Case 2-7


 猿渡瑞紀さるわたりみずきは、応接室の扉から顔だけ出して、ユキを手招きで呼んだ。


 少し前、応接室から聞こえてきたもの凄い物音に、事務所に居た他の二人は一瞬ちらり、と音のした方に目をやっただけで特に気にせず仕事を続けていた。

 ユキが心配そうにしている様子に気づいたそのうちの一人、山縣という五十代の男性所員が唇の片方だけで笑いながら言った。


「心配しなくても大丈夫。いつものことだから。酒井さんはひとりで怒って、ひとりで騒いでいるようなもんだからね。あれさえなければ良い人なんだけど。気にしなければ大丈夫。猿渡さんなんて、上手いもんだよ」


 ユキは、《ちゃっかり》とか《適当》とかの枕詞を持つ瑞紀みずきを思って苦笑いする。

 こちらの『世界』でも瑞紀みずきが全く瑞紀らしく、変わらないことをどれほど嬉しく思い、またそれにどれだけ救われたことだろう。


 そんなことを考えていたユキは、突然の呼び出しに身体を硬くした。

 恐るおそる応接室に入って行くと、酒井の背後にいる瑞紀みずきが両手を拝むように合わせ、声を出さずに『ごめん』と口を動かしている。


「あー。えーっと熊谷さん。少し聞きたいことがあってだね? 会社を辞めてこの事務所に来るきっかけと、今回君が勝手なことをした事と関係があるとか、どうとか……。率直に話をしてもらえるかな?」


 ユキは瑞紀みずきのその挙動の理由が分かると共に、自分がしてしまったことのツケを払う時だと腹を括った。


「……お話します。到底信じられない話だとは思いますが、どうか最後まで聴いていただけますか?」

 そしてユキは話し始める。

 自身がこの『世界』とは別の、良く似た『並行世界』から来たことを。来ることになった、偶然ともいえるあの瞬間を。

 こちらの「自分」と少し違う「自分」の記憶の差異が、「自分」が所属していた会社を辞め、新しい環境に身を置きたい理由なのだと。


「水溜り……? 本気で言ってる?」

 ひと通りユキの話を聞いた酒井が、最初に発した言葉だった。

 大丈夫かコイツ、といった顔で背後に立つ瑞紀みずきを大仰に振り返り見る。


「まぁ……信じられないのは、分かります。わたしも最初の頃は何がなんだか、さっぱりでしたから。ユキ……熊谷さん自身、わたしの知ってる人物と全く変わらないし? それでも細かい話を突き合わせていくうちに、これは冗談なんかじゃないんだな、と分かったんです」

 肩を竦めながら、それも酒井さんには無理でしょうけど、と瑞紀みずきは付け加えるのを忘れなかった。


「あー。じゃ、アレか? 何か証拠になるものみたいの、ないの? かな?」

 酒井は話の途中から組んでいた腕を左右逆に組み直すと、首を傾げる。

 口元には薄っすらと嘲るような笑み。

 そのあまりにも目に余る酒井の態度に、意を決してユキは答えた。

「……有ります。なぜ、それが分かるのかと言われてもを証明することは、わたしには出来ませんが……『並行世界』の『入り口』を教えることは出来ると思います。」

「えーーー!! 聞いてない! ってか、ユキそれって本当? なんでまた? って自分でもそれが分からないのか。えーー?」

 ユキが最後まで言い終えぬうちに、驚く瑞紀みずきの大きな声が応接室に響き渡る。

 それに対して、心底嫌気の差した表情をする酒井を見ながら、ユキは心の中で瑞紀みずきに謝まった。


 もと居た場所に帰れ、と言われるのが怖かったの。こちらの『世界』が、あんまりにも居心地が良いから……。ごめんね、瑞紀みずき


「そしたらさ、熊谷さん。その『入り口』? とかを案内? して貰えたりするの?」

 今やユキだけではなく、瑞紀みずきさえも全く信用していないことが手に取るように分かる態度の酒井の一言は、ユキを開き直らせるに充分だった。


「そこまで仰るなら、付いて来てください」



 瑞紀みずきはそれがとされる箇所を見つめて驚いていた。

 その場所は(……『入り口』までユキが瑞紀と酒井を連れて行くと言っていたけど、そこはどれくらい遠いの? 今日中に帰れるのかしら?)心配していた瑞紀を拍子抜けさせるに足りなかったどころか、あらゆる懸念を浮かび上がらせる。

 そこが事務所からたいして離れていない裏路地に面していることもさることながら、ユキが指を指しているのは業務用エアコンの室外機と、その灰色に汚れた小さなビルの壁の隙間。

 

 いやいや、猫すら入らなくない?

 本気で?


 瑞紀みずきの頭にユキに対する疑いと心配とがもたげる。

 絶望的な気持ちで何気なく天を仰げば、細長く建物に沿って切り取られた空は今にも雨が降り出しそうな暗い鼠色。

 その様子が見て取れたのか、態度に表れてしまっていたのかは定かではないが、ユキが瑞紀みずきにだけ聞こえるような小さな声で言った。

「瑞紀、心配してるでしょ? ごめんね。だから言えなかったの。こんな『入り口』ばかりではないんだけど、事務所からはここが一番近くて……」

 

 曖昧に頷く瑞紀みずきの背中に、小馬鹿にしたような酒井の声が降ってくる。


「こりゃあ、騙されたな。……猿渡さん、さぁ? これで君も騙されているって、分かったんじゃない?」

 瑞紀みずきは咄嗟に何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。


「信じられないのは、分かっています。頭がおかしいと思われているのも」

 そのときの余りにも哀しげなユキの物言いに、それに加勢できないもどかしさと、込み上げてくる訳の分からない感情が、瑞紀を突き動かしたと言っても良かった。


「ここが『入り口』なんでしょ? じゃあんだよね? わたしが入ります。ユキ、良いよね?」

 啖呵を切った後で、しまったと思ったがすでに遅く、酒井が両腕を組んで不敵な笑みを浮かべるのが見えた。

 もう後戻りは出来そうにない。

 何より酒井の鼻を明かしてやりたいという気持ちが、瑞紀みずきの心に火をつける。


 ……あれ? ところでユキは入れないの?


 そっとユキの方を見ると、声に出していない瑞紀の疑問に答えるように小さく首を振りながら言った。

「ごめんね、瑞紀。わたしが入ったら、多分消えちゃうだけだから、目の前で起こったとしても信じて貰えそうにないの」

 よく分からないが、駄目なら仕方がない。

 瑞紀の良いところは、深く物事を考えないことだった。

「よし、入るとして……じゃあ、どうやって帰って来る?」

 入ったところから、また戻って来れば良いんだろうけど……。

 威勢よく言った後ではあるが、途端に不安が込み上げてくる。

 辺りを見回すと、果たしてそこには瑞紀の不安を和らげそうになるものはない。裏路地に漂う、ごったに混じる臭いの中に微かに分かるトマトソースとニンニクの香りが、まだだった昼食を思い出した瑞紀を現実に押し戻す。


 見てなさい、酒井。お昼を奢らせてやるからね!


 新たな闘志が湧き上がった時、瑞紀が見つけたもの。

 

「ねぇ、ユキ。あれ、あの端っこをユキが持っててくれる?」

 指差す先にあったのは、壊れて使い物にならないのだろうか、エアコンの室外機の上に無造作に置かれ、野ざらしになっていた屋外用電源ケーブルである。

 いや、よく見れば打ち捨てられた屋外用LANケーブルか。

「とにかく、これってかなりの長さがありそうじゃない?」

 瑞紀みずきの言葉に強く頷き返したユキは、くるくると巻かれた汚れてベタつくそのケーブルを伸ばし始めた。

「瑞紀がこれを持ったまま入って、戻るときはわたしが引っ張る……うん。そうしよう」


 呆れて口も聞けない、といった酒井の苦々しい笑みを貼り付けた顔を、ひと睨みして瑞紀は言った。

「そこでそうやって見てなさい。わたしはユキを信じてるんだから!」

 連絡が取れるかどうかなんて分からないが、とにかくとりあえず鞄から携帯電話を取り出し、もう片方の手にギュッと握りしめる。


 お願い、お願いします。


 瑞紀は無神論者なので誰に祈っているのか自分でもよく分からなかったが、とりあえず祈るしかなかった。


「瑞紀、このまま真っ直ぐあの隙間に向かって歩いて行けば、中にの。絶対にぶつからないから、お願い。信じて」

 ユキの言葉に小さく頷く。

 酒井を見れば、もう込み上げてくる笑いを堪えるのに必死そうである。


 ユキ、信じてるからね!


 中途半端が嫌いな瑞紀は、目を伏せたとき視線に入ってきたお気に入りにのパンプスの先が汚れていることに怒りを滲ませながら、きつく目を閉じてたった二、三歩の距離を思い切って駆けた。


「……!! ……。……?」


 一瞬、かくんと膝が存在しない段差に躓いたかのような感覚。しかし、あると思っていた痛みは、待てど暮らせど来なかった。

 ふと感じた空気が、鼻先を抜ける匂いが……先ほどとは違うような気がする。

 ……違う? だがきっと気のせいだ、と自身に言い聞かせた。


 ユキごめんね。

 失敗……かな?


 本音を言えば、無様に壁に激突して、酒井に笑われるのを覚悟していた瑞紀だった。


 いつまで経っても酒井の馬鹿にした笑い声も、壁への激突も、何も起こらなかったことに拍子抜けした瑞紀は、薄く目を開け今度こそ仰天した。

 

「……なんなの? コレ。どこよ、ここ?」


 瑞紀の目の前に広がる光景は、あの薄汚れた裏路地などではない。


「……誰かの……家の……庭?」


 足元の柔らかい感覚に、下を見れば手入れの行き届いた青々とした芝生。目の前には赤煉瓦風の壁と、白い窓枠の洒落た大きな張り出し窓。

 見上げた空は、真っ青な夏空に入道雲が瑞紀を見下ろしていた。

 


 今頃になって脚が震えてきた。

 感覚のないその脚を、踏ん張り続けないとその場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 じっとりと汗ばむ両手には、片方には携帯電話。もう片方には宙に浮き、途中からようにしか見えない黒いケーブル。


 ユキ……。

 本当だったんだね。


 慌てて携帯電話のカメラ機能を呼び出し、辺りの写真を撮ろうとするも手が震えて上手く撮れない。ぶれぶれの写真が何枚も撮れてしまう。

 ようやく一枚、納得のいくものが撮れたと思った時、家の方から子どもの声が聞こえてきた。


 見つかったら、まずいことになりそう。


 瑞紀は焦って先の消えたケーブルを何度か引っ張ると、今度は反対側からもの凄い勢いで引っ張り返され、元の場所へと引き戻されたのだった。




 

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