Case 2ーcase closed


 「これ……僕の家……みたいだ。でも、どうして……?」

 龍之介が震える指先で取り出した一枚には、ややブレがあるものの、青々とした芝生の庭と赤茶色の煉瓦風の外壁、白い窓枠の大きな張り出し窓のある家が写っていた。

 全員が身を乗り出して、その写真を覗き込む。


「……あ」

 口元に手を当てて、ユキが小さな声を漏らした。

「それ、その写真。瑞紀みずきで撮った一枚です。……まさか、そんな……?」


 その写真を向い側の龍之介から奪い取った倉部は、センターテーブルの上にあった他の写真を無造作に脇に寄せると、皆によく見えるようにそこに置いた。


「龍之介、確かなのか?」

 倉部の言葉に、不安そうに龍之介は頷く。

「この張り出し窓。ここから庭に出られるようになっていて、これは母のこだわりのひとつなんです。『あの映画に出てくるような家に住みたい』と言う母の希望を叶えるため、建築家の友人と一緒に母のお気に入りの映画に出てくる家を模倣して設計したとか……。それに、ここ。よく見ないと分からないんですけど、この窓枠の角……欠けちゃってますよね? あれ? だけどこれ……左右逆だ……」


 その箇所を指を差していた龍之介の動きが、ぴたりと止まる。


「……じゃあこれは……『並行世界』の僕の家……?」


 突然弾かれたように顔を上げた龍之介は、掴みがからんとばかりに、隣に座るユキの方へ身を乗り出して尋ねた。


「これっあのっッ『入り口』が事務所の近くにあったって言っていましたよね? 今も、今もあるんですよね?」


 その龍之介の必死さは、何の根拠もなしに、そこに居なくなった兄がいると確信しているかのようだった。

 そんな龍之介に、ユキは気まずそうに、やんわりと応える。

「言いにくいんだけど、この『入り口』はもうないの。いつまでもある『入り口』もあるんだけど……これはその後しばらくして、酒井さんと再び行った時にはもう消えてた。……確か、瑞紀がそこに入ってから二か月くらい後には、もう……」


 がっくりと項垂うなだれた龍之介に、倉部が優しく声をかける。


「……焦る気持ちは、分かる。だけどな、龍之介。この手記が書かれたのは、今から十年も前だ。焦ったところで、過去には戻れない。時間は残酷だよな? うん。そうだよな……だが、諦めたらすべてが終わる。お前は、諦めないんだろう? だったら顔を上げろ。……大丈夫、不安なのは俺も同じだよ」


 倉部の言葉に、龍之介はゆっくりと顔を上げた。

「……倉部さん?」

「まずは手記を読んじまおう。俺の話は、それからで良い。……鬼海、後どれくらいだ?」

「えーっとですね。 うーん? これ日付の記載は元からあまり有りませんでしたが、年や月の記載もなくなってしまってますねー」

 ぱらぱらと手帳をめくりながら、鬼海は答える。

「後半は白紙だなぁ……。半分以上は読んだ感じですね。残りはざっと見たところ、ユキさんと『入り口』を探す様子が書いてあります。それからその『入り口』に関しての考察か……。そこから行けるおおまかな『世界』の描写。へぇ……なるほどなぁ。これを基に、今、事務所にある『入り口』マップが出来たんだ」


「『入り口』マップ? ですか?」

 龍之介の疑問にユキが答えた。


「住宅地図に『入り口』を書き入れたものがあるの。それによって分かったのが、常にある『入り口』とそうでない『入り口』があること。……もちろん、龍之介くんのお兄さんが消えてしまったように、突然何かの拍子にしまったものは、この地図では分からない。そのがどうなっているのかも。これは、わたしが歩いて探したもの。だから時々『入り口』を確認して、それが今現在もそこにのか見て回ることもあるの」

「そんなに沢山あるんですか?」

 ユキは首を振る。

「無いと思う。これまで歩き回って見つけたのも、ほとんどがいずれ消えてしまう『入り口』。小学校の中庭校舎の壁や路地裏の『入り口』みたいに。何日間か、何ヶ月か、あるいは何年かで。

 住宅地図は、歩き回ってようやく見つけて書き入れた丸印とそれを消す印ばかり……。そんな中で、この十年の間に見つけた都内にある『入り口』は全部で三つ。他の県にもきっと、あるんだろうけど……酒井さんがこだわったのは自分の生活圏内だったから」

 

 まぁ。そうだろうな、と倉部が言った。

「ユキと一緒に日本中を歩き回るわけにもいかないし、何せよ酒井にとっては、あくまでも『並行世界』へ行くための『入り口』であれば構わないんだから」


 そうだった、と龍之介は思い出して何とも言えない気持ちになる。

 酒井という人物が探していたのは『入り口』から消えてしまった人ではなく、自身にとってであるのだと。


「酒井さんは、奥さんと息子さんを見つけたのでしょうか? 見つけたのだとして、どうやってその人達とやり直すんでしょう?」


「さあな」


 倉部の答えは、素っ気ないものだった。

「ただ、をこっちの『世界』に残したんだから、酒井は目的の人達を見つけたのかもしれない。あるいは、まだ探している途中なのか。俺はそんな自分本位な酒井でも、野垂れ死んでないことに、ほっとしたよ」

「まぁ、そうですよね」

 しみじみ、といった様子で鬼海が頷く。


 もしかしたら、と龍之介は言う。

「もしかしたら、自分のしていることの愚かさに、気づいたかもしれませんよね? もしかしたら、自分のしてしまったことに向き合うことが出来て、幸せそうな奥さんと息子さんに会いたかっただけなのかも、しれませんよね?」

 沢山の『もしかしたら』は、ひょっとしたら同じだけ沢山の『並行世界』があるということなのかもしれない。

 その中には多分、酒井には無し得なかった『もしもあの時、こうしていたら』の先にある酒井とその妻子が仲睦まじく暮らす『世界』だってきっとあるはずだ。


「そうだな。それを見つけられたら、酒井は前に進めるのかもなぁ」

 倉部は酒井に思いを馳せる。

 自分と向き合い、自分の愚かさを呪い終えたその先、そのとき黒くどろりとした自身のうちに巣食う何かに初めて光が差したのなら、それをきっと酒井は僥倖と呼ぶのだろう。


 倉部には、龍之介には、酒井とはまた別の僥倖は訪れるのだろうか。

 居なくなってしまった人との再会。

 それを果たしたとき、何が起こるのか。


「お茶を淹れ直しましょう、ね」

 ユキのひとことでセンターテーブルに目をやれば、そこに置かれたまま開けられていないペットボトルには、びっしりと水滴が貼りつき、そのいくつかは流れて筋となり卓上を濡らしていた。

「あ、そうだ。箱崎ひなちゃんのご両親からの頂き物があるんです。あの包装紙……間違いなく美味しい和菓子ですよ。いつもはコーヒーですが、緑茶にしますか?」


「……コーヒーが良いな。だが、煎餅もあるんなら緑茶だな」


「チーフ。自分も同意見です! 何なんでしょうね? 練り切りとコーヒーも、まぁなかなかいけるし、餡子なんかだとコーヒーは全然アリですよねー? だけど、お煎餅! それだけは自分も緑茶です」


 胸を張りきっぱりと言い切る鬼海に、ユキは柔らかく笑った。

「なんだか少し疲れましたよね。甘いのと塩辛いので、お煎餅もあると良いんでしょうけど残念ですが、お煎餅はありません」

 そう言いながら給湯室へ姿を消したユキを追うように、鬼海が後へ続く。

 給湯室の方から、食器の触れ合う微かな音とユキの笑い声が、わずかに漏れ聞こえてきた。


 龍之介は『並行世界』の自分の家が写る写真を手にする。


 果たしてこの家に、兄は居るのだろうか。

 自分も存在するのだろうか。

 猿渡瑞紀の聞いた子どもの声は、二人のどちらかのものなのだろうか。


 目の前に影が差し、柔らかく温かく重たい何かが、龍之介の頭の上に落ちてきたと思ったら倉部の掌だった。

「今からそんなに悩むな。……ところで龍之介、お前は消えた兄貴に会ったら、どうするんだ?」

 不意をつかれたその言葉に、龍之介は目を丸くした。

「……そう言われてみると、何も考えていませんでした。ずっと、会いたいと思ってはいましたが、心の何処かでは、そんなことは無理だと諦めていたんでしょうね。……そっか。会ったら…………」


「おっ茶でーす。ってか、コーヒーだけど。和菓子は薯蕷じょうよ饅頭でした。……ふわふわのもちもちの皮のお饅頭。美味しいよねー。自分、これ大好きなやつなんだ」

 笑み崩れんばかりの顔をした鬼海が、応接室に騒々しく入って来たばかりに、龍之介の言葉は尻切れトンボになってしまう。

 龍之介も倉部もそれに対し意に介さず、ユキがセンターテーブルの上を手早く片付け、コーヒーカップをそれぞれの前に配る間、鬼海が箱入りの饅頭を大事そうに抱えているのを見て笑った。


 お茶の片付けは、僕がやりますと龍之介がユキに言うと、優しく笑いながら「ありがとう」という返事があった。

「チーフは食べるだけってズルいよな」

 呟いた声が大きすぎて、足を踏まれた鬼海が悶絶するのを横目に、倉部は美味そうにコーヒーをひと口飲む。


 兄に会えたら……。

 龍之介は、その日がそう遠くないことを祈った。


 それぞれが甘いものに舌鼓を打ち、コーヒーの馥郁たる香りに燻される応接室で、至福の時間をしばし味わっていたとき、不意に事務所のインターフォンの鳴る音が聞こえ、ユキがいち早く席を立つ。


「来客あり、か。ほら、さっさと片付けるぞ」

 そう言いながら、倉部は自身のコーヒーカップを片手に立ち上がり、もう片方の手でユキの使っていたカップを拾い上げる。

 口いっぱいに二つ目の饅頭を頬張る鬼海が、慌ててそれを飲み込みながらテーブルの上にある饅頭の箱を引き寄せた時、応接室に入って来た人物。


「……山縣さん! お久しぶりです」

「やぁ、倉部くん。勝手知ったる何とやらで、遠慮なく入ってしまったよ。おっ。なんだ、お茶の時間だったのか。丁度良かった。……手ぶらでは、と思ってね……」


 アイボリー色の麻のジャケット着た山縣は、きちんと整えられた白髪を手で撫でつけると、なかなかの恰幅の良い体型を、傾げるようにどっこいしょ、と応接室入り口にいちばん近い椅子に腰を掛けた。

 倉部が慌てて、奥のソファに座るように促したが、山縣はやんわりと首を振りながら断る。

「こっちで良いよ。ちゃんとしたお客さんってわけじゃないからね」

 にこにこと笑みを浮かべる山縣に、倉部は恐縮しながら、持ったままだった自身のカップとユキのカップを再びテーブルの上に戻す。


「山縣さんに、お煎餅の差入れいただきました」

 少し遅れて入って来たユキは、お盆の上に山縣の分の緑茶を煎れた茶碗と茶托をのせ、手首には紙袋が下がっていた。


「無作法で、すみません。身内の甘えです」

 ユキが少し恥ずかしそうに笑うのを、山縣は、いいよ、いいよ、と手を振り笑い返す。


「皆さんにも、お茶を煎れ直しますね」

 お盆の上に手早くカップを集め、テーブルの上に袋から出した煎餅の箱を乗せた。

「山縣さん、お饅頭もどうですか?」

「良いねぇ。薯蕷饅頭とは、何か良いことがあったのかな?」

 ふくふくとした手を饅頭に伸ばしながら、山縣は鬼海に尋ねた。

「それがですね……その通りです」

 鬼海が山縣に《饅頭のあらまし》を話す間、龍之介はユキの手伝いをするため、席を立つ。その間も鬼海は煎餅の包装紙を開ける手を止めることなく、山縣に話を続けていた。


「僕にも手伝わせてください」

 龍之介が給湯室に入ると、ユキが振り返りながら「ありがとう」と答える。

「山縣さんは、お身体を悪くされて六年前に事務所を辞めたの。それ以来、こうして時々顔を出してくださってたんだけど……そうね。この前来た時から、もう一年以上になるわね。……お身体、大丈夫なのかしら」

 応接室の方に心配そうな視線をちらりと送る。龍之介はコーヒーカップを洗って布巾で拭く。

「お茶、そのコーヒーカップ使うね」

 水気を拭いたコーヒーカップを手渡すと、並べて急須からお茶を注ぐ。

「龍之介くんのカップのこの青い色? なんだか個性的で素敵」

「これ、自分で作ったんです。形は悪いけど、色が気に入ってて……と、言ってもこれ自体を全くと言っていいくらい忘れていて、食器棚から使えそうなのを探してて、見つけたんですけどね」

 ふふ、と二人で笑う。


「お茶、入りました」

 応接室の扉を潜った途端、鬼海が煎餅を口に持っていこうとしているところと目が合ってしまい、龍之介はさりげなく視線を外す。

「龍之介、こちら以前まえに事務所に居た山縣さん」

「久原龍之介です」

 龍之介が頭を下げると、鷹揚に手を振りながら「いいよ、いいよ」と言った。

「何、遊びに来ただけだから。そんなにかしこまらないで」


「それだけでは、ないんでしょう?」

 緑茶の入ったカップを龍之介から受け取りながら、倉部が言う。

「不思議な話を聞いたって、今おっしゃっていたじゃないですか」


 緑茶を美味しそうにひと口啜り、喉を湿らせた山縣は軽く姿勢を正すと言った。


「この話、この事務所向けじゃないかと思ってね」


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