第七章 反物質(2)

 遠野橘がいる部屋から男が出てきたのは、十五分後の出来事だった。

「お疲れさまでーす」

 野波安里のなみあさとが部屋から出ていく男に向かって声をかけるが、反応はなかった。男はそのまま何やら興奮した様子で、独り言を呟きながら出ていく。


「ね、ヌートリアに似てるでしょ?かわいい系」

「…かわいい?」

 顔をしかめて応えるが、野波安里の返事はなかった。気の毒なことに、眼鏡の度があっていないのだろう。彼女は世界がきちんと認識できていないようだった。


「やあ。来てたの」


 白衣姿の遠野橘がコーヒーカップを片手に部屋から出てくる。彼は部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーに近づくと、コーヒーを抽出しながら、

「ごめんね。面白い話でさ」

「對素のことか」

 問いかけに、遠野橘はいや、と顔を左に傾けた。

「この浮島大陸の秘密について。存在意義というべきかも知れないけど」

「意義?」

「用事があるんじゃないの?」

 遠野橘はそう言って完成したコーヒーを口元へと運んだ。一口すすってから、

「君はいつも面倒事をたずさえて、この部屋にやってくるじゃないか」

「覚悟してくれているなら有難い」

「自重してよ。降格したばかりなんだろう?」

「今度は除籍に成るかもしれん」

「兵器を除籍クビにするわけないだろう?人間ではあるまいし」

 遠野橘が苦笑する。

「実はな」

「ちょっと待って。まだ聞くとは言ってないよ」

 遠野橘がやんわりと否定する。その声に焦りはない。彼は基本的におおらかな人格者である。基本的には。

「聞いてから判断すればいい」

 答えると、遠野橘は困ったように眉根を寄せた。

「責任というのは、知ってるだけでも発生するんだよ」

「…ではどうすればいいのだ」

「出来たらこのまま何も言わずに帰って欲しいな」

「…」

 和泉小槙は遠野橘を見上げる。


「そんな顔をされても…。僕も失いたくないものが沢山有るんだよ」

「…分かった」

 そう言って鳴神を手にして椅子から腰を上げる。

「邪魔をしたな」

「他に当てがあるの?」

「無い。しかし、やむを得ない」

「そう。でも、諦めるということも大切だからね」

「その言葉はそのままお返ししよう。ではな、野波安里少尉」

「さようなら。和泉小槙ちゃん。菊乃きくのんによろしくね」

「ああ。伝えておこう」

「話を聞こうか。和泉小槙大尉」

 唐突に遠野橘が言う。乱暴にコーヒーカップを机上へ置いたせいだろう、机の上にはコーヒーが飛び散っている。

「物わかりの良い大人になってはいけない」


「…そういうところですよ。先生」

「心配するな。元気そうだったぞ」

「…いつ会ったの」

 落ち着いた口調で尋ねてくる。俯いているせいで、顔が…、特に口許が見えない。嗤っているような気もする。


「言わない。言ったら、貴官は全ての権限と技術を駆使して、この国を封鎖するだろう?」

 和泉小槙は机上に山のように積まれた通信機機器に視線を移した。


 遠野橘の専門は對素の研究である。彼が通信機器をどの程度扱えるのかについて、和泉小槙には分からない。そもそも自分がそういった機械類を扱うことがないので、たとえ説明を受けたとしても遠野橘の技能についても理解出来ない。

 ただ、予防線は張っておく主義だった。戦場でも、それ以外の場所においても。


 遠野橘が顔を上げる。彼はやはり嗤っていた。口許を歪めながら言葉を紡ぐ。

「その口ぶりだとまだ天津に居るってことだね。じゃあ、会ったのは今日か昨日か…」

「心配せずとも居場所は教えて言いと許可されている」

「どこ」

 間髪入れず尋ねてくる。

「言ったら協力するしかなくなるが、良いか?」

「わー、これはかなりの厄介事ですよ、先生。あの菊乃んが自分から居場所をバラすだなんて」

 野波安里が横から口を出す。しかし、遠野橘は構わず言ってのけた。


「挑戦しない人生なんてむなしいと思わない?」

「感謝するぞ。貴様の粘着性質に」

「それで、どこなの」

 重ねて聞いてくる遠野橘に和泉小槙は答える。


「第三階層、國津国」

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