑稽な様子に、山縣は思わず吹き出してしまう。

「……いやぁね、笑わないちょうだい。ふーん。あなたの話を聞いて思っていたことなんだけど、田邊夫妻って奥さまの印象が薄いわよね? 悪く言っているわけじゃないのよ? ホラ、昔の奥方さまは奥ゆかしいっていうの? 三歩下がって……みたいな。上品そうで、まさにそんな感じの方よね?」


 なるほど。そう言われてみれば、そうかもしれないと山縣は今さらながらに思った。

「そういえば、いつもにこにこ笑った表情で、話すところをあんまり見ていないかもしれないなぁ。うん。その奥さんが、次は家内とも話したいなんて言うから、実はちょっと驚いたんだった」

 携帯電話を返して貰った山縣は、再び画面をじっと見ながら、何やら考え込んでいる様子だった。


「……何? どうしたの?」

「やっぱり、違うかもしれない。いや、ボクの記憶違いかもしれないけど、あの日一緒にお茶をした田邊夫妻の奥さん、顎に結構目立つ黒子ほくろがあったと思う。この写真の奥さんとも良く似た感じなんだけど……やっぱり別の人のような気がする……」

 



 ユキの小さく息を呑む音が聞こえた。


「……それって……?」

 首だけを動かして、山縣は左側の一人掛けの椅子に座るユキを、見る。

「あの短時間に、擦れ違うかのように現れた田邊夫妻。そのどちらのご夫婦も、長年連れ添った者にしか分からない阿吽あうんの呼吸とでもいうのかなあ……。それが感じられるんだよ。二人でいるのがっていうかさ。で、ボクと家内はその疑問を解決するために、ちょっとした仮説を立ててそれが正しいのかどうか、確かめることにしたんだ。まあ、出来る範囲で検証することにしたってことだ」


 その仮説とは二つ。


 ひとつ。もし、街歩きをした田邊夫妻を、本物とするならば、お茶をした田邊夫妻は、ドッペルゲンガー、(……この場合、ドッペルゲンガーの特徴「話をしない」には当てはまらないが)あるいは『並行世界』の人物である。


 ふたつ。もし、山縣が『並行世界』にしまったための田邊夫妻との遭遇ならば、元の世界に戻るきっかけとなったのは、忘れ物をして戻ったあの喫茶店カフェーの扉である。なぜならそこには、一緒に街歩きをした田邊夫妻がいたから。

 

 

 ソファから立ち上がり、仮説を立てながら山縣の目の前を行ったり来たりする妻は、いつになく顔を輝かせていた。


「なんだかそれって『並行世界』を前提とした考えよね? でもまぁ、それを検証すると『並行世界』が実際に存在している可能性も高くなるわよね? うん」

 ひとりで喋って、ひとりで頷く。


 楽しそうだな。


 山縣は街歩きの疲れと、冷房の効いた室内の心地よさに次第に目蓋が重くなってくる。妻の声はまるで眠りを誘う催眠術のようだ。


「……決めた。あら? あなた? ちょっと、あなた。……もうっ起きてちょうだい」

 

 微睡む気持ち良さを、遠慮なく引き剥がすように山縣の身体を揺さぶる妻の顔を見て「姿は歳をとれども心は変わらず、お義父さん彼女はいまでも夢見る夢子ちゃんですよ」と呟く。


「寝ぼけてるの? やぁねえ」

 



 そうしてボクと家内は、今にも飛び出して行きそうな家内を説得して、後日その仮説を検証するべく街へ繰り出したってわけだ。

 どこへ行ったのかって?

 ドッペルゲンガーの現れるところは、其の一、その本人と関係のある場所に出現するってやつだよ。

 つまりは田邊夫妻の行きつけの喫茶店カフェーに日参したわけだ。まぁ、暇な我々だからこそ出来ることだがね。

 それにね、家内の仮説によれば、あの暑い日に『並行世界』に紛れ込んじゃったのは、ボクかもしれないって言うんだからさ。それで元に戻るきっかけが、あの喫茶店カフェーだとしたらそれも分かって一石二鳥よって。


 そうして何日か通って、ついに田邊夫妻に会うことが出来たんだ。

 いや。すぐには声は掛けなかった。

 家内がね、出来れば田邊夫妻二人ではなく、田邊氏ひとりと話がしたいって言うもんだからさ。



「どうして? ちょっとは考えてみなさいよ。奥様も一緒にいるときに聞ける話なわけないじゃない」

 メニューを見ながら、田邊夫妻の方を見るという荒技をやってのける妻に山縣は、首を竦めてコーヒーを飲むということをしてみせた。

「じゃあ、どうするんだい?」

「今日はダメ。ひとりで居る時まで何度も通って待つの」

 もしかして、それでじっくりメニューを見て次に備えているわけか、とは口に出来ない山縣だった。



 まったく家内には、恐れいるよ。

 通ったねぇ。冗談で、探偵事務所でパート出来るんじゃないのって言ったぐらいさ。

 まあそのおかげで、ついにチャンスが訪れたわけだ。

 ……そう。田邊氏ひとりの、ね。



「こんにちは。めずらしく、おひとりですか?」


 喫茶店カフェーの扉を潜ると、そこには田邊氏ひとりの姿があった。

 何度もこの店で顔を合わせるだけだった妻を、紹介する。

「こちら家内です」

  妻がにっこりと笑って頭を下げる。

「そしてこちらが、いつも良くしてくださっている街歩きがご縁で知り合った田邊さん」

「やぁ、はじめまして。どうですか? 良かったらご一緒しませんか?」

 田邊氏に進められ、失礼に当たらないよう遠慮がちに断る姿勢を一度見せるが、さらに進められたため、妻の内心の踊りだしそうな喜びを、山縣の背中で隠しながら同じテーブルに着いた。


「今日、奥様は……?」

「ああ、アレは女学校時代の友人と出掛けておりましてね」


 山縣がどう切り出すか迷っているときに、妻は隣でさっさとコーヒーと、いちごチーズタルト注文している。


「お帽子の似合う方って素敵ですよね」

 飲み物と食べ物が運ばれて、ひと息ついた頃合いを見計らい、田邊氏のすぐ傍に置かれた中折れ帽に妻が目線を送りながら言った。

「私の父も出掛ける時は、きちんと帽子を被っていましたわ。夏には麻の白い帽子がお気に入りで……昔の男の人はお洒落も素敵でしたよね。主人は帽子が似合わなくて、ガッカリですのよ」


 大げさに嘆いてみせる妻に、山縣は隣りで困り顔をしてみせる。しかし演技ではない。この話はどこに向かっているのか、と本当に困惑していたのだった。


「なあに、帽子は被っていれば、似合うようになりますよ。いやしかし、そうですな。私が子どもの頃の日本人は、しゃんと背筋の伸びた洒落た大人が多かったような気がします。今の時代のように若々しいだけで中身がないような……いやいや、山縣さんのことではありませんよ」


 田邊氏の朗らかな様子に、山縣はホッとすると同時に、妻の尻から矢印のついた尻尾が見えるのではないかと思わず横目で確認してしまう。


「いやぁ、ボクなんか中身もないどころか、外見もコレですからね。ボクの努力と言うよりも、家内のおかげでこうして結婚出来ましたが、田邊さんは若い頃から女性が放っておかなかったんじゃないですか?」

 ちらりと妻の顔を見れば、良くやったと書いてあった。よし、やった。と山縣はテーブルの下で拳を握りしめる。


「そんなことはないですよ。初恋は実らないとは良く言ったもんです。アレは……妻は色々と良くしてくれますが、歳を取っても昔のことは良く覚えているものです。実は私の初恋は妻の友人でして……。もちろんアレも……いや、妻も知っていますよ。失恋した私を慰めてくれたのが今の妻なんですよ」



 田邊氏の話は、学生時代。

 駅で見かける女学校の生徒に一目惚れしたんだそうだよ。

 実際、田邊氏は今もってひどく格好良くてね。ありゃモテただろうなぁ。家内が聞き出すところによれば、手紙を手渡しされるだけじゃなくて、いつの間にか鞄に入っていることもあったとかさ。

 ……そんなモテモテの田邊氏でも初恋には破れるわけだ。それにしても、恋煩いの辛さを語る田邊氏の素敵なことったら。家内なんて、こう目がハートになるってね? 

 とにかく田邊氏も頑張った。勇気を出して手紙を書いて渡したらしいんだ。女の子は友人達三人一緒で、きゃあきゃあ言って。田邊氏はひとり。いやぁ、格好良いねぇ。

 二度ほど他愛のない手紙のやり取りをしたんだけれど、三度目の返事に、もうこれ以上は続けられないって書かれていたそうだよ。

 で、落ち込んでいた日々が長くながく続いたとき、駅のホームのベンチでひとりのところを話しかけたのが今の奥さんらしい。

 よく似た背格好で、夕陽を背にしていたもんだから、はじめは初恋の彼女が話しかけてくれたのかと勘違いしそうになったよと苦笑いしていたなぁ。

 ……ん? うん、そうみたいだね。女の子達、友人三人は皆とても仲が良くて背格好もまた、よく似ていたんだって。その中でいちばん可愛かったのが、一目惚れした初恋の君らしいよ。ハハハ。

 家内?

 うん、そう言ってたよ。


「……そうですか。一途なんですねぇ。……じゃあもし初恋が実っていたら……ごめんなさい、こんなことは奥様に失礼とは思いますが、初恋の君とご結婚なさっていたりして」

 田邊氏は鷹揚に笑うと「かもしれませんな」と言った。

「もしあの時、私があっさりと諦めたりせずに、彼女に真意を確かめていればそうだったかもしれません」


「どういうことですか?」

 コーヒーを口に持っていこうとしていた山縣は、途中で手を止める。

「アレが言ってたのですよ。……金婚式が過ぎた頃。初恋の彼女もまた、私のことを想っていたんだとね。手紙を続けられないと書いたのは、あの仲良し三人が皆私のフアンで、ひとりだけズルをしているようだったからって。……本当にズルをしたのはワタシですって、アレが泣いたんだよ。金婚式を迎えても、罪の意識が消えないって。……正直、驚きましたよ。でもねえ。長い年月、一緒に苦楽を共にしてくれば、アレはもう私の掛け替えのない伴侶ですよ。それに彼女以外に、私の妻は務まりませんでしょうな」



 ……というわけだよ。

 そして家に帰ったボクと家内は、あの日の田邊夫妻は『並行世界』から紛れ込んでしまったした田邊夫妻、との結論を出したわけだ。

 何故かって? 家内がねぇ、思い切った質問をしたんだ。



「おかしなことを聞くようですけど、初恋の君のこの辺りに、黒子ほくろとかありません?」

 顎の辺りに指を置く妻の顔を見て、驚きながらも田邊氏が答えた。

「どういうことですかな? 確かにその彼女には、黒子ほくろがありましたよ。色っぽい黒子ほくろでね……いや、失礼」



 家内はその答えを聞いて、ひどく満足そうに頷いていたよ。

 と、まあこんな訳だ。

 ボクの方が『並行世界』に紛れ込んだのかどうかは、検証しようがないがね。


 …… 買い物? うん、最中もなかね。……お金? いや、カード支払いだったから現金は使ってないよ? え? ハハハ。まさか。……うーん。そういえば、帰るついでに、あのデパ地下に同じ最中もなかを買いに行ったら「その商品は取り扱っておりません」って言われてね。家内が残念がっていたなぁ。

 え? 何? どうしたの? 

 もうひとつの家内の仮説? 喫茶店カフェーの扉云々? 

 さてね。もしそうなら、ボクは運が良かったんだなぁ。ハハハ。



 「確かめたくなるな」


 山縣が機嫌よく事務所を去って行った後、倉部がぽつりと呟いた。

「じゃあ、お茶行きますか? 行きましょう!」

 はしゃぐ鬼海をじろっと睨めつける。

「お前は、どれだけ飲んだり食ったりするんだよ」

 テーブルを片付ける龍之介とユキに、鬼海が悲しそうな視線を投げかけるも、するりとかわされる。


「……どうなんですかね?」

 テーブルを拭く龍之介が、突然その手を休めて誰ともなしに尋ねる。

 それに対する倉部の出した答えは、次の言葉だった。

「多分、山縣さんの方が気づかないうちに『並行世界』に紛れ込んだんだろうな。喫茶店カフェーを行ったり来たりしているうちに、元の世界に戻った、と」

 

 そんな風に、もしかしたら誰もが皆、一度くらいは自身の知らないうちに『並行世界』を行き来しているのだろうか。

 ドッペルゲンガーとは、やはり『並行世界』に紛れ込んだ知人をこと、あるいは向こうからを見て、起こる現象なのではないだろうか。


 再びテーブルを拭く手を動かしながら龍之介は、ふとそう思ったのだった。

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