Case 2-9


 その小学校には、ユキが心配していたような警察の人の姿は見られないようだった。

 さらには夜七時を過ぎたこの時間、体育館でママさんバレーの練習が行われていることもあり、誰にも咎められることなくすんなりと小学校の敷地内に侵入出来たのである。


「こんなあっさりいくとは、ね?」

 首をすくめて瑞紀がユキに言った。

「あれこれ考えること、なかったわ」

 瑞紀の鼻唄でも歌い出しそうな雰囲気に、酒井が苦虫を噛み潰したような声を出す。

「猿渡さん、不謹慎だと思わないのか?」

 やれやれ、と瑞紀は大袈裟に上目遣いでユキに合図を送る。


 壁が白く浮き上がる夜の校舎に沿って、ぐるりと周る中、三人は大して歩かないうちに、問題の中庭を見つけた。

 なるほど、真ん中にウサギ小屋がある。

 校舎の廊下に見える非常口を示す緑色の避難誘導灯が、妖しく中庭を照らし出していた。

 暗い中に緑色の光を帯びた、金網で囲まれたウサギ小屋に近づき、瑞紀は熱心に覗き込んでいる。

「暗くてよく見えないなぁ」

 緊張感のおよそ見られない瑞紀の態度に、業を煮やした酒井が大きな声を上げる。


「猿渡さん!! まさか君がこんな人だとは! まったく呆れて物も言えない! はっきりと言わせてもらえば、こんな人だと思ってもいなかった!」


 しーっと人差し指を唇に当てて、大きな声を出した酒井を咎める。

「酒井さん、声! それに仕事とプライベートでおんなじなわけないですよ? こんな時にこう言っては何ですが、もう少し自分以外の人に対しては寛容の気持ちを持った方が良いです。わたしはもう辞めるので、言わせて貰いましたけど」

 瑞紀が滔々と喋るのに目を丸くする酒井を見ながら、ユキはこの人が他人と上手く関われない理由に気づく。


 きっとすぐ怒る酒井さんに、誰も何も言わな過ぎたのだ、とユキは思った。


 ぐうの音も出ない酒井を余所に、瑞紀はユキの傍まで戻ると簡潔に尋ねる。

「それで『入り口』はあった?」

 ユキは校舎の壁の一箇所を、人差し指でまっすぐに指し示した。

「……ここ、だと思う」

 瑞紀はユキと顔を見合わせる。

 こくり、と大きく瑞紀が頷き酒井を呼び寄せた。


「酒井さん。ここだそうです。……まだ信じられませんか?」

 酒井が恐るおそるといった様子で、近寄って来た。周囲の壁と何も変わらないそこを、目を皿のようにして見ている。瑞紀はおもむろに鞄から何かを取り出しながら、もう一方の手で酒井の右腕をむんずと掴んだ。

 鞄から出したのは、予め用意していた毛糸玉である。

 毛糸を一本引っ張り出し、ぐるりと器用に酒井の右腕に二重に巻きつけ固く縛った。

「……なっッ? 何をする?」

「信じていないようなので、ちょっとした荒療治を……」


 瑞紀はそう言い終えるか終えないかのうちに、思い切り酒井の背中を突き飛ばした。

 校舎の壁に向かって、あらん限りの力で。


 えーい、つべこべ言わず行ってこい!


「わあっ!」


 見事に壁に吸い込まれた酒井を見て、満足そうな顔で不敵に笑う瑞紀が、ユキにはとても頼もしく見えてしまい思わず頭を振った。




 壁にぶつかる!


 咄嗟に目を閉じた酒井が、顔面を強打したのは校舎の壁などではなく、地面だと気付いたのは、目を開けた自分が大地に抱きつくような形で地面に横たわっていたからだった。


 ……まさか?

 こんなことがあり得るなんて。


 突っ伏した状態の酒井の目の前には、先程まで夜だったはずの景色が一変、昼なかの時間帯と思われる中庭にあるウサギ小屋が目に入って、寒くもないのに思わず身震いをした。


 明るい空の下、そろそろと起き上がり右腕を見遣ると、巻きつく毛糸は赤色だったのかとぼんやり思いながら、その先端が宙に浮かんで滲むように見えなくなっているのが目に入り、ぞわりと首筋に冷たいものがはしる。

 身体についた砂埃を両手で払うと、それに合わせて宙に浮いた赤い毛糸がゆらゆら動いた。

 おぞましいものでも見たかのように、視線を逸らした酒井は、その瞬間あるものを認めて目を見開く。


 ウサギ小屋の前でうずくまる少年。


 両膝の間に顔を埋めて、自身の脚を抱きしめるように丸まっていた。


 酒井は、何と声を掛けたら良いのか分からなかった。

 子どもと話すのは苦手だったし、それ以前に他人ひとと話すごく普通の日常会話の基本的技能スキルすら酒井には持ち合わせていなかったのだ。


 少年がこちらに気づくまで、待つか。


 どっと疲れが押し寄せ、酒井はその場に座り込む。どうせ長い時間がかかるならと、のんびり待つことにしたのだ。


 猫も、子どもも、近寄ってくる人間は警戒するが、興味のない素振りをするものには逆に興味を覚える。


 そんなことは露知らず、腕に巻かれた毛糸のほつれを指で弄びながら、自身のあれこれに思いを寄せて、猿渡瑞紀の暴虐無人な振る舞いが酒井にもたらしたものを考えていた。


 酒井が物思いからふと我に返って顔を上げた時、少年がこちらを見て様子を伺っているのに気づくと、その場を動くことなく(これはあくまでも本人の後述による)話しかけた。それもまた、警戒する猫や子どもに有効なことを、酒井は知らずに。


「壁から来たのか? ボクもだ……。あの……良かったら、一緒に帰らない?」



 ぎこちなく立ち上がった男は黒いズボンの臀部が、砂で真っ白になっているのも気づかず、一心不乱に赤い毛糸を引っ張る。それで帰り道を教えてもらうのだ、と言った男の様を不思議そうに見ていた少年は、その男、酒井に手を引かれて再びもとの『世界』へと帰って来た。


 その姿を見て、毛糸玉を握りしめたまま、あんぐりと口を大きく開けた間の抜けた猿渡瑞紀が目に入り、酒井は先程の溜飲を下げる。


 それから三人と少年は不気味なまでに静かに暗く、緑色の光を宿す中庭を早々に後にした。

 それこそもう、逃げ出すように。

 

 明るいところを目指して歩いていくと、自然、あの場所に躍り出た。

 煌々と、灯りの漏れる夜の中に浮かび上がる大型貨物船のような、内側からオレンジ色の光を放つ体育館。

 弾むボールの音と、大きな嬌声。

 その中に、そっと少年の背を押し入れると物陰に隠れて様子を伺う。

 予想通り、少年を知る誰かの喜びの悲鳴が上がり、周囲が騒がしくなったのを見計らい三人は小学校から静かに出て行ったのである。


 知らないおじさんが、泣きだしちゃいそうな困った顔でぼくに聞いたんだよ。

「帰る?」って。だからぼくは、一緒に帰ってあげたんだ。


 後に語った少年の言葉が、心配していた大人たちを更に困惑させたことを、酒井をはじめ他の二人も知る由はない。




 ……私は熊谷ユキとの出会いにより、この世界とは別の『並行世界』を知ることとなった。そこで、私が自身の目で垣間見た『世界』は、この世界と同じような様相であることを知ると、熊谷ユキがとする『世界』に興味を持った。

 そしてその話を詳しく聞くにつれ、ある思いが浮かび上がってきたのである。


 もしかしたら、あの子が今なお生きている『世界』があるのではないだろうか。


 その考えが私を支配するに、大した時間は掛からなかった。

 ……正直に記そう。

 のだと。


 あの子を取り戻す。

 そして、やり直すのだ。

 私は熊谷ユキを連れ、分かりる限りの『入り口』を探すことを心に決めた。』




 鬼海の耳に心地よい声色が、見えない粒子にぶつかり静かに霧散する。

 その場に居た誰もがしばらくの間、ある者は半ば目を閉じ、またある者は項垂うなだれてその余韻を味わっていた。


「酒井の妻子はな。……死んだんだよ」

 やがて倉部が龍之介を真っ直ぐに見て、言った。


「当時、四歳になる息子との無理心中だった」


 まさかとは思っていた龍之介にとっても、それは恐ろしく悲しい話だった。


 心中は産後鬱が引き金となり、育児に対する不安によるものだとの見解だったが、残されていた酒井夫人の日記には、育児の不安に加えて、毎日繰り返される酒井の言葉の暴力についても書き連ねられていた。

 当時2005年、は現在ほど家庭内におけるモラルハラスメントが一般的でなく、助けを求める声が上げにくい現状にあった。

 それに夫婦間のいざこざを他所よそで愚痴るような被害者でもなかったことが、更に自身の内側に絶望を溜め込むことになる。


 そんな中での悲劇であった。


 そしてまた酒井は、変わり果てた妻子を見つけた当事者だった。


「鬱になってしまった夫人のことを気づくこともなく、責め続けた自覚もなかったんだ。いつものように家に帰り、突然に変わり果てた二人の姿を目にする。……残された日記を読み、ようやく気づいた酒井は、何を思ったんだろうな? 後悔? 懺悔? いずれにせよ、酒井の自分本位なところは変わることがなかった。それが今、彼奴が『並行世界』を彷徨う答えだ」


「それじゃあ、酒井さんという人が探しているのは、この『世界』で亡くなってしまった奥さんや子どもということですか? それじゃあ……そんなの……変ですよね? を探しているようなものじゃないですか?」

 そう問いかけた声が、あまりにも非難めいていたため、続けて「すみません」と龍之介は小さく謝る。


「……その通りだな。だから俺は酒井を自分本位だというんだ。自分の為……自分の失敗をやり直す為、そっくりのそのになる奥さんや息子を探す? ふざけんなよっッ!」

 声を絞り、吐き捨てた倉部の背中が細かく震えていた。


 誰も、何も言えなかった。


 生きるということは、真っ白に光るたくさんのサラサラした砂のようなものばかりで集められている筈はない。皆それぞれ、胸の内にしまっているどろりとした真っ黒な何かがあるのだ。

 だがそれには、ありがたいことに自浄作用がある。

 ただしそれが陽に晒され綺麗になるには時が必要な上、自身の心がけが何よりも大切であるのだと、誰に教えて貰わずとも人は、それを成長と共に自然に習得していく。

 しかし酒井の行為は、身の内にあるどろりとした黒いものの上から、紛い物の砂を振り掛けただけにすぎない。


 龍之介は再び姿を現した過去の亡霊が、段ボールの中に、無かったことにしたい過去を仕舞い込む様を見たような気がした。

 やるせない気持ちで、センターテーブルに散らばる顔のない男が写った写真を指先でずらしながら見ていた龍之介の動きが、突然止まる。

 不穏な空気を感じて、鬼海が龍之介にそっと声をかけた。

「龍之介くん? どうかした? 何か見つけた?」


 泣き出しそうな顔で、龍之介が沢山の中から取り出した一枚の写真。


「……これ……これは……?」

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