第7話

その後の事は余り覚えてない。

気が付くと、私は座席の上で横になって寝かされていた。枕代わりにと頭の下に敷かれた私の鞄には柔らかなタオルが包まれており、全身には水色のコートが掛けられていた。

「あっ、佐藤さん、起きられましたか?」

近くで介抱してくれたのか、飯塚さんが向かい側の座席から声を掛けてくれた。娘の心ちゃんも私と同じように座席の上で横になり、母である飯塚さんの膝枕で寝息を立てていた。

「具合はどうですか?まだ気分は悪いですか?」

私は身体を起こす。さっきまでのお腹の不快感は今は特に感じられず、全身の筋肉と脳が弛緩したかのような、穏やかで緩やかな起床だった。

私はもう平気であると飯塚さんに微笑んで返した。

私はどのくらい寝ていたのだろうか。窓の外をぼんやりと眺めるも、未だに雪は弱まる様子を見せず、淡々と銀色の世界を作っていく。

コンコンとノック音がして扉が開けられる。

「佐藤さん、おはようございます。体調はいかがですか?」と小林さんが丁寧な物腰で入って来た。私は飯塚さんにしたように、小林さんにも笑顔を見せて返した。

「よかった、大分顔色も良くなりましたね」

その小林さんの微笑みは優しく、当初の堅かった印象から変化して見て取れた。

「一先ず、あの後からの状況について説明させて頂きます」

小林さんより、私はあの場で嘔吐し、そのまま気絶。それから1時間ほど眠っていたようで、その間も小林さん達は外部と連絡を取ろうとしたが、本部にも警察とも連絡が通じず、事態は当初から進展してないという説明を受けた。

寝惚け半分のまま、小林さんの話を聞いているとぐぅとお腹が鳴った。私は反射的にお腹に力を入れるも再びぐぅと腹の虫が鳴ってしまう。

その音で小林さんと飯塚さんからふふっと笑みが溢れた。

「佐藤さんが回復されたみたいで良かったです」

小林さんの言葉で私は恥ずかしくなって、顔が赤く熱くなるのが自分でも分かった。

「とはいえ、食糧に関しては残念ながら難があります」

幸い電力こそ何とかなっている為、暖房などは問題無くとも、食糧は車両に全くと言っていい程無い、そう小林さんは冷静に語る。

「でも、この電車が車庫に戻ってなければ、誰かしら気付くんじゃ……」

飯塚さんが眠っている心ちゃんの頭を撫でながら、小林さんに聞く。

「えぇ。なので遅くても明日の朝には、今回の事態は本部に伝わるかと思います」

それまでご不便をお掛けします、と小林さんは頭を下げて謝った。

「あっ、えっとほら、ちょっとしたダイエットだと思えば平気ですから。ね?」だから頭を上げてください、と飯塚さんは焦って詰まりながら言う。そんな飯塚さんの対応にありがとうございます、と小林さんは頭を上げて

「一先ず、これから翌朝までの事で皆さんと話し合いましょう」と提案し、私と飯塚さんもそれに頷いて賛同した。

私が身体に掛けられていたコートを傍に置くと、立てますかと小林さんが優しく手を差し伸べてくれたので、私はその手を借りて座席から立ち上がって改めて全身を見てみる。私は幸いにも、吐瀉してそのまま気を失った割には何処も汚れていなかった。

「佐藤さん、その枕お借りしても宜しいですか?」

と飯塚さんが私に言う。どうやら私が使っていた時のように、今度は心ちゃんの枕代わりとして使ってあげるようだった。

私は頷いて、タオルに包まれた私の鞄を飯塚さんへと渡し、受け取った飯塚さんは自分の足を引き抜くのに合わせて、そっと鞄を心ちゃんの頭下へと差し込んだ。

「では皆さんと合流しましょう。貫通扉では足元に気を付けて」

小林さんに導かれるようにして、私と飯塚さんは眠っている心ちゃんを残して隣の車両へと移動する。私はさっきの小林さんの台詞から、この車両間を繋ぐ空間は貫通扉と言うのだと1人で勝手に感心していた。そんな2枚の扉で隔てた貫通扉を抜けた先には、既に居た水瀬さんと男性陣が座席に腰掛けて仲良さげに談笑していた。

「おう、顔色が良くなったな」

角田さんがニカッと歯を見せて笑った。この人も最初とかなり印象が違うのだが、不快な気分になるどころかピリピリと張り詰めた空気を和ませてくれるような好印象があった。

「真白さん、もう大丈夫ですか?」

水瀬さんがおっとりと左手を差し出しながら聞く。私はそっと手を取って彼女の小指を摘んだ。

「ごめんなさい、真白さん。私が強引に無理させてしまったから」

水瀬さんがそう言って顔を俯かせたため、私は彼女の親指を摘んでそれは違うと否定した。だって水瀬さんが居なかったら、今頃私は弁明の余地も無いまま犯人扱いされて終わりだ。彼女がどれほど自分にとって支えとなっているか、私は思いと感謝の丈を彼女の手の平に書き綴った。

「ふふっ。お礼を言うのは私の方こそですよ、真白さん」

そう言って水瀬さんは柔らかく微笑んでくれる。謙遜する水瀬さんには本当に感謝しても仕切れない、そんな申し訳なさを私は感じていた。現に私が倒れた後もコートを掛け、鞄にタオルを巻いてくれたのも水瀬さんだろうから。

そこで私は水瀬さんから借りたコートを置いてきてしまった事に気が付いた。今の水瀬さんはクリーム色のニットワンピを着ており、車両内こそ暖房が効いてはいるものも、もし仮に外に出るとなればこの降雪の中、そのままの格好では余りにも寒過ぎる。あとでちゃんとコートを返さなきゃ。

「あれっ、豊本さんのお母様はどちらに?」

ふと飯塚さんが聞いた。言われてみればと見渡すと、車椅子に腰掛けた老婆の姿が見られなかった。

「あぁ……。母なら薬を飲んで眠ってしまったので、あっちの座席で眠ってますよ」と豊本さんが言う。奥の方を覗くと、確かに座席に横になって眠る豊本さんのお母さんが見え、折り畳まれた車椅子もその近くに置いてあった。

「さて、皆さんお疲れで横になって休みたい方も多いかと思います」

そう言って小林さんが皆に語り始めた。

「私と片桐さんで皆さんを見てますので、どうか気兼ね無くお休みになって下さい」

私は水瀬さんの隣に腰掛ける。とはいえ、私自身はつい先程まで寝ていた為か、そこまで眠たくはなかった。

「あの、皆さんにお伺いしたい事が1つあるんですが」水瀬さんが私と繋いでいる手とは反対の右手を上げて、乗客全員に問い掛けた。

「皆さんは、あの男性を殺した犯人がまだこの車両内に居るとお考えですか?」

「……それはつまり、水瀬さんは私達の中の誰かが殺人犯だと疑っているのでしょうか?」

柔らかく、ごく自然に流れるように発した水瀬さんの言葉を、小林さんだけが冷静に刈り取るように返した。車内の微睡み始めた空気が再びピシリと張り詰めるのを感じる。

「全く疑っていないと言えば嘘になります。犯人が私達の中に居る可能性はゼロではありません」

「それはそうですが、犯人がもう既に別の駅で逃走している可能性だってありますよね?」

「えぇ。なので真白さんが戻られた今、事件の話を再開すべきではないでしょうか?」

「それは……得策ではないように感じます。私達で誰が犯人か探るような状況には……なるべくしたくありません」

小林さんは言葉に詰まらせながら言った。今は協力関係を保ってはいても、お互いがお互いを疑い合う環境になれば、束の間の平穏な関係は粉々に打ち壊されるだろう。小林さんはそれを危惧しているのだ。

「そうだな。餅は餅屋じゃないが、あの遺体の事は警察に任せておけば良いだろ」

角田さんが眠そうに欠伸をしながらそう言い、豊本さんや片桐さんもそれに賛同するかのように頷いた。

「……分かりました。事件の話をこれ以上、追求するのは控えます」

水瀬さんも小林さんの危惧を読み取ったのだろう、静かに押し黙った。

他の乗客達がポツポツと会話をし始める。しかし水瀬さんが再三言うように、犯人がこの中に居る可能性だって充分あり得るのだ。私の眠っている前で堂々と男性を殺し、その後で罪を被せようと私に拳銃を握らせて立ち去った犯人が。

私は込み上げてきた何かをぐっと飲み込んで、改めて辺りを見渡した。

小林さんと片桐さんはどうだろうか。現状2人は車掌として、私達乗客を充分に助けてくれている。打開策や解決策を練ったり、先の自己紹介や現場検証も先導してくれていたし、今も2人は立ったまま私達が眠っている間の事について話し合っている。

水瀬さんは当初、片桐さんにも犯行が可能である事を指摘していたが、私が見た片桐さんは死体を見た時に表情が歪み、言動などがパニックに陥っていた。あの立ち振る舞いが演技とは、私にはとても思えなかった。

飯塚さんは豊本さんと同じ座席で話し合っている。温和な2人は朝まで寝ていようか、このまま起きてようか決めかねているようだった。

角田さんはというと、俺は疲れたから寝るぞーと早々に革靴を脱いで、既に離れた座席の上で横になって寝転んでいる。相当疲れていたのか、今にもいびきをかきそうだった。

私は水瀬さんに休むかどうか、手に書いて尋ねた。水瀬さんは少し悩んだ後、もう少し起きていますと小声で囁いた。

なら私は水瀬さんのコートを取ってきますよと、水瀬さんの手に書いて、座席から立ち上がり、先程まで寝ていた車両側の貫通扉に手を掛ける。

「佐藤さん、どうされましたか?」小林さんが尋ねる。

「私のコートを取ってくるそうです」水瀬さんがすかさずにフォローを入れてくれる。

私は小林さんと水瀬さんに頭を下げて、貫通扉を開けて、隣の車両へと移動した。

心ちゃんが眠っている筈なので、なるべく音を立てないように気を付けて貫通扉を開閉したが、その心配は無駄だったようで、心ちゃんは既に目を覚ましていた。

「ママ……?」

扉を開ける音で振り返った心ちゃんのその手には、枕代わりに使っていた私の鞄から取り出したであろう、黒々と禍々しく鈍く光る拳銃が優しく握られていた。

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スノーバレット 刻谷治(コクヤ オサム) @kokuya_osamu

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