第二部 第三章 天津国1

 四月の第一土曜日

 天津国、天津国軍直轄、第12特別区域内、第113番庁舎(通称、和泉小槙邸)

 


 障子の向こうから現れた和泉小槙は、顔に青痣を作っていた。右の頬は腫れ、額には切り傷も見える。平生、彫刻のように隙のない、端正な顔立ちは痛々しいほどに腫れ上がり、試合を終えたばかりの拳闘士のような有様だった。


「おはよう」

 平然と和泉小槙が挨拶をしてくる。

 多少面食らいながらも、片桐は応えた。


「お…、はようございます」

「昨夜は良く休めたか?」


 おかげ様で、ちっとも休めませんでした、という一言を喉元で押し殺し、片桐は、和泉小槙の顔面を無遠慮に眺めながら口を開いた。


「…化物ばけものか何か出ましたか?」


「そう思ったのならば、駆けつけてくれても良かったのではないか」

「いや…無事そうでしたので、まあ良いかと思いまして…」

「放置して寝たと」

「いや、流石に寝てはいませんが…」

 上官の私邸で、あの状況を置いて眠れるほど剛胆ではない。


「寝足りないか?」

「いえ、もともとあまり眠らない性質たちなので、足りないというわけでもありません」

「そうか。良かった」

 和泉小槙は口の端を持ち上げて微笑した。腫れ上がった頬がぎこちなく動く。


 片桐は昨晩の出来事を思い出す。


 深夜、天津国の和泉小槙邸。その自室と思われる部屋にて、館の主たる和泉小槙は、どういうわけか暴れていた…ようだった。

 ようだったという微妙な表現になるのは、それが片桐の推測でしかないからだ。

 片桐は実際に彼女の暴動の様子を現認していない。片桐は、単に『気配当て』と時折聞こえてきた破壊音から、和泉小槙が暴れているのだろうと推測していた。


 明けて翌日の午前7時。それが現在の時刻だった。

 二人がいるのは客間で、片桐は、準備された朝食の膳の前に座っていた。


 国から支給されたという彼女の私邸は、國津国の家屋によく似ている類の家屋で、低い屋根と畳敷きの居室が、国津人である片桐には心地良かった。


 汁椀からゆらゆらと湯気が立ち上る。


 和泉小槙は白いシャツに薄灰色の下履き《ズボン》を身に着けていた。腰の辺りに小さく天津国を表す刺繍が入っていることから察するに天津軍の軽装なのだろう。

 彼女は静かに障子を閉めると、片桐の向かい(上座である)に置かれている、自分の膳の前に腰を下ろした。


「どういうわけか昨晩は眠れなくてな。腹が立ったので、自分で自分を殴って気絶させようと思ったんだが…。上手く行かなかった」

「それは…お疲れさまでした」

「あんなことは初めてだ。気分が高揚しているのに不快で…。だから今、とても眠い」

 彼女はあくびを噛み殺してからむにゃむにゃと口元を動かした。

 朝食の献立を確認するように膳に顔を近づけ、汁椀から立ち上る湯気を吸い込み、満足そうに微笑む。


「いくぶんか眠れたのですか」

 尋ねると彼女は視線だけを寄越してから、

「薬を飲んだからな」

「左様ですか」

「……最初から飲めば良かったのに、と」

「…何も言っていません」

 思ったこと全てを口に出して良いのは子供だけだ。そして片桐は子供ではない。


「仕方ないだろう。処方されていたのを忘れていたのだから」

 和泉小槙はそう言って、勝手に口を尖らせた。

「以前にも眠れないことがあったのですか」

「うん?いや…………。うん。そういうことになるな」

 和泉小槙は歯切れ悪くそう言って、明後日の方向に視線を逸らした。

 何かしら隠しているのは明らかだったが、さして興味もなかったので、片桐もそれ以上は追求しなかった。


 廊下の向こうから人が近づいてくる気配を感じて、会話を切り上げる。和泉小槙もそれを察したのだろう、口をつぐんだまま合掌の時を待っている。


 数秒して障子が開かれる。


「おはようございます。まぁ、どうしたのです?そのお顔」


 現れたのは、年の頃五十の女だった。昨日紹介されたところによれば、彼女は和泉小槙の使用人で、名を小夜というらしい。

 使用人は小袖の上に割烹着を付けて、手には丸盆を手にしていた。盆の上には急須と湯呑が乗っている。


「ちょっと昨晩色々あってな」

 和泉小槙が答える。

「勝手に傷を作って…。また局の方に叱られますよ。昨日、叱られたばかりでしょう?」

「昨日は、作戦部の人間に小言を言われただけだ。局の人間には叱られていない」

 しかめっ面で和泉小槙が応える。

 小夜は嘆息してから、片桐方へと顔を向けた。


「すみませんね。突飛で…。驚かれたでしょう?」

「徐々に慣れつつある自分に驚愕しているところです」

「あら、お優しい」

 小夜は微笑みながら、湯呑を片桐の膳の上に置いた。慣れた手付きでそこへ茶を注ぐ。


「お口に合うと良いのですが」

「いただきます」


 片桐は配膳されている朝食に向かって合掌した後、箸を手に取り、米を口に運ぶ。ほのかな甘みが舌の上に広がっていく。


真由まさよし様、今日のご予定は?」

 小夜が和泉小槙に尋ねる。


 和泉小槙は咀嚼しながら、ゆっくりと片桐の方に面を上げた。


「…いや、私に聞きます?」

 昨日、入国したばかりだというのに。

「貴官は昨日付けで私の補佐官になったのではなかったかな」

「それはそうですが…」

「ごめんなさいね」

 小夜が眉尻を下げて謝罪してくる。片桐はそれに応じてから、

「いえ、構いません。そうですね…」


 片桐は箸を置きながら、昨日の出来事を回視する。

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