第4章
閑話 山縣の話①
……そう。
これは、ボクの知人の話なんだけれどね。
いや、ボクの話でもあるな。
……どこからどう始めたものか。
その知人……そうだな。名前を仮に『田邊さん』としようか。
ボクが田邊さん夫婦と出会ったのは、趣味で始めた「街歩きの会」でね。
……といっても、まぁ、実のところ恥ずかしながらボクにはそれまで趣味がなくてね。家内に勧められて始めたのが、この「街歩き」体験ツアーなんだ。
医者にも歩くように言われているし、ひとりでふらふら歩くのも退屈だし。で、どうしたもんだろうと思っていたところに、家内がね……。
身体? いやぁ、なぁに大丈夫、大丈夫。もうすっかり調子は良いんだ。実はね。今日、最後のフォローも終えてね。
……いやいや、ありがとう。
これからは毎日が自由だよ。
ボクを見ないから心配していたって? やあ、嬉しいね。本当のところ事務所に顔を出さなかったのは、頻繁な通院がなくなったからってわけさ。……ハハハ。そう。正直ついでに言えば、通り道なんだから折角だから寄ろうかってことだったわけ。まあ、懐かしい顔を見たいってのもあるよ。……うん。
ははぁ、鬼海くんは差し入れを楽しみにしていたのか。そりゃあ、悪いことしちゃったなぁ。ハハハ。
えーっと……。
そうだね。趣味の話だ。
家内に勧められて始めたこの「街歩き」は、知らない
都内をあちこち出かけては……そうそう、知ってるねぇ。その通り。色んなテーマがあるんだよ。
ボクなんて、出身は長野県だからね。大学進学で初めて東京に来て、そのままこっちで就職して、結婚して、子どもが独立したのを機に、心機一転、この事務所。都内なんて、知っているようで、何も知らない。
家と会社の往復。たまの家族サービス。
趣味を持てって言われても、ポカンだよ。
……ハハハ。そうだね。それでも趣味を持っているひとはいるよなぁ。ハハハ、手厳しいなぁ。
ま、そんなこんなでこの趣味を介して出会ったのが『田邊さん』夫婦なんだ。
ウチ? ウチの家内? たまぁに、ね。
家内は庭いじりとか読書とか、どちらかというと自分ひとりで黙々とするのが好きでね。ただ、お菓子は作るのも食べるのも好きだから、スイーツ? のテーマのツアーには一緒に参加したりしてるよ。
ボクが外向きで、家内は内向き。
それは、お互いがよく分かっているからね。二人でお茶を飲みながら、ボクは家内に外の話をあれこれ。家内は子どもや孫のこと、読んだ本の話をあれこれ。……もう四十年以上か。
おっと、ちっとも話が進まないな。
いや。家内は、田邊さん夫婦には直接会ったことはないよ。ボクが参加するツアーは、地形や歴史探索とかそういうテーマが多くてね。彼らに初めて会ったのも、そんな感じのツアーだったよ。
それから何度か参加するツアーが同じで、顔見知りになってね。ツアーとは関係ないところで偶然にもばったり。
……ハハハ。
デパ地下、だよ。
街歩きに出掛けてたボクは、家に帰る前に家内に何か手土産でもって思ってね。
去年の夏だ。
そういえば、暑い日だったなぁ。
デパ地下に入ったのも、家内への手土産はもちろんだけど、いちばんの目的は涼むためのようなもの。
だけどね選び始めたら、そりゃあもう真剣だよ。……ハハハ。そうそう。目移りしちゃうよなぁ。それに、家内をあっと驚かせるのが好きなんだ。あいつは手厳しいから、滅多に誉めやしないんだけど、これどこの? 美味しいじゃない? なんて言われたもんなら、『勝った』ぞって……何の勝負なんだか。ハハハ。
まあそんな様子でね。
あちこち夢中でショーケースを覗き込んでいたら、背中を軽くぽんっと。
……そうそう。気さくな人なんだよ。
驚いて振り返ったら、帽子をこうやって……ちょっとだけ持ち上げてね。笑顔で軽く頷く旦那さんと、にこにこ笑う奥さんの田邊さん夫婦が居たんだ。
いつも一緒におられるんだよなぁ。
そうだねぇ。うん。仲が良いんだろうね。
二人共、いつ見てもお洒落でね。その日も旦那さんは、バシッと格好良くパナマハットなんか被っていて。中折れ帽が似合うひとには憧れちゃうな。ボクなんか真似したくても出来ないよ……ハハハ。
……ん? あ、そうそう。
奇遇ですね。お茶でもしませんかって、話になって……。
「いやぁ奇遇ですな。どうです? お茶でも?」
そう言われた山縣は、新作のスイーツを見つけたショーケースに、少し名残惜しい視線をちらり、と送ったものの妻への手土産に生モノは、よそうと諦めた。
そうなれば持ち歩き出来るもの。
山縣の頭はフル回転する。
妻はチョコレートも好きだが、こう暑いといくら保冷剤を一緒にしたところで溶けてしまうかもしれない。洋菓子か和菓子か。
「いいですね。お茶、しましょう」
そう答えながら、首を廻らせた山縣の目に、和菓子屋の暖簾が飛び込んできた。今回は
そうなったら先に済ませてしまおうかと思い、田邊夫婦に断りを告げ、その場から小走りに売り場へ向かった。
となればやはり
決断した山縣は早い。
てきぱきと買い物を済ませるとその足で二人と並んで、デパートを出て田邊夫妻行きつけの
太陽はすでに中天を過ぎ、早くも西に傾いているものの外はまだ酷い暑さである。熱を含んだ地面が、じっとりと身体にまとわりつく。呼吸をするたび肺の中まで熱気が入り込んで、まるでサウナさながらだ。
たどり着いた
田邊夫妻は共に昭和二十年の生まれで、ずっと東京育ち。山手線の内側から出たことがないから、田舎のある山縣を羨ましいと言った。
山や海の憧れからリタイヤ後の移住を考えたものの、歳を取ってからの田舎暮らしほど大変なものはない、と仕事の関係で地方に暮らす次男に「お父さん、理想と現実は違うんですよ」と反対されてしまったのだと残念そうに首を振った。
そのため、旅行で山や海を楽しんでいたが、このところは飛行機や船など宿泊を伴う遠出も億劫になり、もっぱら街歩きで足腰を鍛えているのだと笑う。
「そうですか。山縣さんは長野県のご出身でいらっしゃる。ご実家は、割烹料理屋さんですか」
話はいつの間にか、山縣の郷里のこととなった。
『小松』というのが、元の名前で『山縣』という名は妻の苗字であること。結婚したばかりの頃は、なかなか苗字に慣れず「ボクは結婚で名前の変わる女の人の気持ちが、よーく分かります」呼ばれていても気づかなかったこと。
山を見ながら育った山縣にとって、平野が続くというのはこういうものかと上京したばかりの頃、東京タワーから見た景色に「本当にどこまでもまっ
また山縣は、長く続いた実家の料理屋のそれも、兄の代で終わりだと田邊夫妻に言う。
「兄夫婦には、子どもがおりませんでね。昔は冗談にボクの子どもを一人養子に、なんて言ってましたが、姉が婿養子に出たボクにそんなことはさせられないだの、何だのと。
結局まあ、そんな時代でもナシ……。
そうそう、ボクと兄は七つ歳が離れているんです。間に先ほど少し話に出た姉がひとり、おりましてね。ボクは末の子だったもので、ずいぶん甘やかされて育ったと成長してからそのことに気づかされたもんです。
兄は田邊さんと同じ、昭和二十年生まれですよ。そう考えると、田邊さんはお若く見えるなあ。」
山縣はそう言って、美味そうにコーヒーをひと口飲んだ。
言われた方の田邊夫妻は、てんでにそんなことはない、若く見えるのは山縣の方だと笑う。
「私たちより、ひとまわり以上は若いと思っていましたよ」
それから三人は、共通して参加した前回の街歩きツアーでの話に花を咲かせる。
今度は是非、山縣さんの奥さまともお話したいわと、田邊夫人が言ったところで、お茶はお開きとなった。
水を湛えたような空の青は、いつの間にか燃えるような色に変わり、明日も良い天気になることを告げていた。
山縣と向き合った田邊氏が、中折れ帽を被り、流れるような動作で鍔にそっと指先を滑らす。夫人が軽くお辞儀をした。
自然とその場で左右に別れる。
つと振り返った山縣は、二人が仲良く腕を組み、遠くなるまでその姿を見ていた。
駅までの道を歩きながら山縣は、帰ったら妻に何から話そうかと考えを廻らせていたその時、手土産を持っていないことに気づく。
しまった、あの
山縣は回れ右をして、先ほどの店へと急ぎ戻る。ガラス扉の取手に手を掛け、引く。するりと身体を滑り込ませると、店員に忘れ物をしたことを告げた。
その時。
……店の奥に、居たんだ。
先ほど別れたばかりの田邊夫婦がね。
確かにあの二人だ。向かい合ってキッシュか何かを食べている。
おや? また戻って来たのかな?
声を掛けようとして、やめた。
なんだかおかしいぞって、思った。
戻って来たにしては早すぎるし、着ているものが違う……?
……そう。
ボクは、ドッペルゲンガーを見たんだ。
奇妙なのは、その後さ……。
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