黄色い線の向こう側
夕空心月
第1話
"間もなく電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がり下さい"
もし今私が、人々の列から駆け出して、黄色い線の向こう側に飛び出したら、どうなるのだろう。
他人に無関心だった人々は、一瞬、同じ対象に関心を向ける。間もなく電車が入ってくる空間を、一人の少女が飛んでいる。誰かが携帯を取り出す。やべぇ、やべぇと言う笑い声。微かな悲鳴、慌てふためく駅員の声。
皆、ほんとはどうでもいいのに。気がかりなのは出社時間と、誰かとの待ち合わせ時間と、今日のゲームのログインボーナス。それくらいのくせに。
私は初めて、生きていることを実感する。世界に溢れる音を、匂いを、色を、全身で感じる。
そして最期に、何を思うのだろう。
"やっぱり、やめておけばよかった"
そう思った時にはもう、私は私の形では、なくなっているのだろう。
***
無機質な声のアナウンス、急ぐ人々が立てる音、冷たく透明な冬の風。
怠そうな音と共にホームに入り込んできた電車が、溜息をつくように人を吐き出す。人、人、人、イヤホン、スーツ、制服、舌打ち。人、人、人、途切れることない人の群れ。
私は大きな鞄を前に抱え、小さくなりながら電車に乗り込む。ぷしゅうう、と音を立ててドアが締まる。出発の揺れに、乗客は同じ角度でよろめく。知らない人の背中に顔が埋もれる。知らない人の足が私の足を踏む。すみません、と言う私の声は喧騒の中に消える。こんな中でも、立ったまま涼しい顔で本を読んでいる女性がいて、せわしなくスマホをいじる学生がいて、イヤホンをし目を閉じてリズムを取っているおじさんがいる。
目的の駅名を告げるアナウンスが響く。ドアが開いた瞬間、雪崩のように押し寄せてくる人の波に呑まれ、私はよろめく。体勢を戻した時にはもう、ドアは締まり、先ほどとは違う人の背中で視界が満たされている。降りるはずだった駅は、気の毒そうな顔で私を見送る。
次の駅で、降りることに成功する。電光掲示板の前で立ち尽くす私の前を、ある人は邪魔そうに、ある人は無関心に、通り過ぎて行く。階段を降り改札を抜けると、ビルに切り取られてぽっかり開いた、黒々とした空が見えた。
どこへ行くかも分からないまま、私は歩き出す。道端で、若い青年がギターを弾いて歌っている。お金を入れる用の箱に、誰かがくしゃくしゃに丸めたチラシを投げ入れる。青年は顔を上げることなく、演奏を続ける。けれどその音も声も、近くで聞こえる怒鳴り声にかき消されてしまう。
横断歩道を渡りながら、私はあの人を探していることに気づく。かつて愛したあの人は、今この街にいるのではなかったか。もしかしたら、すれ違うことがあるかもしれない。ないかもしれない。あったとしても、私は気がつかないかもしれない。そしてあの人は、私のことなど覚えていないかもしれない。
それでも、と思う。私たちがすれ違った瞬間、この灰色の雑踏の中で、私とあの人にだけ、色がつくのだと思う。きっと、ほんの一瞬だけ。気づくか気づかないかも分からないくらいの時間。けれど私とあの人は、きっと立ち止まる。そして同じことを思い出すだろう。ほんの、一瞬。風の中に、あの日々の匂いが混じる。
その一瞬に出会うために私は、今日まで生きてきたような気がする。生きてきてしまった、ような気がする。
気がつくと、風の中に焼き鳥の匂いが混じっている。飲み屋の灯りで満たされる、薄汚い道を歩いている。客引きのお兄さんに声をかけられる。小さく礼をして通り過ぎる。通り過ぎてから、あの人は一晩中、ああやってプレートを掲げて、声を張り上げ続けるのだろうか、と思う。
薄暗い道に、私は迷い混む。怪しげなネオンが彩るホテルがちらほら見える。不意に、スーツを着たおじさんに声をかけられる。その目には欲情の色が滲んでいる。怖い、と思う。けれど同時に思う。この人は、私を幾らで買ってくれるのだろう。私の価値は、幾らなのだろう。
私は黙って、その場を立ち去る。今日この街で、一体どれくらいの情事が重ねられるのだろう。そこに愛は幾つあるのだろう。そもそも愛なんて存在するのだろうか。
歩き疲れた私は、路地裏でしゃがみこむ。自販機で買ったミルクティーを一口飲む。あったかい、と書いてあったのに、そんなにあったかくない。はぁ、と吐き出す息が白い。ゴミと、冬と、夜の匂い。
足元に何かの気配。見ると、やせっぽっちの黒猫が一匹、私の顔を見上げている。緑色の目には、夜しか映し出されていない。夜?
あぁ、私はいつの間にか、夜の一部になっていることに気づく。
私は目を閉じる。身体がゆっくりと、闇と同化していくのが分かる。記憶も感覚も感情もすべて、夜の中に溶けていく。
私はどうしてこんなところにいるんだろう。
寂しい、と私は呟いた。
さみしいさみしいさみしいさみしい。
それは不思議な、心地よい旋律を生み出した。私は夜通し、ひとりで歌った。さみしいさみしいさみしいさみしいさみしい。
気づくと、黒猫はいなかった。
夜に溶けたと思っていた身体はちゃんと存在していた。狭い空は明るんでいた。朝だった。あぁ、また生き延びてしまった。私は溜息をついた。途端にお腹が鳴った。情けなくて、哀しくて、私は笑った。
行かなきゃ、と思った。
どこへかは分からない。けれど、ここではないどこかへ。
東京はその日、初雪を迎えた。
***
朝、山手線のホームで、私は時折、あの時のことを思い出す。
すべてが嫌になって、何も考えず、東京に逃げてきた、若くて馬鹿だった私。
あれから何年経ったのだろう。私は結局まだ生きている。生きて、山手線に乗って、東京の会社で働いている。
"間もなく電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がり下さい"
今日も退屈そうな声のアナウンスが響く。もう何百回と繰り返し聞いたアナウンス。
人生はどうやら、黄色い線の内側で完結してしまうらしい。向こう側には行けないらしい。行ってはいけない、らしい。
足元に目を落とす。黒いパンプスの数センチ先に、黄色い線が引かれている。
どうして私はまだ、こっち側にいるのだろう。
音を立てて、見慣れた電車がホームに入ってくる。ドアから数多の人が吐き出されてくる。
動かない私を、人々が邪魔そうに通り過ぎていく。私は黄色い線の内側で一人、立ち尽くしたままでいる。
昨晩、どこかの駅で、一人の女子高生が、線路に身を投げたらしい。
私は彼女に問いかける。
最期に見えたものは、何だった?
人を詰め込んだ電車は、重そうに走り出していく。間髪いれず、次の電車の到着を知らせるアナウンスが響く。
"間もなく電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がり下さい"
私はアナウンス通り、黄色い線の内側で電車を待った。そして、到着した電車から人が流れ出るのを待って、狭い車内に身体を押し込んだ。
いつか、ここではない、遠くへいこう、と思う。
黄色い線なんか引かれていない、遠く、遠くの方へ。
見慣れた駅が、退屈そうな顔で、今日も私を見送ってくれる。人、人、人の群れ。流れてゆくは冬の街。
東京にももうすぐ、雪が降るという。
黄色い線の向こう側 夕空心月 @m_o__o_n
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