第七章 反物質( 3 )

「第三階層かぁ…。うん、まあ。そうだよね。天津人で、低對素濃度に耐えられるんだから、僕が情報部長でもそうする。大丈夫、想定の範囲内だよ」

 遠野橘はそう言うなり、突き当たりの部屋に戻った。意図がくめず、和泉小槙は野波安里と顔を見合わせる。また待つのか、と思いかけたところで、遠野橘が戻ってくる。彼は奇妙な形をした箱のようなものを手にしていた。

(何だ、これは)

 と、和泉小槙は眉を潜めたが、これこそが、女…、菊乃が言っていた装置なのだろうと察する。


 遠野橘が唐突に語り始める。こういう部分が彼の例外だった。彼は菊乃が絡むと、途端に理性的ではなくなる。


「これはね、對素を液化して、保管しておくための箱なんだ。對素を液化すること自体はそう難しい技術ではないのだけど、その状態を保つ方は難しいんだ。水素の液化技術を応用して冷やしたり、温めたりして随分苦労したよ。これはマグラマという第一階層の秘境にいるマグラマイボガエルという蛙を仮死状態にして作った容器でね。あ、マグラマイボガエルは産卵のために第二階層の湖まで旅をすることがあるんだけどね、そのために第一階層の對素を保管する器官が備わってるんだ。まぁ、それは有名だから知ってると思うけど。それでそのマグラマイボガエルなんだけど、最初は皮膚を剥いだりして、何とか入れ物にしてみたんだけど、失敗しちゃって。それで、仮死状態、つまり脳死状態にしてその機能を保全したってわけ」

「何度見ても気持ち悪めな箱ですね」

「…私は遠野橘の方が気持ち悪いと思う」

 和泉小槙がじと目で言うと、遠野橘が的はずれな弁解をした。


「僕だって好きで皮を剥いでるんじゃないよ」

「いや、そうではないが…。まぁ、そういうことで良い」

 どちらにせよ、上手く伝えられそうにもなかった。

 これから無理なお願いをするのだから、気を使っておいて損はないだろう、という気持ちもある。


「最終的にはこれと同じ機能を持つ貯蔵庫を作る予定なの。そうしたら和泉小槙ちゃんも無茶しなくて良くなるかも」

 隣から野波安里が助手らしく助け船を出す。


「戦場で活用出来るまでに、どれぐらいの年数がかかる?」

「分からないというのが正直なところだね。早ければ三年くらいで遅ければ十年くらいかな。まあ、実装できない可能性もあるけど」

「…そうか」

 うつむき、心中で呟く。

(…十年生きている自信はないな)


 これまでも部下の命を犠牲にギリギリ生き延びているに過ぎない。十年は持たないだろう。

(やはり對源フォンスがいなければ…)

 顔を上げて、口を開く。


「それを持って降りるつもりなのか?」

「良い機会だからね。近いうちに実験する必要があったし。僕は申請すれば明日にでも許可が下りるだろうけれど、問題は君だ。連れていけと言うのだろう?」

「そうだ」

「何しに行くの?」

 野波安里が尋ねてくる。

「人形の對源フォンスが國津国にいるらしい」

「えー!?それは結構大きな話…」

 野波安里はそう言って口許を掌で押さえるような仕草をした。


「…それは菊乃から?」

「そうだ」

「そうか…。じゃあ、確度の高い話だね。他にそのことを知っている人は?」

「私は誰にも告げていない」

「じゃあ、知っているのは我々だけか…。今日はよく大きな話が舞い込んでくるね」

「…先程の男か?」

「そう。でも、對源とは正反対の意味合いを持つ話なんだけど」

「正反対とは?」

「對源は君たち對精の糧となるだろう?そういう意味でね」

「結局、何の話をしてたんです?」

 野波安里が尋ねる。


「対消滅の話だけど…、反物質とか分かる?その素粒子と同じ質量と角運動量を持ってるけど、電荷的に正反対の性質を持ってるっていう」

 遠野橘の問いかけに、和泉小槙は顔を左右に振った。隣の野波安里は頷いている。言動から忘れがちであるが、彼女も研究者なのだということを思い出す。


 遠野橘は「まあ、そうだよね」と小さく息を吐いてから、

「粒子物理学の研究を…、反物質、特に反對素の捕捉を専門にしてる奴なんだ。物質が生まれるときに、対となる反物質と共に生まれることは知ってるよね?」

 遠野橘はそこまで言うと、コーヒーカップを口へと運んだ。


 沈黙を肯定と取ったのか、それとも回答がなくても構わなかったのか、彼は続ける。


「あの男は、宇宙線から反對素を測定する研究をしてたんだけど、それが最近見つかったらしくてね。それで、僕の研究室までやってきたってわけ。ほら、僕は對素の方を研究してるから」

「見つかったんですか?反對素」

 野波安里が驚愕の表情で尋ねる。

「らしいよ。でも見つかった場所が問題で…。宇宙からじゃなかったから」

「では、どこで?」

 遠野橘は靴の先で床を叩いた。

「僕たちの足元。このレムナケラエ第七大陸の基底部で」

「基底部って、あの栗の先端みたいな形をしている空洞のことですか」

「あそこから放射されている物質の測定結果が出たらしくね。結果、反對素だったそうだよ」

「それは…、その反對素というのは、對素を消滅させる性質のものなのか」

「そうだよ。對素と全く同じ質量の、正反対の性質を持った粒子だ。出会えば必ず双方が消滅する。対生成の反対…、対消滅だね」

「私たち對精の天敵となる得る話なのか?」

「今すぐどうこうって話じゃないよ。まだ見つかっただけだから。けれど、問題はどうしてこの大陸の基底部から放出されていたのかってことだ。元々、浮島大陸が一つの巨大な軍事装置だったという伝承を持つ民族もいるみたいだけど…。ひょっとしたら、この大陸には反對素の生成が可能な装置が埋まっているのかもしれない」

「埋まってって、今更掘り起こせないでしょう。全体的に結構、先進国ですよ」

「地面は舗装されてるしね」

「おっきな素粒子加速器を作った方が早くないですか?」

「どれほど巨大なものになるのか、検討もつかないけどね。いずれにしても遠い未来の話だろう。しばらく、戦場まだ君たち對精トルトニスの天下だ。だから、對源フォンスが存在しているのだとしたら、かなり政治的にも影響のある話なんだよ」

 遠野橘はそこまで言うと、一息ついてから、

「独占するつもりはないの?」

「…まだそこまで考えが及んでいない。ないと言えば嘘になるだろう。ずっと望んでいた存在だからな」

「素直だね。菊乃が目をかけるのも分かる」

 遠野橘が嘆息する。口調から明るい展望を感じ取り、表情がゆるむ。


「同行してくれるのか?」

「喜ばないでよ。ばれたら僕は重罪人なんだから。仕方なくだよ。

「降りても会えるかは分からない。町の名は聞いたが、そもそも對源フォンスの名も教えてはもらえなかった」

「会えば分かるって?」

「そうだ。自分の目で見て判断しろと言うことなのだろうが…」

「…なるほど」

「同行してくれるのか?」

「せっかくのデートのお誘いを断ることは出来ないだろう?仕方なくだよ」

「…デートではないと思いますけど」

 隣から言ってくる野波安里は黙殺して、遠野橘は言う。

「じゃあ、行こうか。國津国へ」







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