閑話 山縣の話②


 「ドッペルゲンガー……ですか?」


 龍之介の言葉に、山縣は微笑む。

「そうだよ。えーっと……龍之介くんと言ったかな?」

 ユキと席を替わった龍之介は、ソファに倉部と鬼海と並んで座っていた。センターテーブルを挟んで向かい合って座る山縣の優しい視線を受け止めて頷く。


「面白い偶然もあるものだな。……芥川龍之介、知っているだろう? 君と同じ名前の彼もまた、ドッペルゲンガーに悩まされたひとりなんだよ。

 芥川龍之介は、二度ほどそれを経験していると言っている。確か、ドッペルゲンガーを取り扱った小説も書いていたなあ。

 ……ドッペルゲンガーとはね、そもそも自分で自分の姿を見てしまう鏡像という現象に過ぎないとされているんだ。それは視覚における現象で短時間で消えるとされている。まあ、なかには病が原因だと思われるものもあるから軽く考えてはいけないけれども、そういった視覚や脳の機能障害では説明できないケースというものが存在するんだ。

 それは『されるドッペルゲンガー』というのだがね」


「つまりそのドッペルゲンガーとは、鏡像なんかじゃなくて、自分以外のもう一人の自分なんですか?」

 

「そう。自分とそっくりの姿をした分身って言われている。超常現象のひとつでもある」

 続けて山縣は、ドッペルゲンガーの特徴といわれるものを、ひとつひとつ指を折り曲げながら話始めた。

「ドッペルゲンガーなる人物は其の一、その本人と関係のある場所に出現する。其の二、周囲の人間とは会話をしない。其の三、忽然と消えてしまう。さらには其の四、ドッペルゲンガーを本人が見ると死んでしまう、といった具合だな。これはあくまでもボクの持論だけど、最後の『見たら死ぬ』というのは、超常現象のドッペルゲンガーというよりも鏡像を見た本人が、それをもたらした病のせいで亡くなることから、ドッペルゲンガーを見たひとは死んでしまうと云われるようになった気がするけどね」


 そこで山縣は、龍之介に向けて折り曲げていた指を開くと、テーブルの上の饅頭をひとつ取った。それを旨そうに頬張り、熱いお茶をひと口飲む。


「錯覚とか人違いではないんですか?」

龍之介の言葉に、山縣は実に嬉しそうに笑った。

「ハハハ。まさに、奇妙な偶然だね。ドッペルゲンガーを見た芥川龍之介はそう聞かれて、こう答えたらしいよ。確か……そういってしまえば一番解決がつき易いが、なかなかそう言い切れない事がある……だったかな? そう言わせるなんて、どんなことがあったんだろうねぇ」


「奇妙なのはそのあとってのは、何なんですか?」

 それまで黙って聞いていた倉部が、山縣に尋ねた。

「そうそう、そのあとが奇妙だったんだよ。さっき僕がドッペルゲンガーの特徴として『周囲の人間とは会話をしない』って言ったのを覚えているかな?」




 夕食のあと、最中もなかを前に山縣は今日の出来事を妻に話していた。

 妻は美味しそうにそれをひと口齧ると、満足そうに口の両端をきゅっと上げる。よしよし、山縣はその表情を見て心の中で勝負ありと拳を突き上げた。


「ふーん、素敵なご夫婦なのね。田邊夫妻」

 そうなんだ、と湯呑みを両手で包み込むようにして持ちながら、相槌を打つ。

 鼻先に持ってきた熱い玄米茶の芳ばしさにうっとりとする。山縣は濃く淹れた緑茶も好きだが、最中もなかと一緒に味わう玄米茶はその皮の香りをさらに引き立てる気がして、とりわけ好きだった。


「だけどあなたが見たのは、本当にドッペルゲンガーだったのかしら? そもそも第三者の見るドッペルゲンガーって、もしかしたら本人とは違う別のもう一人だったりして」

 悪戯そうに笑う妻の目尻の細かな皺に、山縣は共に過ごした年月をしみじみ思う。そして、ふと見下ろした張りを失った自身の手の甲の滲み。 


 あとどれだけ、一緒に居られるだろう。


「……うーん。別人ってこと?」

「別世界のもう一人ってこと」


 妻は山縣に今読んでいる本の話をする。

「今の世界とよく似たもうひとつの世界に、同じような自分がいるって話なんだけれどね。並行世界? というらしいのだけれど、それを読んで思ったのよ。……えーっと何て言ったらいいのかしら? あの時こうしていたら今はどう違っていたんだろうって思うことあるじゃない? その選択しなかった、もう一方の世界っていうのかしら? 実はそんな世界が実際に存在していて、その世界にいるはずのもう一人の自分が、ちょっとした偶然でこっちの世界と交わって、たまたま姿を見られてしまったのが第三者の見るドッペルゲンガーなんじゃないかしら? ……なんて思ったりしたのよね」


 変なことを言ってる? と、恥ずかしそうに笑う妻の顔を見ながら、山縣は自身が辞める前の事務所のことを、ふと思い出した。


 こことよく似た、ここではない世界。

 その言葉を使っていたを知っていた。

 

 行方不明の身内を持つ人々の精神的な助けになれば、と立ち上げたあの事務所。

 その創設メンバーだった山縣は、代表者の酒井の様子が変わっていくのを目の当たりにしている。その頃しきりに耳に入ってきた『並行世界』という言葉。そのとは、酒井その人である。

 山縣自身はそれまでと変わらない仕事(弁護士を紹介したりカウンセラーを紹介したり、身元確認のための警察署へ同行するなど)をしていたが、その頃の酒井は当初の目的を見失なってしまったように見えた。そうして彼はしきりにを探しているようだった。不審に思い調べた『並行世界』という言葉に、山縣は愕然としたものだ。


 こんな馬鹿な話が、あるものなのか?

 いわゆる神隠しとしかいえないことが、実際にあるとでも?

 それを、どう信じろというのだろうか?


 そして山縣は悩むことを止めた。山縣は自身が出来ること、今までしてきたことを続けるだけだった。相談に訪れる被害者家族に対し、真摯な態度で親身になって相対する。

 同じく不審に思う創立メンバーが、一人辞め二人辞めしていく中で、山縣だけは当初の姿勢を崩さず最後まで事務所に残ろうと思っていた矢先の病発覚だった。

 やがて酒井自身の失踪により、事務所に居続ける意味もないように思えて、山縣自身も静養を理由に辞めてしまったのだ。

 それでも何故か、としか言いようにないが、気になり、通院の傍ら事務所に顔を出していた。確認するまでもなく山縣の業務もちゃんと引き継ぎされていたが、やはり何かがと思うのは自身が部外者になったからというばかりではなく、そこには以前より頻繁に口にされる『並行世界』という言葉。

 目には出来ないその不確かなものを、山縣も認めるしかないように思えた。


 この世界とは別の世界が存在すること。

 それも自身の背のすぐ後ろに。


「……並行世界か。あるのかもしれないなぁ」


 山縣がそう呟くのを、妻は聞き逃しはしなかった。


「まだまだ世の中には、不思議があるような気がするのよね。あなたがその不思議の一端を垣間見ることが出来たなんて、ちょっと羨ましいかも」


 そう言って微笑む妻の顔を見ながら、結婚したばかりの頃、義理の両親が「この子は、いつまでも夢見る夢子ちゃんで苦労をかけるわね」と山縣に言っていたことを思い出して勝手に笑みが溢れる。


「まあ、次の街歩きで会った時に、今度はボクからお茶にでも誘ってみようかな? ……ん? いやいや。ドッペルゲンガーの話は、無しでね」





 いやあ、ずいぶん長くなってしまったね。

 それでね、奇妙なのはその後。


 あの日から一週間くらい後かな? 街歩きに参加したら田邊夫妻もいらしてたんだ。

 集合場所で姿を見つけてね、先日はどうもと声を掛けたんだ。


 「田邊さん、先日は楽しい時間をありがとうございました。家内に話しましたらね、よろしければ次はぜひご一緒したいとそう言っていました」


 そしたら、何て答えたと思う?

 ……うん。そうなんだ。

 きょとんとした顔で、首を捻るんだよ。

 だからまたボクが言葉を重ねて、偶然お会いして行きつけの喫茶店カフェーでお茶をしたことを話したんだけれど、二人共全く覚えがないんだそうだ。


 その喫茶店カフェーは確かに行きつけで、その日と思われる日もそこに居たって言うんだよ。

 ボクが田邊夫妻から聞いた、田舎に移住しようとして次男に反対されたってのも実際のことらしいし、何だか訳が分からなくてね。

 

 冗談めかして言ったんだよ。


 ボクは暑い中、山から下りてきた狸にでも化かされていたのかなってね。もしかしてあの日、喫茶店カフェーでキッシュか何か召し上がっていませんでしたか? って。

 そしたらどうだろう?

 まさに、あの日の夕方、ボクが忘れ物をして戻った喫茶店カフェーでキッシュを食べていたと言うじゃないか。


 そうなると、ボクが一緒にお茶をした田邊夫妻は、一体誰なんだろう?

 ドッペルゲンガーは話をしないという特徴があるのならば、ボクとアレコレ話ながらお茶をしたのだから鏡像でもなく、紛れもなく本人なんだろうね? 

 またこのとき目の前に居て、ボクとはお茶をしなかったと言っているこちらの田邊夫妻も本人だとすると、ボクが会ったどちらかの夫妻はいわゆる『並行世界』の田邊夫妻ということになるんだろうか?


 それとも、もしかしてボクの方が『並行世界』に紛れ込んでしまったのかな?




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