第八章 異変(1)

 國津国

 三月の第三水曜日

 午前七時四十五分


 機械化技術に関して後進国である國津国では、民間、軍事を問わず、重量物の輸送のために馬を利用する。


 陸軍の兵営では、馬の健康維持のために獣医事務室という設備があり、馬を利用する際には、中隊長の許可が必要だった。

 許可申請書には、使用目的と行き先、それに馬の返還予定日時を記入する欄がある。


 片桐が、今朝方けさがた、その申請書の使用目的欄に失踪人捜索と、目的地欄に舛田駅前付近と、返還予定日時欄に即日午後四時と記載し、遠藤に申請書を提出した。厳密には、その時点で遠藤はまだ登庁していなかったため、遠藤自身に申請書を渡したわけではない。片桐は、遠藤の机上にある未済箱に申請書を放り込んで、兵営を出た。

 それが、今から三十分ほど前の出来事である。


 片桐は馬の手綱を引いて島屋の玄関先に立っていた。

 片桐は、ここ二日だけで、三度目になる島屋の玄関を見つめた。

 四枚からなる玄関扉の間口は広く、高さもある。扉の両脇にある大きな作りの門と年期の入った暖簾とも相まって、格式の高さを感じさせる。


「どのような方々なのですか」

 隣からそう尋ねてきたのは野崎である。

 片桐は、野崎と連れだって島屋を訪れていた。

「正直昨日会ったばかりで、俺もよく分からないが」

 片桐はそう前置きしてから、「現時点では一人は虚弱の常識人で、もう一人は…闘犬と認識している」

 本当は竜だと断言したかったが、これから会うのに、悪い印象を与える必要もないだろうと判断して、幾分か表現を抑えて告げる。


「闘犬?犬のですか?」

「そうだ。虎でも良い」

「…いずれにしても恐ろしいですね」

 野崎は強ばった声音で呟くと、緊張したのか唾を飲み込んだ。大きな喉仏が動く。


 野崎にはその見かけとは違い、慎重な一面がある。本人は気にしているようだったが、片桐は、野崎のそういう繊細な部分が細やかな気配りに通じているのだと思っている。


「それで、呼びに行かなくてもよいのですか」

 玄関先で足を止めた片桐に疑問を持ったのだろう。野崎が聞いてくる。

「待ち合わせの時間は八時だ。もう出てくるだろう」

「激昂したりはないですか?現れた途端に頭にかじりついたりは…」

「安心しろ。理性はあるはずだから」


(それに)

 と、胸中で付け加える。

 昨晩の和泉小槙の言葉を信じるのならば、彼女は自分が建物に近づいたことに気付いているはずだ。

 気付いているのに出てこないのであれば、身支度みじたくに時間がかかっているのか、二日酔いで起き上がれないのかのどちらかだろう。いずれにしても部屋まで呼びに上がるのは気が引けた。

 そんなことを思案していると、

(…来たか)

 片桐は島屋の内部を彷徨うろつく強大な気配を感じとる。

 和泉小槙は一人で、島屋の階段を下っているようだった。


 推測通り、秒数の後に玄関の引き戸が開き、中から和泉小槙が現れる。

(おや)

 そう思ったのは、和泉小槙が身に付けていたのが、天津軍の軍装ではなく、島屋の浴衣だったからだ。上背があるためか、裾が足りていない。


「おはようございます。和泉小槙いずみこまき大尉」

 片桐が敬礼する。

 和泉小槙の顔色は悪く、目の下には隈が目立つ。

 起きたばかりなのか、彼女は目をしょぼしょぼと瞬きながら、二回こちらへ手招きすると、そのまま踵を返して旅館の中へと戻っていった。


 どうしたものか、と思案して片桐は野崎を見上げる。

 野崎は敬礼するのも忘れて、呆然ぼうぜんとその場に立ち尽くしていた。その視線の先には和泉小槙が開けっぱなしにした玄関がある。

 微動だにしない野崎に向けて、片桐は口を開く。


「…闘犬の方だぞ」

「望むところです」

 野崎は何故かそう言って力強く頷いた。

 片桐は嘆息して、馬の手綱を引くと、それを玄関脇にくくりつけた。


 ついていかねばならない。

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