クッキーは『友達』というけれど

 最近彼は仕事詰めで、帝都で顔を見ることもしばしばあるけれど、どの時も忙しそうに街中を駆け回っているので、彼女は彼に声をかけられなかった。

 もうすぐ季節は師走。師匠も走る師馳すしはす。本来の意味は僧侶だけれど、ある意味では師ともいえる警邏隊けいらたい隊長である彼が走り回っているのも、致し方のないことなのかもしれない。

 けれど、手の届くところにいるのになかなか話せないことに、彼女は少しだけ寂しさを覚えていた。

 今日も見かけたけれど、地図を見て指示をしている彼を物陰から見つめて去ってきてしまった。今の彼は、『大切な仕事』に集中したい時なのだから。そう、言い聞かせて。



 暖炉で温まっている部屋に戻って、外套を脱ぎ、まだ少し冷たい手を擦り合わせる。そうしている間に、部屋の扉が二度、たたかれる。

「タカネちゃん、少しいいかしら」

「お母様?ええ、今あけますわ」

 扉を開ければ、彼女の母親……八重垣椿が優しく微笑んで、立っていた。

「ふふ、洋菓子をいただいたの。一緒に食べない?」

 椿の言葉に、彼女は目を輝かせた。

「お紅茶ですわね!私ご用意しますわ!お母様、少しお待ちくださいませ!」

 元気よく走っていく娘に、母は微笑んだ。

 

 彼女の部屋で始まるお茶会。椿と、彼女は円形のテーブルを囲んで、暖炉の温かさを感じながら談笑していた。

 机に並ぶのは、渡来品の紅茶。そして、いただいたというクッキーをはじめとした洋菓子。彼女は一つ食べては目を輝かせ、一つ食べては嬉しそうに微笑むのだった。その様子を、椿は微笑んでみていた。

「タカネちゃんが喜んでくれたみたいで、よかったわ」

 椿は紅茶を置いて、首をかしげる彼女を見つめ、続ける。

「最近元気があまりないようだけれど、大丈夫?」

 すべてを見透かしたような母の目に、娘はえ、と声を漏らし、うつむいた。

「……もう、お母様はなんでもお見通しなのね」

、じゃないわ。タカネちゃんが何に悩んでいるかまではわからないもの」

 母は穏やかな表情で、再度紅茶を口に運ぶ。その優雅な姿を、娘は羨望のまなざしで見た。娘にとって、母は憧れであり、なりたい人であった。いつでも優雅で、周りに目を向けて、人に愛される。そんな人に。

「ふふ、でもね。女のっていうのは持っているわよ。タカネちゃん、もしかして恋のお悩み?」

 彼女はハッとして、頬を膨らませた。

「やっぱりお見通しじゃない…」

「あら、カマをかけたつもりだったのだけれど、当たってしまったのね」

 ふふふ、と椿は笑った。

母にはかなわないなと、あきらめたようにため息を吐く娘は、カップに手をかけて水面を見つめ、口を開く。

「カスミくんが、最近忙しくて…その、少し、ほんの少しなのだけど……寂しいな、と思って」

 彼女の指はカップと遊ぶ。少し揺れる水面に、暖炉の光がふわりと反射する。

「でも、彼は仕事をしているのだし、邪魔をしてはいけないと思って。私はただの、学生で…彼は身分をよく気に掛けるけれど、私なんかよりも彼のほうがずっと立派なの」

 母は娘の話を静かに聞いていた。、それに縛られる時代に産まれてしまった以上、避けられない。それは彼女タカネもわかっていることだった。一度、よく知らない相手と婚約するかもしれないところまでいった彼女タカネには、よく、わかることだった。

「そうね。タカネちゃん、一度ちゃんとお話したらどうかしら。そう、例えば」

 母はクッキーの入っているカンを優しくトントンとたたいた。

「お茶会をするとか、どうかしら?」

「お茶会…?でも、カスミくん、忙しそうですし…」

 うつむく娘の手をそっと包み、母は叱咤激励した。

「見てほしいならあきらめてはだめよ。押してみるのも手なの」

 名案ね!と母は立ち上がり、娘はきょとんとした顔を向けた。

 椿は、振り回すのが得意で急にこういうことを言い始める母だった。けれど、今までそれが悪いほうに向いたことがないのもあって、だれも止める者はいなかったし、タカネも母のそういうところが嫌いではなかった。

「きっと喜んでくれるわ。ね?クッキーを焼いて、遊びに行ってらっしゃいな」

 母の提案に、少し心配になる面もありつつ、彼女は頷いた。彼と話す時間が欲しかったのは本当であるし、彼が喜んでくれるかもしれないと思えば、その身は止まることを知らなかったから。


 それから、母の指導のもとクッキーを焼く練習をした。初めて作ったときは、焼き具合がよろしくなかったり、形が少しいびつになったりしたけれど。3日経って、今は、そこそこうまく焼けるようになった。おかげで、父の胃にたくさんクッキーが収められたのは言うまでもない。

 次の彼の休務日をこっそり警邏隊の人に聞いて、粛々と準備を進めた。

 彼の今の家は、八重垣家からは少し遠いけれど静かなところにある。師走の朝はとても冷える。外套に襟巻もまいて、焼き立てのクッキーを片手に彼女は歩き出した。

 彼の驚く顔と、喜ぶ顔が見たくて。


 「ふふ、…カスミくん、喜んでくれるかしら」


 足取りは軽く、クッキーも軽い。けれどその気持ちはずっと愛で深く、温かいものだった。

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