第2話 こんな身体いらない

 オジーが家に帰って行き、月明かりに照らされた砂浜にフラミィとママだけが残された。

 ママがフラミィの腕に優しくそっと触れて、「帰りましょう」と言った。

 フラミィは静かに首を振って、


「もう少し、ここにいるわ。私、海を見てたいの」


 と、断った。

 ママは「そう」と言って、フラミィを抱き寄せた。

 ママは掠れた声でフラミィに言った。


「フラミィには、良いところいっぱいあるのよ。ママはフラミィが大好き」

「……そうね、ママ……ありがとう」


 フラミィもママを抱き寄せた。お祭りの日の、花やご馳走の匂いがママの服から香った。

 ヤシの木がサワサワと葉を鳴らす中、母娘はしばらく抱き合っていた。潮風や波の音が、そんな二人を抱いていて、フラミィは海にも抱かれている気持ちになった。

 私が踊らなければ、きっとみんな優しい。と、フラミィは悲しく思った。


「私も、ママが大好きよ」



 でもママは、わからないのかしら?

 愛されているという幸せでは埋められない、全く別の幸せがある事。

 そんな事を思うのは、とても悪い事なのかしら?



 ママが先に家へ帰って行くと、フラミィは波打ち際のギリギリに座って、左足の先を海水で濡らした。

 いつも、この左足の先がいけないのだ。

 ふにゃふにゃしていて、皆が踏ん張れるところで踏ん張れない。クルッと回るところで回れない。

 皆、どうやって足先だけで立ったり、ステップを踏んだりできるのだろう?


「でももう、そんな事考えなくっていいんだわ」


 思い返せば、自分に対して悔しい日々だった。

 自分の思い描く様に、エピリカみたいに……いいや、せめて、人並みにと努力しても報われないのは、とても辛かった。

 踊れない事を忘れられるのは、踊っている時だった。

 だから踊っていたかった。

 しかし、矛盾しているけれど、踊れない事を突き付けられるのも、踊っている時だった。

 心を傷付けながら踊っていたけれど、もう、お終いだ。

 神様にもルグ・ルグ婆さんにも、二度と踊りを見て貰う事が出来ない。

 フラミィの踊りを見てくれるものは、誰もいなくなった。

 フラミィは込み上げてくる涙を腕で乱暴に拭うと、すっくと立ちあがって、海へ叫んだ。


「こんな身体、いらないわー!!」


 怒りと悲しみいっぱいにフラミィが叫んだその時、何処かの木か草むらの中から、ガサガサっと音がした。

 大声に鳥か獣を驚かせてしまったのだろうかとフラミィがそちらを見ると、暗闇の中でもぞもぞ影が動いている。


「?」


 フラミィは怖くなって、砂浜に落ちている小さな流木を拾い上げると、影の方へ構えた。


「な、なに? だあれ? 出て来ないと、これをそっちに投げるよ!」

「わー、待って待って」


 慌てた声を出して、急いで影から出て来たのは、子供だった。

 ふさふさの枯草色の髪を潮風に乱して、傍まで駆けて来る。

 フラミィはその子が誰か、ようやくわかってホッとした。

 隣の家の小さな男の子だ。


「タロタロ、どうしたの? パパやママが心配するよ」

「ネーネこそ早く帰んないと、夜に若い娘は、狼に食べられるんだぞ」


 タロタロは年寄りが言う様な事を言って、人懐っこくフラミィの腕に絡みついた。

 十年前の上弦の月の日に生まれたタロタロは、フラミィを姉の様に慕ってネーネ(お姉ちゃん)と呼ぶ。

 そう呼ばれると、兄弟のいないフラミィは、弟がいるみたいで嬉しい。

 フラミィは微笑んで、タロタロの頭を撫でる。


「はいはい。家まで送ってあげる。島に狼なんていないのに、なんで大人たちはそんな事を言うんだろね?」

「いるよ、狼はいっぱいいるんだ!」

「見たの?」


 本気にしないでフラミィが聞くと、タロタロは力強く頷いた。


「村に、いっぱいいるから気を付けろよ!」

「私、そんな嘘で怖がらないから!」


 フラミィは吹き出して、タロタロの頭をまた撫でた。

 なんとなく、心が癒されて涙が引っ込んでしまったみたいだ。


「ほんとにほんとだぞ! ネーネ気を付けろよ! ンジャやグーグは、ネーネの事美味そうって言ってた!! 喰われるぞ!」

「ンジャもグーグも、人間でしょ。あんたってば、ヘンテコな嘘をついて! そんなに私を怖がらせたいの?」

「違う! 気を付けろって言ってんの!」


 タロタロはもどかし気に勢いよく首を振り、フラミィの身体にぶつかる様に抱き着いた。


「ネーネはたった一人なんだ。でも、食べたがってるヤツはたくさん」

「それは大変。タロタロに小指くらいは残しておかなきゃ」

「ふん、それっぽっち!」


 タロタロは怒った声で言って、彼女の胸に顔を埋めると溜め息を吐いた。

 ネーネはちっともわかってない。

 しずくが零れ落ちそうな漆黒の髪も、黄金色の艶やかな肌を纏いしなやかに伸びる手足も、こんなに綺麗なのに。ネーネはどうしてそれに気づかないんだろう。

 今夜の踊りだって、残念な事になったけれど……オレはネーネの踊りが好きだ。

 丁寧で、楽しそうで、本当に祈っているみたいなんだ。


「……ネーネ、この身体をいらないなんて言わないで……」

「あ……聴いたの?」

「聴こえた! ネーネ、知ってる? ルグ・ルグ婆さんはな、婆さんだろ? だから、若い娘の身体を欲しがってんだぜ。だから、だから、もしさっきの聞かれたら……」


 ぎゅっ、と、フラミィに抱き着くタロタロの腕に力がこもった。

 フラミィは、彼のつむじを見下ろしながら、薄く微笑んだ。


「だったら、どんなに良いだろう。ルグ・ルグ婆さんの器になれたら、私は上手に踊れるだろか……」

「ネーネ……」

「なんてね。タロタロ、帰ろう」


 フラミィはくしゃっと笑うと、タロタロの手を引いて、砂浜を後にした。

 後には月光に照らされた砂粒が、儚い音を立てて光っていた。

 そこにいつの間にか、ふわりと小さな影が立っている。

 影はなんだか嬉しそうに身体を震わせて、くるりと回って消えてしまった。

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