第26話 樹冠の雨
視界から覆いがふわりと取り払われた時、フラミィはもうレインツリーの大きな傘の下にいた。
レインツリーの葉はみな閉じて、スコールをやり過ごしている。
フラミィはいつも、自分にもこんな器用さがあればいいのに、と思う。
彼女はレインツリーの逞しい幹にしな垂れかかり、心中を零した。
「……厭な気分」
『なんでさ? やりたい事はやっただろうがよ?』
クワーックワッ、とルグ・ルグ婆さんが笑った。
『ワラは大変満足だった。やれば出来んじゃない、褒めてしんぜよう。あの飛び蹴り……プク、クワッププ、クワーッ』
「ぜーんぶ見てた?」
『うん、ぜーんぶね。アターはぜーんぶやりきったかい?』
「うーん」
なんて事をしてしまったんだろうと、フラミィは顔を手で覆った。
パーシヴァルにあの事を知られたら、どう思われてしまうだろう。
オジーやエピリカが彼に何も言いませんように、と、神様に祈った。目の前には女神がいたけれど、フラミィは頑張って念を籠め、彼女の上司に届く様に祈った。
「顔から火が出そう」
フラミィはレインツリーの幹に背をもたせたまま、ずるずると座り込んだ。
「あんな事したって、気持ちが届くわけじゃないのにね」
『いんじゃない? 健康と引き換えなら口づけなんて安いじゃない』
ルグ・ルグ婆さんが寄って来て、フラミィの肩をポンポンと叩いた。
『あの男にアターはちょっと幼過ぎたね、こんなに綺麗に生まれて来たのに、可愛そうに』
「ふんだ。私だって、すぐに大人になるよ」
フラミィは、唇を尖らせた。
パーシヴァルが、もう少し後に島に来てくれれば良かったのに。そう思った。
『そうだね、アターだって大人に……』
ルグ・ルグ婆さんはフラミィの頭を甘酸っぱい気持ちで撫でて、うんうん頷いた後、ハッとして首を振って、
『な、ならないさ、アターはワラに身体を渡すんだから!』
と、早口で言った。
フラミィもハッとして、「そうだった」と口に手を当てた。
「今くらいの年がいい?」
『ん・ん~……もう少し色気が出てからでも良いかも知れないね……あと十年……い、いや、五年……? イヤイヤ、だ、ダメダメ! 早く骨をお探しなさいよ!』
「うん……そうだね。なら、これで良かったんだね。私はパーシィにとって、幼い女の子で良かったんだ」
フラミィが膝を抱えて座ると、ルグ・ルグ婆さんは、濡れた黒髪が黄金色の華奢な肩にへばりついて乱れているのを指で梳いた。
――――いいねぇ、恋して駆け回って泣いて、いつか笑って……。アターは気付いていないけど、若さの膜の中守られて、生きてるだけで、何もかも、なんて綺麗なこと。
ルグ・ルグ婆さんが羨ましさでグッと喉を詰まらせていると、フラミィがポツリと言った。
「エピリカは、私に謝らないって」
『ふむん……アターはえらい目こいたよね。自身が何者か問われた時に「島の踊り子」と答えられなくされちまってさ。あの娘は自分なりに島を守ろうとした際に、アターが邪魔だった。そんでもって、その考えを未だ覆せないでいる。ワラに叱られ、自分のした事が神の望みではないと知った後でも、どうしても覆せないでいるんだ。盲信的に信心深い娘だからね、心の中は地獄だろうよ』
「そんな……」
フラミィが悲し気に顔を歪ませると、ルグ・ルグ婆さんは『お待ち』と、彼女を制した。
『同情には値しない。アターは身体と引き換えにしても失いたくない物を奪われて、口先だけのごめんねの言葉で許せんのかい? いいよっつって、仲良く出来んのかい?』
そう言ってルグ・ルグ婆さんは足元に唾を吐いた。
老婆は、目の前の娘の為、自分が予想以上に怒っている事に戸惑いながらも言葉を続けた。
『ワラならご免だね! ウルセーよっつって、謝るチャンスもやらないし、一切口もきかないよ。でも、アターはワラみたいじゃないからねぇ』
ルグ・ルグ婆さんはフラミィの顔を皺しわの両手でふわりと包み、目を細めた。
『謝られたら、傷つけられた誇りなんてほっといて、許してしまいそうよ……』
幼心が抜けきらない瑞々しい瞳の中で、老婆が自分を見返していた。
こんな婆さんを映す為にあるものじゃなかろうに、と、ルグ・ルグ婆さんはフラミィのあどけない瞳を見て思う。
『きっと、あの娘はそれを分かってんだよ』
「悪い事をしたのに、許されたく無いの?」
何かを許されないまま生きる想像をして、フラミィは胸の中がゾッとした。
そんなの、怖くないのかしら?
フラミィは自分の左足の親指を見る。
ルグ・ルグ婆さんの言う事がその通りなら、自分も今のままではエピリカの考えを覆す事が出来そうにない。神様に踊りを許されるより、エピリカに許して貰う方が難しいだなんて。
――――変なの、そもそも、許す立場なのは私の方なのに?
けれど、島を愛し、神様をあんなに慕っている彼女が、もしもその心に寄り添おうとしているのならば、そう出来ないでいるのが憐れな気もした。
「結局、私が踊れないのが悪いのね……」
『ううん……アターはどうしてそうなっちゃうの?』
ルグ・ルグ婆さんは萎んだ口元をモゴモゴさせると、スコールを降らす空を見上げて、『おー、よく降ること』と言った。
それきり口をつぐんでしまったので、フラミィはスコールに白く煙る墓地をしばらく黙って眺めた。
ルグ・ルグ婆さんに、何か言って欲しかった。
フラミィのせいじゃないよ、とか、エピリカが悪いに決まってるじゃないか、とか。
けれども、ルグ・ルグ婆さんはスコールを見上げている。
静かで忍びやかな時間が経ち、とうとうスコールが止んだ。
空が明るく青くなり、周りの草花や遠くに立ち並ぶ背の高い木々が何処かから魂を取り戻した様に輪郭をハッキリさせ出す中、ルグ・ルグ婆さんがレインツリーの傘の外へヒョイヒョイと躍り出た。
『白と黒』
『木の葉の裏表みたいさ
風が吹けば、ひら・ひら』
踊り出すルグ・ルグ婆さんを見ていたフラミィの頭に、雫がポトリと落ちて来た。
レインツリーが閉じていた葉を開き出し、溜まった水が静かに降り出したのだ。
見上げれば、頭上で緑色の宝石の群れが、お日様の光に両腕を開き歓喜して泣いている。
『ほら、木の下に雨が降る世界にアターはいるんだよ! 世界がこうなんだから、アターだってもっと好きに考えたり、思ったりしてもいいさ!』と、ルグ・ルグ婆さんは言って笑った。
フラミィは滴り落ちる雫を浴びながら、つられて笑った。
「本当に、好きに思っていい?」
『うん、ワラしか見聞きしてないよ』
フラミィはレインツリーの傘の下、次々と滴る雫の中構えた。
温かな風が吹いて木の葉が揺れ、葉や雫達が細かな輝きをフラミィへ散りばめた。
『私』
『悪くない』
ルグ・ルグ婆さんは否定も肯定もせずに、フラミィを微笑んで見ていた。
――――そうさ、アターはそれだけ思ってりゃいい。何がどう拗れてたって。ああもう! たった一言を自分で主張する為に、どれだけ時間と勇気が必要なのだろね、この娘は。本当にヤキモキさせられる事と言ったら!
拙く踊る少女を見守りながら、老婆はそう思って浅い息を吐く。
せっかくの休暇だというのに、未熟さに付き合わされて、なんだかほとほと疲れていた。
でもまぁ、たまにはよかろう。
――――眩しい。レインツリーの奴め、若い娘に味方しゃーがって(しやがって)! ワラだって踊り子だぃ、光彩が欲しいよ! でも、ワラもレインツリーを悪く言えないね。神様ごめんなさい。たった一人の味方をして……休暇中だし、大目に見ておくんなまし。
ルグ・ルグ婆さんはそんな事を思って、宙に舞い上がった。
『あの娘が謝る時は
来るだろうか?
どちらかが星か風になる時までには?
それとも、星の瞬きで?
それとも、風鳴りで?
あの娘は、星か、風か、アターに選ばせるよ
アターが星なら、あの娘は風に
アターが風なら、あの娘は星を
随分後の事になるさ
随分後の事に』
『なぁ、ホレ、待ちきれないさ、どうして待っててやらにゃいけないのさ? 時間の無駄さ! それよりも、アターのやりたい事をおやりなさいよぉ! サァ、サァ!』
ルグ・ルグ婆さんが声を上げ、腰と腕を振ってフラミィを誘った。
フラミィは「そんな風でいいのかしらー?」と声を上げながら、右足だけで飛ぶ。
『いいさ! 何の為に生まれて来たんだい?』ルグ・ルグ婆さんはそう言って、フラミィの右足の角度を美しく正し、くすぐった。
フラミィが笑い声を上げて、今度は教えて貰った通りの角度で足を曲げて見せた。
そのままやっぱりぶきっちょに踊り出す。
レインツリーの墓地なら、死んでしまった人しかいないわ。
私を笑ったり、邪魔に思う人はいない。
今日は踊りの女神様がいるけれど、女神様ならいいじゃない?
どうせ誰だって、女神様より上手く踊れないんだから。
『女神様が』
『踊れ、踊れと』
『私に仰るから』
『そうさ』
『踊れ、踊れ』
『私は踊り子です』
『誰にどう言われても』
『そうさ』
『踊れ、踊れ、フラミィ』
樹冠の下に滴る甘い雫の中、フラミィが微笑めば、晴れ渡った空の下で、老婆の女神も微笑んでいた。
フラミィは思う。
レインツリーの傘下の雫の中と、晴れ渡っているレインツリーの傘の外、どっちが本当の世界かしら?
やっぱり、私のお墓は皆と同じ、レインツリーの周りにしよう。
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