第41話 そういう生き方

 良い夜だった。

 月光も潮風も、どこかの木から実が落ちる音すら澄んでいた。

 エピリカは自分の小屋の扉の前に立ち、『一緒にこの島を出ないか』と申し出て来た男に対し、腕を組み悠然と顎を上げた。

 これがいつも通りの自分だったし、いつも通りでしかいられない自分だった。

 それに誇らしさを感じる事こそあれど、自分だけがこの澄んだ夜の中、濁っている様な気がして眉を吊り上げる。 


「なんて言った?」


 島の人間なら、彼女が眉を動かすだけでも顔色を伺うというのに、その男は大して動じない。むしろニヘラと気の抜けそうな笑い方をして彼女を見るので、苛立たしくって仕方がない。

 私が他所の島の代表を恐れないのと同じなのだろう。彼は踊らない。と、エピリカは苦々しく思った。


「一緒に、島を、出ましょう」

「馬鹿言わないで。行かないわ」

「エピリカ……僕は、もう、この島へ、戻れま、せん」


 彼の言葉を聞くと、エピリカの心の中が急速に冷たくなった。だから彼女はその温度に合わせた冷たい表情と声音で問い返した。


「だから?」


 男は何かを諦めた時の様な顔でニヤッとし、肩を竦めた。


「だから……心配、です」

「何が?」

「あなたが」

「何故?」

「一人を、選んでいる、から」

「神に見放された人間はそうするしかない」


 声が思う様に出なくて、掠れた。

 顔が歪みそうになるのを、怒りの表情で堪えた。


「なんて顔してるんだ、エピリカ……」


 男がエピリカの手を取った。


「触れないで!」


(見ないで!)


 彼女は開いている方の手を振り上げ、出会った時の様に彼の頬を打った。しかし、彼はビクともせずに強い光を湛えた瞳で彼女を見詰め、言葉を区切らずに言った。


「君は誰も、なにも信じてない。存在する神さえも」

「ふん、あなたを信じろって言いたいの?」


 男が顔を歪めた。エピリカは小気味よく思った。彼女の中には、『勝つか負けるか』という愚かな精神が大穴を開けて巣食っている。

 男は困った様に言葉を選んで発した。


「あ、あ……絶句しちゃうよ……うん、僕で良ければ、信じてみては?」


 エピリカは腕を組み直し、すい、と彼に近付くと、男の瞳を間近から見上げた。夜闇の中でも、彼の両目が礁湖の色に見えてしまうくらいに、彼の瞳の色を覚えてしまっている。

 けれど心は許せなかった。

 時間が足りなかった?


――――いいえ。


 エピリカは唇の片端だけを上げ、挑発する様に囁き声で言った。男がからかわれたと思って、怒ってしまえばいいと思った。


「い や よ……ふ、ふ……」

「……エピリカ」


 エピリカは男から近付いた時と同じ様に、すい、と離れて言った。


「望んだワケではないけれど、あなたは私を庇ってくれたから、見送りくらいはしてあげるわ」


(嫌ってよ。もう私に価値は無いと、皆みたいに)


「……わかり、ました」


 ぎこちなく男が言ったので、エピリカは小さく息を吐く。終わった。疲れた。

 しかし、すぐに背を向けると思った男はポケットに手を突っ込み、再び彼女の手を取った。脱力から再びカッと発火するまでの間に、彼女の手の中に小さな物が転がり込む。

 眉をしかめて男を睨んでも、短い今までの間ずっとそうだった様に、微笑みが返ってくるだけ。


「あげるよ」


 彼はそう言って、今度こそ踵を返し、暗い夜道を引き返して行った。

 エピリカはポカンとして彼の背を眺め、煩わしい男を追い返したのだ、と、顔を微かに引きつらせてニヤリとした。


(行かないで)


 頬がピクピクするのを無視して、手の平の中を見る。

 真っ白な真珠が月明かりに仄かに照っていた。


(心は許せなかった)

(時間が……?)

(いいえ)


 エピリカはグッと顎を上げて、月を見上げる。


(こういう生き方なだけ)



 その夜、エピリカは夢を見た。

 小さな頃の夢だ。

 その頃は、エピリカにママがいた。

 エピリカのママは、エピリカが生まれた時に見た夢に憑りつかれていた。

 夢は、娘が十代になる頃には自分が死んでしまうという夢だった。

 それは、優しい恩恵になる筈のものだったが、エピリカのママは焦ってしまった。

 エピリカがひとりぼっちになるまでに、島でしっかりとした地位を築ける様にと厳しく踊りを仕込んだ。

『誰にも負けないで』が、ママの口癖だった。

 とてもとても厳しかった。甘やかさのない、踊りの日々だった。

 エピリカは踊った。一生懸命踊った。

 けれど、その頃のエピリカには何かが足りなかった。

 今一つ魅力に欠けている事を、ママは沢山指摘して、エピリカも試行錯誤して努力に努力を重ねた。

 けれども何故だろう、あの人みたいに踊れない。あの子みたいに踊れない。

 悔しかったし、ママに褒めて欲しくてエピリカは夜もコッソリ練習した。

 駄目なのか、私は駄目なのか、と、何か恐ろしいものに追われる気持ちで歯を食いしばって踊った。

 そんな月日が続き、夜の練習中に一人で悔し涙を流していると、自分の足元に影が踊った。

 それはそれは、月の明るい夜だった。

 誰の影だろうと、エピリカは辺りを見渡したが、自分以外誰もいない。

 ヤシの葉の影が風に揺れたのだろうかと、地面をジッと注意深く見詰めていると、また、影が踊った。

 誰もいない。

 風も吹いていなかった。

 しかし、踊る影は月光を受けて作り出され、エピリカの足元を踊っているのだった。

 その踊りは、誰のものとも似ていなかった。そして、激しく巧みだった。

 エピリカは影を真似て踊ってみた。不思議な事に、自分にピッタリな気がした。

 影の動き、呼吸の取り方全てが、目の覚める様な感覚をエピリカにもたらしていった。

 これだ、これが私の踊りだ、と、エピリカは思い、影の動き全てを真似て踊った。

 踊っていると、大地が自分の脚を愛してくれている様な気がした。風が背を押してくれる様な気がした。眠る草花が昼に残した香りが、動きに余裕を与えてくれる様な、木々の葉音や海のさざ波が胸の内のリズムを呼び覚ましてくれる様な気がした――――。

 エピリカは今まで余裕の無かった器の中に、島からの愛と島への愛をたっぷりと湛え、波立たせた。


「ああ、島、島、私の島――――!!」


 いつしか、不思議な踊る影はエピリカの影と重なって、エピリカ自身の踊る影になった……。


 エピリカは夢中になり過ぎて、家に帰るのを忘れていつの間にかその場で眠ってしまった事すら覚えていない。

 クワクワ鳥の鳴き声で目を覚まし、慌てて家に帰るとママに酷く叱られたけれど、エピリカはちっとも堪えなかった。朝の海よりも瞳をキラキラさせて、幼いエピリカは思った。『もう誰にも負けないわ』

 そしてその通り、誰にも負けなくなった。誰よりも素晴らしい踊りを披露して、皆を驚かせた。

 ママは、それからすぐに亡くなってしまった。

 死に際にエピリカの手を取って、やっぱり『誰にも負けないで』と言うママに、エピリカは約束した。


『誰にも負けないわ』


 そしてエピリカは、ルグになった。

 彼女は誰にも負ける気がしない。踊りも、島への愛も。


 けれど、けれど……。

 あの影はなんだったのだろう、と、時にエピリカを怯えさせる。

 不思議が怖いんじゃない。

 自分が手にした踊りが、あの影のものだった事が、怖いのだ。



 努力してきた。

 (報われなかった)

 私は巧みに踊れる。

 (元々はあの影の踊り)

 皆私をルグと呼んだ。

 (もう誰も呼ばない)

 それでも。

 (戦う相手なんていないの、分かっている)

 私は誰にも負けない。

 (こういう生き方しかできない)


――――ずっと前から気付いてる。こういう生き方しか、できない。



 クワクワ鳥が鳴いている。

 急いで家に帰らなくては。ママに叱られてしまう。

 手の中では真珠が優しく光っていて、ああ、自分のものではないのに、などと思いながら、夢から覚めた。

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