第26話莫大なカネ

6月21日金曜日AM8:00

 散歩から帰ったシロがリビングの片隅で牛肉を食べている。

 沢田に言う。

「隣の家は居心地はいいけどゴハンが最悪だよ」

「ちゃんと食べさせて貰ってたんだろ?」

「そりゃ、他の犬達と食べたけど、ドッグフードだよ。あれを3日間は辛いな」

「まあ、お前も犬だからな。たまになんだから我慢しろ」

「ゴハンもそうだけど、隣の犬達はいろいろ不満を持ってるね」

「そうなのか。どんな不満だ?」

「散歩に毎日行きたいって言うのが一番だな。あとは僕を産んだ犬だけど、耳が痛いような痒いような感じだって言って、いつも耳を掻いてるよ」

「医者に連れてった方がいいな」


 どうやって隣の犬を医者に連れていくか。沢田は考え、行きつけの獣医に無理を言って往診に来てもらう。


AM10:30

 1時間ほど前に頼んだ、成東駅近くのアニマル・クリニックの獣医から連絡が有り、助手と一緒に来てくれた。沢田も時間を合わせて会社から帰宅する。

 まず、シロの状態を診てもらう。極めて健康体だった。

 隣の家に声を掛け、無料だからと言ってシロの母親とシロの兄弟2匹を診て貰う。シロの言った通り母犬が外耳炎になっていた。

 

 診察と治療が終わった獣医は沢田から5万円を受け取って帰っていった。


 沢田が会社に戻る準備をしているとスマホが鳴る。

 二階堂からの報告で水素プラント建設の進行状況とフランス行きの件を伝えられる。

 プラントの工事は順調で月末までには稼働を開始出来ると言う。

 フランスへの絵画返還は日程を調整中で数日後だと言った。


 電話を切ると直ぐに別の着信。

 スマホのスクリーンを見ると、63から始まるフィリピンの番号が表示されている。英語で答える。

「はい、沢田です」

「こんにちは。覚えているかしら、イザベルです」

 黒髪のセブ出身の美人エージェント。忘れる訳がない。

「もちろん覚えてるよ。元気かい?」

「私は元気だけど、今もまだパラワンにいるの」

「マニラが本来の仕事場だったよね」

「そうなんだけど、パラワンでNPAとの争いが続いてて・・・」

「応援に行こうか?何日かは時間が取れるけど」

「本当に? 助かります。最近停電が多くて、ちょっと不気味な感じで」

 イザベルは中国が関与する送電事業と政府間取引の話をした。

 これも水素を絡めて中国に交渉し、送電事業をフィリピンに取り戻せる可能性が有ると沢田は考えた。

 フィリピンにも水素発電は必要だろう。

 沢田が言う。

「今晩、そっちに行くよ。プエルトプリンセサの何処にいる?」

 イザベルはホテルの場所と名前を教えた。沢田はメモを取って言う。

「今晩9時前後に着くと思う」

「ありがとう」


 沢田がユキを失って2週間が経つ。忙しくしている時はいいが、ふとした時にユキを思い出して涙を流していた。思い浮かべたイザベルの顔が、沢田の頭からユキを押し出していた。


 沢田は、力を得てから自分の性格まで変わってきているのに気がついている。全てに対してアグレッシブになっていた。



 ハイドロエナジー社長の矢部は事務室で妻の房江と水素の売り上げを計算していた。

 『JARE 』の発電所の全てが、1年以内には全て水素発電に切り替わる。発電所内の水素プラントはJARE の経費での建設なので出費は無い。エンジニアの人件費が増えるだけだ。

 1年後には日量40万バレル分の水素をJARE に提供する事になる。1バレル当たり15ドルとしても600万ドル、約6億円以上が毎日JARE よりもたらされる。月に180億円。年間で2160億円。

 矢部は電卓を見つめて思った。

『これがエネルギービジネスか・・』


 沢田が事務所に戻ってくる。

 出前で取ってあったかつ丼を沢田と矢部、妻の房江の3人で食べる。

 矢部の息子の雄二は特許申請で走り回っていた。


 沢田はフィリピンに出掛ける事を矢部に告げた。水素が絡んでいると言うと、矢部に異論はなかった。

 矢部が沢田に言う。

「今、売り上げの計算をしてたんですが、直ぐにアメリカから約300億円が入って来ますよね」

 沢田が答える。

「凄い金額だよな」

「そうなんですけど、JAREへの売り上げが、もっと凄い事になりそうで、1年後には年間で2000億円を突破しそうです」

「ピンと来ないな。想像がつかない」

 沢田は最後のかつを飲み下して言った。

「アメリカからの300億円が入ったら、家を建て替えたいんですが。沢田さんの今の家も、失礼ですが、あまり上等とは言えませんよね」

 沢田は考えた。今の家でも特に不満は無かったのだ。シロと2人きりなので広い家も要らない。寝室と小さな庭が有れば十分だった。

「矢部さんは今の家を建て替えたいの?」

「敷地だけは広いんで、空いている所に新しいのを建てて、出来たら引っ越そうかと」

「いいんじゃないの?」

 沢田は。ふと、考えて続けた。

「これは提案なんだけど、社宅も作ったらどうだろう。従業員が全部入れるような。今は80人しか居ないけど、先を考えて、取り敢えず100世帯が入れる社宅。発電所への移動も考えてヘリポートも屋上か敷地内に整備して、勿論ヘリコプターを買う。買わないにしても、常時使えるように契約する」

「沢田さんは?」

「俺はそこに住むよ。1階がいいな。小さくていいからシロが出られる庭が有ればいい」

「それもいいですね。私はそこの最上階がいいな。10階建て位にして」

「いや、何か有ったことを考えて、矢部さんは別の場所がいいですよ・・・そうだ、社宅も2ヶ所に分けた方がいい。万一、テロ攻撃などにあった場合でも、会社の機能が維持出来るように2ヶ所に分散する」

 矢部が感心して沢田を見る。

「流石ですね。沢田さん。設計に掛かりたいですね」

「JIA の二階堂に聞こう。一般的なマンションのような物でなく、対テロも想定した建物を設計出来る所を紹介して貰おう」

 矢部は天井を見上げて想像に浸っていた。


 午後6時。会社を早めに出た沢田は、自宅でダイビング用のウェットスーツに着替えた。5ミリ厚のネオプレン生地で出来たスーツは身体にフィットする。空気抵抗が少ない筈だ。

 現地に着いてからの事を考えた。

 イザベルに電話し、自分用の服を買っておいてくれるように注文した。


 ダイビング用のフィンランド・スント社製コンパスを右腕に装着し、庭から飛び立った。シロは隣家に預けた。

 シロの文句は相当な物だった。特上の牛肉を、飽きるまで食べさせることを約束した。


 沢田は高度を5000メートルまで上げて南西に向かった。ウェットスーツのお陰で空気抵抗が少ない。沢田の目には下に見える雲が流れる様に後ろに飛び去って行った。沖縄の何処かまでは一気に飛べる自信が有った。


 


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