Case 2-6


 

 「ユキの秘密を酒井に知られたきっかけが、この事件か……。子どもが消えたことを聞いて、黙っていられなくなったんだな」

 倉部の言葉に、ユキは「そうです」と頷く。


「その話を耳にした時、突然に思ったんです。……変かもしれませんが、わたしがこの『世界』に居る理由があるとしたら……いえ、理由があるとしたら、これなのではないか、と」


 還りたいのに帰れない。どこかに迷い込んでしまった人を助ける手助けをすることが、わたしがこの『世界』に居ること、居られることの条件なのではないか?


 人は誰しも存在理由を求めてしまう。

 それはユキに限ったことではない。


 龍之介もまた、兄ではなく、なぜ自分が残された側であるのかと、日々自身に向かって問いかけてきた。

 誰に聞けば分かるのだろう。

 誰が知っているというのだろう。

 正しい答えなど何処にも存在しない問いを。


「ユキさんが直接、酒井さんに話したんですよね? すぐに信じて貰えましたか?」

 鬼海は手帳の読んでいた箇所を指で挟むと、片方の掌にトントンとリズミカルに打ちつけながら尋ねた。


「まさか。変なものを見る目、というのがまさにぴったりの顔でわたしを見てた。間に瑞紀みずきが……猿渡さんが入ってくれて。それでも胡散臭いものを見るようだった。猿渡さんにも騙されているぞ、この女は嘘つきだぞ、と言いたげな顔をしてたわ」


「それが一転、信じるようになるんですよね?」

 龍之介が呟く。「それも今や『並行世界』を彷徨うまでに……」


「さて、それでは読んでみようか。酒井がようになったきっかけを」

 倉部が続きを読むように鬼海を促した。




2009年 奇妙な話。


 『まさか、そんなことがあるのだろうか?

 到底信じられない話だった。これを書いている今でさえ、未だに騙されているようだ。

 《並行世界》があると言われているのは……いや、あるかもしれないと言われているのは知っている。


 けれども……本当に?


 何度となく自問してしまうが、その証拠を見せられた今となっては、さすがに《並行世界》を信じるように思う。

 さて、打ちのめされるような出来事を目の当たりにした私が出来るのは、それをなるべく忠実に、且つ客観的にここに記すことだけだ。

 ……「孫が壁に消えた」と言う依頼人が帰った後、私が猿渡さんを応接室に寄越したことから記すとしよう。

 その時の私は、熊谷さんのあまりにも勝手な振る舞いに怒りが抑えられずにいた。

 行方不明の人を捜し出す手助け?

 この事務所の意義を、彼女には面接の時に説明してあったにもかかわらず、一体何をやってくれたのか。

 応接室に入って来た猿渡さんの姿を見て、私は熊谷さんを紹介した彼女がすべての原因だとでもいうように、腹立たしい気持ちをぶつけてしまう。

 



 「彼女は、いったい何様なんだ? この事務所を台無しにするつもりか?」


 キャビネットを掌で叩き付けたもの凄い音に、猿渡瑞紀さるわたりみずきはびくっと身体が跳ね上がる。

 目を吊り上げてこちらを睨む酒井の顔を直視するのを避けるため、俯き加減で自身のパンプスの先を眺めた。


 お気に入りだったのに、よく観察すればくたびれて古くなってきている。


「何か言ったらどうだ? 彼女を紹介したのは君だろう?」


 そう吐き捨てるような物言いと睨めつける酒井の態度に、瑞紀みずきはこれさえ無ければ、と考える。


 怒りっぽいというのだろうか。沸点が低いとでもいうのだろうか。

 酒井さんはこれさえ無ければ結構さっぱりしていて、普段は上司なんだけれど……。嫌なヤツなんてどこにでもいるし。そういえば会社で偉そうに怒鳴る人は、家庭では大人しいことが多いらしい。

 だけど酒井さんのを知ると、どうやら家庭でも同じだったのではないかしら? それか、もっと酷かったとか?

 結婚前から? だったら結婚なんかしないわよね。結婚相手が豹変することは少なくないと聞くし。

 ……わたしは大丈夫だと良いんだけど。まぁ、あの人はそれはないわね。瑞紀みずきは、ぼんやりとひとりの男性の顔を思い浮かべる。


 嵐が通り過ぎて酒井が冷静になる頃、瑞紀みずきは酒井に対する黙念はとっくに終え、新しいパンプスを買うことを決めていた。


「……すまない。気をつけてはいるんだ。つい……いや、悪かった。あれから、あの事があってから、自分を変えようとはしているんだ。怒りっぽいのを抑えるように……」

 しばらく肩で息をしていた酒井は、ようやく落ち着きを取り戻すと瑞紀みずきに謝る。


「いえ、大丈夫です。何があったんですか?」

 穏やかな笑顔を作り、瑞紀みずきは努めて少しゆっくりと酒井に尋ねた。


「彼女、熊谷さんだが。先ほど来た依頼人の行方不明になってしまったお孫さんを探し出すつもりらしい」

「……まさか。ユキがそんなことを?」

 瑞紀みずきは眉を顰める。


「しかも、壁の中に消えたとかの奇妙な話をまともに受けて! 壁だぞ? バカバカしい。あんなの、こう言ってはなんだが老人の戯言みたいなものだろ。孫だって本当にいるんだかどうだか!」

 怒りが再び込み上げてきたのだろう。ボケ始めじゃないのか? という酒井の暴言を聞かなかったことにした瑞紀みずきは、酒井の言った『壁の中』にという言葉に引っ掛かりを覚えていた。


 まさかね?

 ユキと同じようなことが簡単に起こるの?


「どうした? 君まで信じるとか言うのか?」

「いえ……そうですね……ユキ……熊谷さんは信じていましたか?」

「そりゃあもう真剣に。いつ頃消えたのかとか、その小学校を教えて欲しいとか……消えたのは小学校の中庭の壁だそうだ」

 

 瑞紀みずきが眉を顰めたままでいるのを見た酒井は、急に不安を覚えてそわそわと身体を動かし始めた。


「何だ? 何かあるのか? やっぱり彼女を雇うのは間違いだったとか言うなよ?」

「いえ、それはありません。熊谷さんは良い人ですよ」

 それに酒井さんと上手くやっていけそうな女性は、そうそう見つからないんですから。

 ……酒井さん、男性ウケは女性ほどは悪くないんだけど、それって結構問題ですよ。

 瑞紀みずきは心の中で付け加える。


「熊谷さんがそう言った理由が、思い至らないこともないんですが……」

 その一言に飛びつくようにして、酒井は瑞紀みずきに畳み掛けるように尋ねた。

「それは一体なんなんだ? トンデモ話を信じられる根拠があるのか? 自分で言うのも何だが、あんな良い会社辞めて、こんな事務所なんかに来ることにしたのは何故なんだ? いや、待てよ? 辞めたんじゃなくて、居られなくなったのか?」


 ウロウロと応接室の中を歩き回りながら、捲し立てる酒井を尻目に、瑞紀みずきはさりげなく腕時計を見る。


 お昼過ぎに帰れると思ったら無理そう。

 日本に居られるのは後少しだから、夕飯はちょっと奮発してこっちらしくて、こっちで食べた方が美味しいものにしようかな? ユキ、一緒に行けると良いんだけど。

 鉄板焼き? お寿司? 天ぷら? となると日本料理系? もっとカジュアルに?

 そうは言ってもこの間、向こうの両親を案内したばかりだからなんだか観光っぽいのは食傷気味だな。

 あ……むぎとろ、とか? 浅草観光に連れて行ったけど外国の人に麦とろは無いわぁ、と除外したんだった。

 山芋……良いかも。向こうで山芋は別物で代用出来なさそう…。


 酒井の訝しけな視線を感じ、瑞紀みずきはふと我に返った。


「君、聞いてた?」

「あ、はい。ユキ……熊谷さんですよね? 確かに個人的な理由もあって向こうの会社は辞めてしまったみたいですが……うーん。本人から聞いた方が早いとは思います。それが依頼人のお孫さんが壁にことに、熊谷さんが驚かなかったことと関係するというか……」


 酒井はこれ見よがしな溜息をひとつ吐くと、応接室の扉を顎で指して言った。

「……熊谷さん、呼んできて」

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