さくらはずっとそばにいた -一-

 彼が彼女の元から消えたあの日から、もう十二年になる。時は経ち、彼女は齢十八になっていた。


 女学校に通い、勉を修める毎日。心のどこか奥の方にぽかりと穴を開けたまま。

 幼き日の思い出。彼の控えめに笑う、その顔が、まぶたを閉じれば思い出せる。…もう彼は、生きていれば、二十になる頃だろう。

 この日、彼女がいつもよりぼんやりと思想しながら歩いていたのは理由がある。学友の婚約が決まったのだ。華族の御子息との婚約だそうで、お互いに好きあって決めたことだと嬉しそうに話していた。


 私も、幸せになりたいわ。…知らない誰かとは、嫌ですけれど。


 学友の幸せそうな顔を見て、昔の自分を鮮明に思い出してしまった。彼と会えなくなってからの彼女には、染井家でだめならば、と縁談がいくつか訪れた。


 全てお母様が爽快に蹴り飛ばしていったのは笑ってしまったけれど……、一人娘である以上誰かを選ばなければいけない日は必ず来るのよね。


 そうは言っても、彼女は彼を諦めてはいなかった。まだ彼はこの街で生きている、ずっとそう思って、過ごしてきたのだから。

 彼女は帰路へ歩を進めていく。


「八重垣さん、ごきげんよう」

 背後からかかる声に、振り向く。そこには、婚約が決まって幸せそうな学友がいた。タカネは薄らと微笑んで、会釈をする。

「ごきげんよう、木花さん」

 木花咲耶このはなさくや。通称『姫』と呼ばれる彼女。陶器のように透き通った白い肌に、すこし栗色の入ったゆるく柔らかい印象の髪。綺麗な発色の袴。見紛うことなき令嬢。よき暮らしをしているのだなという見た目。タカネは少しだけ、彼女が苦手であった。

「なにか御用かしら?」

 早く去りたい気持ちを隠し、笑顔で対応するタカネ。『姫』は口を開いた。

「聞きましたわよ。かの有名な綾錦家とのご婚約のお話、お断りしたとか」

 タカネが彼女を苦手な理由はここにあった。『姫』はたいそう噂好きで、往来にも関わらずこういった話をしてくるのだ。

「ええ、私にはもったいない殿方ですので」

「あらそう。お家柄としても申し分ないと思うのだけれど、なにが気に食わなかったのかしら。矢張り年齢?」

 綾錦家の婚約相手は、タカネよりも5つほど歳上だった。けれど、彼女にとってはそのようなこと毛ほどにも興味はなく。

「いいえ。違いますわ。私、心に決めた殿方がおりますの。……木花さん、あなたのように」

 優しく微笑むタカネに、『姫』は押し黙った。バツが悪そうな顔をしている『姫』を置いて、タカネは歩き出す。


 自分は上手く行ってるから、私を笑いたいのかしら。


 少し頬をふくらませたまま、歩いていた彼女であったが、ふと聞こえた悲鳴に歩を止めた瞬間、後頭部に衝撃を感じ、意識を落とした。


─────


 夕方。人々が帰宅をし始める頃合い。

 洋食屋『吉珍亭きっちんてい』は、夕食を求めて立ち寄る人が増えてくる時間。染井カスミ含む、桜花帝都警察の警邏隊もまた、混雑する前にと食事をとっていた。

 そこへ、一人の男がやってくる。この国からしたら、をかぶった洋装の男。その男は座席を見回し、染井カスミの姿を見ると、ふと微笑んだ。ほかに空いている席があるにもかかわらず、染井カスミの正面の席に、座す。

「やあ。カスミくん。…おや、ずいぶんと面白いものを食べてるね」

 男はメガネをくいと上げて、足を組んだ。なんとも華のある様相であるが、染井カスミは素知らぬ顔でライス・カリーを黙々と食べていた。その様子を、男はにこにこと見つめている。耐えきれず、染井カスミは息を吐いた。

「…葉桜殿。そうも見られては食べにくうございます。何用ですか?」

「うん」

 机に身を乗り出し、カスミの耳元に男はささやく。

が、消えちゃった」

「!」

 びくり、と驚いたそぶりを見せるカスミに、男は満足げに微笑んで座りなおした。カスミは思案するように口元に手を当て、目線を机の上の食べかけのライス・カリーへ移した。

「つまりは」

「そうだ、追いかけっこの始まりさ」

 染井カスミは机に銭を置き、立ち上がる。ここから先は、桜花帝都警察、警邏隊…としてではなく。桜機関の者として。

「隊長殿。一般市民よりがございまして、少々表のほうに行って参ります」


 日はもうすぐ沈もうとしている。果たして、は戻るのか。

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何度だって咲き誇れ! りゅうあ @Ryuahiyo5

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