終章 2 (第一部 完結)
同時刻
國津国、旧伊具栖町、御鏡池前
十五年ぶりの郷里は片桐を旅客のような心持ちにさせる。
山の形、池の色、川に流れる水の量、そこにかかっていたはずの橋、反対に…、なかったはずの石碑。
ざっと見渡しても、どれもが目新しく、それ故に何も心に染み入っては来ない。無遠慮に記憶に足を踏み入れ、たちまち過去に連れ戻すような強引さを失った郷里は、果たして
「片桐曹長、あったぞ」
遠くから和泉小槙の声。
出会ってまだ一週間ほどしか経っていないはずだったが、こちらは反対にひどく耳に馴染んでいた。
振り返ると、彼女はこちらに向かって手を降ってきた。人懐こい笑みを浮かべて再度言ってくる。
「あったぞ」
「…今、参ります」
応えながら近寄ると、彼女は自身の目の前に立つ石碑を指差した。彼女の頭の少し上。彼女の隣に行くと、そこに片桐姓の人名がいくつか並んでいるのが分かった。家族の名を見つけると、さすがに込み上げるものがあった。
「あってるか?」
「はい。ありがとうございました」
別段、頼んではいなかったが、それでも片桐はそう応えた。
石碑には、
「天津人の名はどこですか」
「上の方にある」
彼女はそう言って石碑のてっぺんの方を指差した。
目を凝らすと、表題のように大きく掘られた「天津」の文字が見えたが、その下に刻まれている文字の子細までは見えない。
石碑は、天津国に配慮した國津国が建立したものだ。上には天津人の、下には國津人の犠牲者の名が刻まれている。
「お兄様の名は見つかりましたか」
「上の方だろうからな。遠くて見えんな…。跳ねると怒られるだろうし」
彼女はそう言ってそろそろと振り返った。
彼女の視線を追い、同じように振り返ると、視界に男が一人立っているのが見えた。
和泉小槙と同じ薄灰色の外套を身に纏っているその男は、天津軍の衛生兵ということだった。和泉小槙の体調観察のために付き従っているらしく、舛田から伊具栖まで同行していた。
淵主との戦闘から四日が経過していた。
目を覚ましたとき、片桐は天津軍の軍艦の中にいた。いつものように体に傷はなかったが、大型の淵主が興ってからの出来事が思い出せなかったので、様子を見に来た天津軍の兵士に和泉小槙のことを尋ねると、精密検査中だと教えてもらった。それが一昨日のこと。
結局、和泉小槙に会えたのは、それから一晩経った昨日のことだった。戦闘の影響なのか、腰まであったはずの銀髪は肩の辺りで短く切り揃えられていた。似合っていないことはないが、短くなった原因が分からないので、その話題には触れられないでいる。
遠野橘にはまだ会えていない。何でも、彼は和泉小槙を國津へ連れてくるのに、数十にも及ぶ違法行為を犯していたらしく、天津軍に保護された直後に拘束され、すでに身柄は天津にあるとのことだった。
「あなたは天津に帰らなくて良いのですか」
「私まで帰還してしまうと、お前を連れて行く者がいなくなるだろう」
こちらを見下ろしながら冗談の口調で言ってくる。
「逃げやしませんよ。どうせ行くところもありませんし…。死んだことになっているのでしょう?」
「
「光栄なことで」
そう返して足元に視線を落とす。
風が吹く。遠くの樹木が揺れるのを見つめながら、片桐は抱いていた疑問を口にする。
「結局、最初から私のことを知っていたのですか」
「そうだ。少し前に、要岩の近くで密偵と遭遇しなかったか」
「…あれは天津の者でしたか」
「そいつから話があった。對源を見つけたと」
「きちんと背中を蹴った己を誉めてやりたいです」
そうでなければ、今頃舛田は壊滅しているだろう。
「私にとっても最上の幸運だった」
和泉小槙はそう言って微笑む。機嫌のよさに乗じて、片桐は更に問いを投げた。
「貴族の娘の話は?遠野橘少佐は本当に探していると言っていましたが」
「その密偵の名が菊乃なんだ。菊乃と遠野橘は婚姻関係にある…はずだ」
「はず?」
「そう聞いている。特殊な関係らしいから、夫婦という言葉が当てはまるか分からないが、夫婦として登録されている…はずだ」
「背中を蹴り上げてしまったのですが…」
「遠野橘は知らないだろう。もう何年も会っていないようだし」
「それは夫婦と言えるので?」
「だから特殊だと言ったろう」
和泉小槙は頬を膨らませた。
こうして見ると、十代の少女のような快活さがある。
「私はこれからどうすればよいのですか?」
最後の疑問を投げると、和泉小槙は膨らませていた頬をもとに戻した。
「そうだな。急ぎ、天津に来てもらおう。西部戦線も再び
和泉小槙はそこまで言うと、こちらに相対するように向き直った。右手を差し出すと、
「和泉小槙・インカアクセラ・
「
「儀式は大切だぞ」
「それは否定しませんが」
呟いてから、
「
そう言って、差し出された手を握り返す。
硬い手のひらの感触に、彼女の過酷な人生を見た気がした。
ふと見上げると浮島大陸の切れ間から陽光が降り注いでいた。それは第三階層の初夏の兆しだ。こういった日を何度か繰り返したの後、國津の春は間もなく行ってしまうだろう。
和泉小槙が手を離し、踵を返す。
「さあ、行こうか。片桐」
「はい、大尉殿」
返事をして―
そして、片桐は、長く続くであろう道のりの、最初の一歩を踏み出した。
(完)
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