第3話 ルグ・ルグ婆さんの言うことには
その夜、フラミィは夢を見た。
島の左側にこんもりとそびえるマシラ岳の頂上に、立っている夢だ。
その場所からは、島の浜辺がよく見下ろせた。砂浜も海もキラキラ光っている。
浜辺では、女達が踊っていた。
ルグ・ルグ婆さんへの、満月の夜の踊りだ。
フラミィは自分も混ざろうとして、マシラ岳を降りかけ、足を止めた。
もう踊らないと約束した事を、思い出したのだ。
「皆の邪魔になるから……駄目なのよ、フラミィ」
フラミィは膝を折って座り込み、自分に言い聞かせた後、泣き出した。
誰もいないのだし、泣かせて欲しい。
泡が立つ様に悲しみが次から次へと沸いて来て、ぱちぱち弾ける度にしゃくりあげた。
すると、遥か下の浜辺の方から温かい風が吹き上げて来て、フラミィの豊かな髪を煽った。
フラミィが顔を上げると、風の中が銀色に煌めいていた。
銀色に煌めく風は空や海の方へ流れていかず、フラミィの目の前でくるくる回る。
目を見張っていると、その内風は人の形となって、踊りながら地面に降り立った。
それは老婆だった。
老婆は朝の海面よりも銀色に光る布を、小柄な身体に纏っていた。
その布は、コイン型の薄い鏡がびっしりと縫い付けられていて、一枚のしなやかな鏡の様。
老婆が、纏っている羽衣を閃かせてクルリと回った。貝殻の裏側色のフリルスカートがふわりと広がって、ベルトのウッドビーズがカラコロ、鏡のビーズがチリチリ鳴った。音と煌めきに目を瞬いて、フラミィは直ぐに老婆が何者か悟った。
ルグ・ルグ婆さんだ!
彼女は慌てて居ずまいを正し、ひれ伏した。
ルグ・ルグ婆さんはフラミィの脇にしゃがんで、訪ねてきた。
「アター(あんた)は、どうして泣いてるの」
なんだか近所のお婆さんと同じような話し方をするので、つられてフラミィも気楽な話し方で答えた。
気分はちっとも気楽じゃなかったけれど。
「踊りが踊れないから。私が上手く踊れないから、叱りに来たの?」
「ワラ(私)は千二百年の間、怒った事なんてないよ。涙を拭いて」
皺しわの手の甲が、フラミィの滑らかな頬を拭った。
恐る恐る老婆の顔を見上げると、オールに跳ねる海の雫よりもキラキラした瞳が微笑んでいた。
「んじゃあ、どうして現れたの?」
「アター言ったじゃない、身体をいらないって」
ルグ・ルグ婆さんはそう言うと、フラミィの事を舌なめずりでもするかの様な表情で、上から下まで見た。
――――ルグ・ルグ婆さんは、若い娘の身体を欲しがってんだぜ。
フラミィはタロタロの言葉を思い出して、ごくりと唾を飲み込んだ。
「若くて美しいワァ……きっと衣装が良く似合うね」
「……私の身体を貰いに来たの?」
フラミィの問いかけに、ルグ・ルグ婆さんはキョトンとして、ふさふさ広がる髪を揺らした。
「んん? ……だって言ったじゃない。いらないって」
フラミィは息を飲んで、ルグ・ルグ婆さんを見た。
老婆は嬉しそうにフラミィの身体を検分し始めていた。
「腰までの豊かな黒髪。黄金色の肌。すんなりした腕。あらまぁ、小さな手ね。でも指は綺麗。指って大事なのヨ」
「私の身体で踊るの?」
恐る恐る聞くと、本当に嬉しそうに二カッと笑った。
「うん」
「あの、その、嬉しい……えっと、でも、でもね? 私踊りが凄く下手なの」
この際、一度は望んだ事なのだし、踊りの器になる事に恐れはないけれど、踊りが下手な事だけは伝えておかなくてはならない、と、フラミィはルグ・ルグ婆さんに念を押した。
ルグ・ルグ婆さんはカラカラ笑って、
「知ってるよ。満月の夜に、毎回ちゃあんと見てるからね。今夜のあんたは酷かったねぇ」
そう言われて、フラミィは顔を赤らめた。でもちょっとだけ嬉しかった。
本当に、見ていてくれていたんだ……。
それから、熱心に頷く。
「そうなの……ほんっとうに、下手なの」
「でもあれはアターのせいじゃないよ。ワラは見てたもの」
「え……それってどういう事?」
ルグ・ルグ婆さんはフラミィの身体の検分に非常に忙しそうで、フラミィの問いには答えなかった。
「ふんふん、腰のくびれ、初々しい。でも見た目以上にしっかりしてるね。股関節も丈夫だ。皆、ここを壊すからねえ! えらいえらい!」
「でも、下手なの……。見てたんでしょ? 大丈夫でしょか?」
しつこいフラミィに、ルグ・ルグ婆さんが顔を上げて怒った。千二百年怒った事がないという割に、気の短い怒り方だった。
「聞いてるよ。煩いねぇ! 大丈夫さ、誰が身体を貰うと思ってんだい!?」
「……私の身体になったら、上手に踊ってくれる?」
「もちろんさ。ワラを誰だと思ってんの?」
ルグ・ルグ婆さんは胸を逸らして請け負った。白い貝殻ビーズのブラトップが、カチャカチャ鳴ってキラリと光る。
フラミィはそれを聞いて、ようやく心の底から安心した。
そうだ、私の身体になるのは、踊りの女神様だ。
きっと素晴らしい踊りを踊ってくれる。私の身体で! そして、神様が、それを見るんだわ。
考えるだけで嬉しくて、誇らしくて、フラミィは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
しかし、フラミィの左足を調べ始めたルグ・ルグ婆さんが、
「あらら?」
と、訝し気な声を上げた。
そして猫の怒った時みたいな唸り声を上げながら、フラミィの左足の親指を引っ張ったり曲げたりしている。
フラミィは自分でも違和感を持っている部位を調べられ、ドキドキしてジッとしていた。
ルグ・ルグ婆さんが、驚きと落胆の顔でフラミィを見上げ、叫んだ。
大きく開けられた口から、前歯が数本欠けているのが見えた。
「なんだね、アター! 足の親指の骨を貰い損ねてるよ!」
「え!?」
あ~ヤダヤダ、とでも言う様に、ルグ・ルグ婆さんがフラミィから一歩離れた。
「ヒャー、こりゃアター、踊り辛いさ! 重心が取れないもの!」
「ど、どういう事?」
「アターは左足の親指の骨が無いのさ!」
足の親指の骨が、無い?
フラミィは雷に打たれた様な衝撃を受けて、その場にヘナヘナへたり込んだ。
「い、いつもふにゃふにゃだなって思ってたの……」
「そりゃ、骨が無いからね」
「だから皆みたいにピタリと止まってポーズを取れなかったり、軽やかなステップが踏めなかったの?」
「そーだねぇ、こりゃセンスの問題じゃない。重心の問題だよ」
「そうだったんだ……」
長年の問題が、少なくとも自分の能力のせいでは無いとわかると、フラミィは何だか少し気が楽になった。だからといって上手く踊れる訳でも、皆の踊りの輪に戻れる訳でも無いのだけれど……。
反対に、ルグ・ルグ婆さんはみるみる物凄く残念そうな顔になっていく。
オヤツのヤシの実まんじゅうを、泥に落としたタロタロみたいだ。
「せっかく若い娘の身体を貰えると思ったのに……踊れない身体じゃあ貰えない!」
その言葉に、フラミィもしぼんでいく。
自分のせいではなかったけれど、結局自分は踊れない身体なのだと思うと、ルグ・ルグ婆さんのストレートな言い方に傷ついた。
「私の身体じゃ、駄目なのね」
「当たり前だよ、いくらワラでも無茶さ……でも、惜しいねぇ……ぐぬぬ……惜しいねぇ……!!」
ルグ・ルグ婆さんは未練がましくフラミィをジッと見て、それから「そうだ!」と大声を上げた。
フラミィは驚いて飛び上がり、「な、なに?」と尋ねた。
「アターの骨を、探せば良いんだよ!」
「そ、そんな事出来るの!?」
「わかんないけど、壊したワケでは無いんだし、貰い損ねてるんなら、どっかにあるハズさ!」
ルグ・ルグ婆さんが、フラミィの手を引いて立ち上がらせると言った。
黒目しかない瞳が、虹の様なアーチを描き、キラキラ輝いた。
「骨があれば、アターは完璧さ! アターの名前は?」
「フ、フラミィ」
「お行き、フラミィ! グズグズした分、年を取っちゃう! 骨を探すんだよ!」
ルグ・ルグ婆さんがクワクワ笑って、鏡の布を翻した。
布の鏡一枚一枚に、驚き顔のフラミィが映っている。
「ま、待ってルグ・ルグ婆さん! 探すって言ったって……!!」
「島のどっかに、あるハズさー!!」
鏡の布に映るフラミィが、うねって光った。
あっ、と眩しさに目を閉じ、再び目を開けると――――自分の家の、自分の部屋の天井が見えた。
落とし戸のついた窓から朝の透明な光が射しこんでいる。
外から、鳥のクワクワ鳴く音が響いていた。朝に林の中で鳴く、子供位の大きさのクワクワ鳥の鳴き声だ。
フラミィにはそれが、ルグ・ルグ婆さんの笑い声に聴こえた。
クワクワ、クワワ~。
クワクワ……骨をお探し!
急ぎなさい!
直ぐにお婆ちゃんになっちゃうんだからね!
クワー!!
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