第一章 遭遇(1)
国津国
三月の第三月曜日
第五師団第十三中隊本部
竜がいる。
兵舎二階の廊下で、片桐は眼前の応接間の扉を睨んだ。
(間違いない。この中に竜がいる)
しかし、応接間の扉は当然のことながら、片桐に解を与えてはくれない。自問に対して戻ってくるのは自答のみ。普段はそうして覚悟が決まるのだが今は違った。
物心ついたときから、五感が人より優れていた。
生き物の気配、もっと言えば生命力のようなものを感じとることができた。「のようなもの」と断ったのは、結局、片桐自身、それが何なのかよく分かっていないからだ。
片桐は今年で三十一になるが、一言で他人に説明できる都合の良い単語にはまだ出会えていなかった。
だから、片桐は、その感覚について説明するとき、専ら、具体的に何ができるのかについて説明することにしていた。
目を
若い頃はよくこの力を使って仲間同士で遊んだ。自慢もした。部下を持つようになってからは止めたが。
止めたのは、戦場の最前線において、自慢できるほどの能力ではないこと、つまり、少々気配らしきものに敏感だからと言って、死線の向こうにいる仲間を助けられるわけではない、という現実を嫌というほど思い知らされたからだ。
軍の仕事において使える機会と言えば、せいぜい、密偵の正体を
生き物は種類によって、その「生命力のようなもの」の大きさが異なる。
そして、それは体の大きさに比例することが多い。
応接間からは、その竜の力が
分かりすぎるということは、たまにこうして
(即死するだろうがな)
竜の好物は人間だ。戦場でも何人か餌食になった仲間がいる。
竜の生息域は基本的に空であるから、空から遠い地上、第三階層の
片桐は嘆息した。
こうしていつまでも廊下で迷っているわけにはいかなかった。
応接間に来るよう呼びつけられたのだ。
片桐は目を閉じ、応接間の中の気配を感じとる。
応接間の中にいるのは、竜が一匹と人間が二人のようだった。幸いなことに人間二人はまだ無事で、襲われている様子もない。
(楽に死ねるのなら最良だ)
扉を叩くと、中から入室を許可する声が聞こえた。苛立ちを含んだその声は、竜ではなく、人間の、もっと言えば片桐の上官の声だ。聞き覚えはあったが、聞き慣れたとは言い難い。どうやら上官は無事なようだった。
「失礼します」
多少、緊張しながら応接間の扉を開いた。
結論から言えば、応接間に竜はおらず、客が二人(男女が一人ずつだ。)、部屋の中央に置かれた皮張りの長椅子に並んで腰を下ろしていた。
部屋の奥が上座になる関係で、客は入り口の方に
室内に竜はいなかった。
しかし、客の女は、竜と同位の力に満ちていた。
(この
銀髪に浅黒い肌の、年の頃、
女は軍刀の
娘と視線がぶつかる。
薄紫色の瞳は宝石のようだった。
(何がいるんだ)
娘の形相に片桐は背後を振り返る。
分かっていたことだが、特に何者も存在していなかった。
「どうしたの…?」
問いかけたのは片桐ではない。
女の隣に座っていた客の男が、女を見上げて声をかけた。
「……」
女はゆっくりとこちらから視線を外し、隣の男を見下ろした。数秒見つめた後、顔面の筋肉を緩ませ、無表情で「…何でもない」と腰を下ろす。
「すみません。失礼なことを」
男が女に代わって謝罪してくる。
天津軍の支給品なのだろう、男は女と同じ外套を身に付けていた。
男の風体から、片桐は彼らの母国を推測する。
(
「何をしていた」
そう言ってきたのは上官だ。名を
遠藤の肩書きは、第五師団第十三中隊長であり、階級は大尉だ。その肩書きが変わったのはつい二週間前のことで、遠藤は真新しい大尉の軍装(肩章は黄色い三本線)を身に付けていた。
遠藤が舛田に来てからまだ二週間ほどしか経っていない。
(何をしていたか、だと?)
こんなに滑稽な質問もない。片桐はそう思った。
本日の第二小隊の予定も、愚かなことに兵営内での訓練だ。それは朝一番で中隊長である遠藤自身が決めたことだ。だから片桐は営兵の
答えが分かっている問いは叱責だ。この場合は部屋に顔を出すまでに時間がかかすぎたことを責められている。
しかし、片桐自身は出来る限り、急いで応接間まで来たつもりである。最終的には部屋の前の廊下で数秒無駄にしたが。
待つ方と待たせた方では時間の流れが違うらしい。
「申し訳ありません」
片桐は頭を下げる。
「こちらこそ御免なさい。急にお呼びして」
応えたのは遠藤ではなく、客の男だった。競うように頭を垂れる。
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