ミイラ取りがミイラになる


 男は警察官に見送られながら、その場を後にした。一旦振り返り、頭を下げることも忘れなかった。


 なぜ頭を下げたのだろう?


 男は自身のしたことの意味が良く分かっていなかった。

 見逃してくれた警察官に対して?

 嘘のき方を教えてくれた、自らを詐欺いかさま師と呼んだあの老人に対して?

 それとも……?


 男の足は、自然と昔自分が通った道を歩いていた。記憶とは少し違う町並みも、それはここが『並行世界』だからなのか、年月によるものなのか男には判別出来なかった。

 

 あの家は、あるのだろうか?


 ふと男の頭に、昨日のことのように家の前で写真を撮った記憶が甦る。

 子どもの頃からマンション住まいの男は庭つき一軒家に憧れ、子どもの誕生を機に実家マンション近くの、中古の庭つき一軒家を購入した。

 赤い屋根瓦のレトロモダンなその家屋に、男は一目惚れしたといっても良かった。

 室内のリフォームが終わり、雑草だらけででこぼこの猫の額ほどのその庭を満足そうに見下ろしながら、地に足をつけるとはこの通り、まさしくこの家と同じく地面に根付いた生活をするのだと、自身の洒落シャレに満足そうに頷いていた男には、未来しか見えていなかった。あの頃を振り返る。いつまでも家族三人がこの家で暮らすのだと、夢みた未来。

 

 その狭い庭に物置を建てたのがいけなかったのだろうか、と考える。


 あの日、仕事でいつものように帰宅が遅くなった男を出迎えたのは、玄関の明かりすら灯らない暗く静まりかえった家だった。

 周囲の家いえと比べても、そこにある男の家だけが闇に沈んだ難波船のように見える。

 いつもと違う様子に多少の不安を感じたがそれよりも先に怒りが混み上げ、疲れて帰る男に酷い仕打ちではないかと、怒り任せにわざと大きな音を立てて引戸の扉を開けた。

 玄関の戸はリフォームする前から引戸だったが、男がこだわったのもこの引戸だ。


 庭つき一軒家の引戸。


 母の田舎にある祖父の診療所も兼ねていたその実家は、和洋折衷住宅だった。浅葱色に塗られた窓枠のあちこちにささくれが出来てはいたが、その特徴的な縦長窓に、以前には真っ白く塗られていただろう杉板の壁も、塗り直すことなく所々剥げたひどく古びた建物だったが、それが男の理想とする家だった。

 在りし日の夏休み、外を駆けずりまわり額に大粒の汗を浮かべた少年だった男が、癖のある引戸を開けるのに毎度四苦八苦していると、その音を聞きつけた涼やかな夏の着流し姿の祖父が、庭の奥から団扇を使いながら軽やかな笑い声と共に現れ引戸の上部を二度さほど力を入れずに軽く叩く。すると不思議なほど、すっと開くのだ。

 それをいくら真似ても、男には無理だったあの引戸。


 子どものベビーカーを出し入れするのに開き戸よりも片手で使いやすく、広くて便利だと赤ん坊をあやしながら彼女も優しく笑って言ったこの引戸を、男は怒りを込めて力任せに開けた。

 暗闇に、虚しく響き渡る耳障りな音。

 足音も荒く、片手でネクタイを緩めながら、部屋の中の灯りという明かりを全部点けた。

 人の気配もなく静まりかえった家は、こんなに広いものだったのかとふいに我に返った男を不安にさせる。

 部屋の明かりに浮かび上がる庭の物置が、男を手招きしているように感じた。

 裸足のまま庭に降りる。


 物置の扉を開け、男は、見た。

 ……白く浮き上がるぶら下がる脚を。



 ふと男は、前から歩いてくる中学校の制服を着た少年に、どこか見覚えがあるような気がした。

 その少年には、男の知るあの子の面影。

 間違いない。

 成長したあの子に、間違いなかった。

 男は息を飲む。

 あと数歩といったところで、少年が何かを認め声を上げた。


「……お父さん!」


 男は思わず喘ぎ、声が出てこない。

 駆け寄って来る少年。

 伸ばした男の手が虚しく空を切る。

 少年は一陣の風と共に男の傍を走り過ぎた。


「……お父さん。これからお墓に行くなら、僕も一緒に行くよ」


 少年が呼ぶ「お父さん」とは誰だろう。

 果たして男が振り返り見たものは、この『世界』のもうひとりの「自分」だった。仕事帰りと思われるスーツ姿で花束を持ち、少年に柔らかな笑顔を見せている。


 男からは想像も出来ない「自分」の姿に、ここは彼女が残した『世界』なのだと男は知る。


 それを目にした男は、その場に崩れ落ちた。


 立ち上がり、歩き出すのに要した時間は男には分からなかった。気づけばいつの間にかすっかり日は落ちていた。周囲の何も目に入っては来ない。暗くなった道をどこをどう歩いたものか。


 ここは男が思う『世界』ではなかった。また、こうありたいと望んだ「未来」でもなかった。


 この『世界』にも同じように彼女は居ない。それでもこの『世界』に居る残されたあの子は今、幸せに笑っていた。


 それを目にした男は今になって気づく。

 自身が、しようとしていた恐ろしいこと。

 

 人生のやり直し?

 出来る訳がない。


 この『世界』の彼女は『絶望』だけを道連れに、男の前から姿を消した。そしてこの『世界』には彼女の残した『希望』があった。

 昔、彼女が男に見せていた優しく物憂げな笑顔を思い出す。


 男は自身の罪と向き合う覚悟が出来たのが分かった。

 男のかつて居た『世界』では、男が彼女の中のわずかな希望さえも蹂躙じゅうりんしてしまっていたことにさえ気づけなかったそんな自分と、ようやく顔を突き合わせた。



 彼女はあの子と共に生きて然るべきだった、と男は思う。

 この『世界』で母親を失わせてしまったあの子と、彼女を失って気づいた「自分」がその子どもに教えられながら、子と共に成長した姿を目の当たりにした今、男は本当に『世界』をはっきりと意識した。


 優しい彼女から奪ってしまった時間。

 未来あるあの子から奪ってしまった時間。


 くたびれた男が壁に手を着いたその瞬間、男は意図せずに『世界』を移動したことを知る。


 「……の……かな? ……ですか? 大丈夫? どうしたのかな?」

 うずくまっていた男の身体を揺さぶる力に、はっとして顔を上げる。

 2人の警察官のうち、ひとりが屈み込んで男を覗き込んでいた。残るひとりは立ったまま腰に両方の手を当て、その片方の手は故意か無意識か警棒の辺りで止まったままだ。

「身分証の分かるモノ何かある?」

 男はのろのろと服に手を添わせ、ポケットの中身を全て出す。出てきたものは小銭、数枚の少額紙幣。よく分からない紙屑。クリップ。そもそも男は身分を表すものなど、そんなものは持ち合わせていなかった。

「ちょっと署まで来てもらおうかな?」

 男は頷き、ひとつ頼み事をする。

「……書くものを……何か、書くものを貸して貰えませんか?」

 男に屈み込んでいた警察官が、胸に挿さっていたペンを取り出し男に渡した。


 男は少ない中から一枚の紙幣を選ぶと両の手で丁寧に皺を伸ばし、ペンで何やら字を書き込む。

 ここが男のもと居た『世界』とは分からなかったが、男は賭けに出ることにした。

「これを……これを警察庁の柴崎さんという方に渡してください」

 立っていた方の警察官が、焦れたように手を差し出しながら言った。

「分かったから、ほらさっさと立って」

 男はおもむろに立ち上がる。警察官に挟まれるように歩き出そうとしたその僅かな隙に、男は先ほどの『入り口』から姿を消した。



 ……男は彷徨う。


 目指す『世界』を探して。


 彼女が自ら命を断たず、あの子を道連れにすることのなかった世界。

 男には叶えてあげられなかった未来。

 男とは違う「自分」があの2人を幸せにする世界を、見てみたいと思った。

 そんな『世界』は何処にあるのかは分からないが、何処かにきっとある筈だ。

 そしてそれを探して、男はいつ迄も彷徨うだろう。


 見つけたら……。

 見つけることが出来たら、与えられたその時間が赦す限り、彼らの幸せを陰からそっと見届けよう。


 自らにより贖罪する。

 もう、それだけが男に残された答えのような気がした。

 

 男は、酒井は、はじめて心からの笑みを唇の端に浮かべる。


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