第15話フィリピン
6月3日 月曜日 PM7:00
ハイドロエナジー社の社員は帰宅し、事務所には矢部、房江、沢田、二階堂、テイラーの5人だけが残っていた。
事務所に電話だ。房江が取り次ぎ矢部が出る。
若い声が聞こえてくる。
「どうやったのか知らないが、花火が海上で上がりましたね」
矢部の表情が変わる。沢田が電話を代わった。
「あんな物を仕掛けて、俺達を全員殺す積もりか?」
「それほど大きな花火じゃ無かったんですよ、あれは。でも、ご希望とあれば特大の花火をプレゼントしますよ」
相手は日本人だ。
「正々堂々と出てきたらどうだ」
「何十人もの機動隊の前に出ていく程、おめでたく無いんでね。まぁ、新しいエネルギーで細々と頑張って下さい。細々とね」
電話は切れた。特に要求をしてこないのが逆に恐ろしい。
6月4日 火曜日 AM11:30
安部総理は各自動車メーカーの取締役を召集し、水素エネルギーへの変換がドラスティックに進む事を告げた。
完全なEV車、そして水素自動車の開発スピードを上げるように指示した。同時に現在のガソリンや軽油の価格に含まれる税金を約20%上げる事を告げる。
水素自動車の実用化が出来ているのはトヨタ1社だけだったが、新規の水素自動車の開発資金は無利子供与する事を告げた。
ここまで漕ぎ着けるのに朝7時から経済産業省、財務省、国土交通省、環境省と立て続けに会議をこなしていた。
昼食は昼12時半から、全省庁の大臣を緊急召集し、総理官邸の会議室で摂る事になっていた。
異例の事に、国家の一大事と感じる大臣も少なくなかった。
執務室で昼食会に出る用意をしていた安部総理は立て続けに電話を受けた。
受話器を握る手に力が入り、額に脂汗が浮いている。
火力発電会社『JARE 』の二人の取締役、東西電力の早川と中央電力の小野、二人の孫娘が誘拐されたと言う知らせだった。
水素発電への転換を止めろと言う要求がされていた。それは、取りもなおさず新技術の公での利用をするなと言う事だった。
総理は秘書に昼食会の中止を連絡させた。二階堂に電話し、事件の内容を伝える。
拉致された二人の少女は、東京港区の『聖ペテロ女学院』に通う17歳の高校生だった。普通の高校の修学旅行に代わる『ボランティアツアー』でフィリピンの貧困地区と孤児院を訪れており、その最中に拉致された。
一行はフィリピン最大の貧困地区であるマニラ北部に位置するパヤタスの、小さな教会が併設された学校に行っていた。
日本から持参したノートや鉛筆を配り、教会のシスターと共に炊き出しをして昼食を子供達と共にした。
ボソボソとした米と塩辛くて硬い魚の干物は、彼女らの喉を通らなかったが、子供達は彼女らの分まで奪い合うように食べた。
子供達の数人は先天的な障害を持っていた。ゴミ山の近くにある井戸水で生活しているのだ。その影響は計り知れない。
寄付金を教会の司祭に渡し、パヤタスを後にした。半数以上の同級生が涙を流していた。
パヤタスからボランティアツアーの一行は民芸品の店に行った。そこで売っている商品は孤児院の子供達が作った物で、孤児院の運営資金へと還元される。
2人の生徒が早々に買い物を済ませて店から出た。道路の反対側にアイスクリームを売っている手押し車を見つけた。売り子が手招きする。
道路を渡り、アイスクリームを注文する。その時、2人の姿を隠すように1台のハイエースが止まり、すぐに走り去った。その場には2人の姿もアイスクリーム売りの姿も無かった。
連れ去られた二人は、日本の大電力会社の社長二人の孫娘達だった。
早川真奈美と小野美咲。共に17歳だ。二人は拉致された後、小型船の船室に閉じ込められた。
その船は古びて塗装が剥げた40フィートクラスのFRP製の船体で、操舵室には日本の文字が残っていた。日本で使われていたクルーザーだ。
外観は兎も角、内部と機関は洗練されていた。Furunoの25ワット・デジタルレーダーとGPSプロッタが備えられ、エンジンは古いVolvoペンタから信頼性と経済性に優れるヤンマーのディーゼル2基に換装されていた。
マニラ湾から外海に出た船は40ノット(約70キロ)のスピードで南に向かって飛ぶように航行した。
2基合わせて600馬力を越えるエンジンがスクリューを力強く回し、波を切り裂いていく。
鍵の掛けられた船室で、17歳の二人は後ろ手に縛られたままで祈っていた。
天使サイラは二人の祈りを感じて船室の彼女らを見ていた。
『祈りなさい・・・』
サイラはミルク神を見上げるが、動いてくれない。ミルクはただ下界を見下ろしていた。
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