第8話襲撃

2019年5月31日水曜日

『水素エネルギー研究所は』シンプルに『ハイドロエナジー』と社名を変更し、液体水素の販売量を以前の20倍に増やしていた。


 小川ユキは図書館を4月末で退職して沢田と一緒に働いている。

 以前は18人だった社員は全員で80人になっていた。


 水素抽出設備は大型化され、今や200平米の社屋では限界になり、裏手にある天然ガスから水素を抽出していた工場を解体し、新社屋を建設していた。

 以前から問題となっていた液体水素を貯蔵するタンクも、金属を配合する段階で沢田の受信した音声ファイルの音声によって変質し、あまりにも小さい水素の分子や原子による金属疲労を防げるようになっていた。


 沢田は、エネルギー革命という程のノーベル賞も確実の、この発見を学会に発表し、音声ファイルを世界に無償で提供しようと言ったが、矢部は半年待ってくれと言った。多額の借金が有った矢部はそれを返済するまで待ってくれという事だ。


 それまで水素の分離方法を秘密にしたままで大量の液体水素が販売出来るかが問題だった。



6月1日木曜日 AM8:25

 沢田がシロの散歩から帰ってきた時にスマホが鳴った。

 相手は矢部の妻、房江だった。

「沢田さん、工場が大変なんです。ウチの主人も、何処にも姿が見えなくて」


 沢田はFJを飛ばして会社に向かった。そこで目にしたのは完全に崩れ落ちた新工場の鉄骨の山だった。

 水素の抽出設備のある旧社屋は無事だったが、書類などを荒らされた形跡が有る。音声ファイルをダビングした装置は、沢田が毎日持ち帰っているので無事だ。


 9時少し前になり、社員が続々と出社してくる。ユキもその中にいた。

 沢田を見つけたユキが駆け寄ってくる。

「ジュン・・・どうなってるの?・・・ジュンが無事で良かった」

 ユキは涙目で沢田の腕にしがみついていた。


 その時、事務所の電話が鳴った。房江が受話器を取る。

「はい、ハイドロエナジーです」

「ソコニ サワダサン イマスネ」

 房江が受話器の挿話口を手で塞いで言う。

「沢田さんに。片言の日本語みたいだけど・・・」

 沢田は受話器を受け取った。

「沢田ですが」

「エイゴ イデスカ?」

 沢田の事を調べた人間だろう。商社時代にはラーメン部隊と言えども最低限の英会話は必須だった。

「オーケー、ゴー アヘッド」

 相手は英語に切り替えた。

「水素の分離にガスを使っていませんね。水から分離している。そのデータを頂きたい。方法も含めてね。ミスター矢部の言う事と違っていたら、彼は魚のエサになります」

「矢部さんは無事なのか? 声を聞かせろ」

 呻き声の後で矢部の声だ。

「沢田さん・・・申し訳ない」

「矢部さん。無事なんですね。ケガは?」

「大丈夫です・・・こんな事なら公表しておけば良かった。それに・・・」

 矢部の声が途切れた。沢田の耳に英語が響いてくる。

「満足ですか?ミスター矢部は無事だ。今日の午後3時に本須賀海水浴場のビーチで会いましょう。水素分離に必要なデータを用意して持って来て下さい。ミスター矢部と交換です」


 電話を切り、沢田は外に出た。崩壊した新社屋の周りでは工事業者が片づけを始めていた。

 今日は休業だ。事務連絡に必要な最低限の社員以外を帰宅させた。


 事務所に入り、矢部の妻と工場長、それにユキには矢部の誘拐の件を話した。

 矢部の命には代えられない。沢田は音声データを渡し、矢部を取り返した後で逆襲する積りだった。


 事務所を出た沢田にユキが言う。

「ジュン。私も一緒に行く」

「ダメだ。危険過ぎる。荒っぽい事をする連中だ」


 沢田が死んでしまうのではないかという思いがユキの胸を締め付けた。


 沢田とは数日前に身体の関係が出来ていた。前夫と別れて以来、1年振りに迎え入れた男が沢田だった。若い男とは違った包容力にユキは惹かれていた。

 

 沢田はFJに乗り込み走り去った。

 ユキは沢田に買ってもらったばかりの赤いマツダ・ロードスターに乗り込み沢田の後を追った。行先は自宅だと検討をつけた。


 沢田の家には黄色のFJクルーザーが止まっていた。ユキは沢田の家に入って行く。鍵を沢田から貰っていた。

 シロが喜んで尻尾を振っている。

 沢田は小さな箱を抱えてソファーに座っていた。

 ユキに気が付いて沢田は顔を上げる。ユキが言う。

「それが会社の秘密なの?それを渡せって言われてるの?」

「そうだ。これが会社の全てと言ってもいい」

「私に何か出来る事はないの?」

 沢田は少し考えて言った。

「3時に本須賀のビーチでこれを渡すんだ。その時にシロと近くを散歩していてくれないか?シロのリードはつけないでいい」

「それだけ?」

「ユキには言ってなかったが、シロとはテレパシーで会話できるんだ。俺の指示でシロが動き出したら、ユキはその場を離れてほしい」

 ユキは呆れた顔で沢田を見た。信じていない。

「そんな冗談を聞くために来たんじゃないの・・・」

「信じられないよね・・・見てて」

 沢田はシロを呼んだ。目の前に座ったシロに普通の言葉で話す。

「お前と話せるって言ったんだけど、信じてもらえないんだよ。どうしようかな・・・ユキの靴、右側だけ持って来て」

 シロは立ち上がり玄関に出て行き、ユキの靴を本当に右だけ持って来た。

 ユキが驚いて言う。

「凄い、どうやったの?」

「見てただろ。シロに頼んだんだ。今度はシロに聞こえないように俺に何か言って。シロにして欲しい事を。俺がテレパシーでシロに伝えるから」

 ユキの顔が沢田の耳元に来る。小さな声で囁いた。

「私の靴を玄関に置いてきて、ジュンの長靴の左を持って来て」

 沢田は心の声でシロに伝えた。

 シロが沢田に言う。

「やるけど、牛肉買って来てよ。今日の朝ので終わりだって言ってたでしょ」

「分かったから・・・」

 シロはユキの手からクツを受け取って玄関へと行った。帰ってくる時には長靴をくわえていた。ユキが驚く。

「凄い・・・ジュン、凄いよ。シロも凄い」

 沢田はため息をついた。ユキに言う。

「と言う事だから買い物に行こう」

「なに?どういう事?」

「シロがさ、言う事聞くから肉を買ってきてくれって言うんだよ」

「なにそれ・・・ウケル。今言ってたの?」

「あ・・・そうか聞こえないもんな。そう、今言われたんだ。長靴持って来る時に」

 ユキはシロを抱きしめて笑いながら言った。

「そうなんだ、シロお肉好きだもんね」


 ステーキ用の上等の牛肉を買ってきて3人(2人と1匹)で食べた。

 茂原市の事務所には戻らない。肉を食べて満足したシロに言いきかせる。

「いいか、後で砂浜で悪い奴らと会うんだ。こっちは箱を渡して、向こうにいる友達を返してもらう。何か有ったら言うから、言うとおりにしてくれ」

「分かった。一緒に行くの?」

「いや。お前はユキと一緒に俺から見える位の場所を散歩してるんだ。知らない人のフリをするんだ。分かるか? ビーチでは俺たちはお互いに知らない。だけど、もし必要な時にはシロに言うから」

「分かった。助けてあげればいいんだね」

 シロは尻尾を振った。一緒に仕事をするのを犬は大好きだ。


PM2:40

 沢田はシロとユキを本須賀海水浴場の少し北側、白幡海水浴場でFJから降ろした。

 本須賀までは歩いて15分も有れば着く。

 沢田は音声データの箱を助手席に置いて本須賀に向かった。


 本須賀海岸の駐車場は広い。数百台を止めるスペースが有る。

 海に向かって左側にFJを停める。右側のスペースにはサーファーの車が数台止まっていた。

 午後2時50分だ。周りにはそれらしき車は無い。


 約束の3時になり沢田は箱を持ってビーチへと歩いた。少し風が強く、砂が飛んでくる。

 遠目にユキが歩いて来るのが見える。少し前にシロが歩いている。


「ミスター サワダ」

 いきなり後ろから声がした。振り向くとスーツ姿の長身の白人が2人立っている。一人はレスラーの様な身体つきだ。

「お前らが矢部さんをさらったのか?」

 細身の一人が『ニヤッ』と笑って一歩前に出る。

「それが、秘密の箱ですね。それを、どう使うのか説明して下さい」

「矢部さんから聞いてるだろ」

「ミスター矢部の話と同じ事が聞けるといいですが」

 レスラーが沢田の手から箱を取り上げようとするが沢田は一歩下がって言った。

「矢部さんは何処にいる」

「車の中にいますよ」

 沢田の目にユキ達が200メートル程の距離まで来ているのが見えた。男達に言う。 

「顔を見たいな。その後で説明しよう」


 3人は駐車場に向かって歩いた。先頭を歩く沢田が二人を振り返ると、ユキとシロも駐車場方向に向きを変えて歩くのが白人2人の遥か後ろに見える。近づいている。

 沢田はシロにテレパシーを送る。

「そこで待ってろ」


 さっきまでは無かった黒のアルファードが止まっている。レスラーが合図すると後部座席の窓が下がり、矢部の顔が見えた。怯えている。矢部の隣にもう一人いるようだ。


 細身の男が言う。

「説明して貰おうか」

 沢田は音声データの使い方を説明した。どこで手に入れたかは説明のしようが無い。知らぬ間に送られてきたと言うしかない。

 矢部もありのままを話していたようだ。沢田は箱をレスラーもどきに渡してアルファードのスライドドアを開けた。矢部の横にも白人が一人。


 沢田は、矢部が降りると同時に外に立っていた二人の腹を殴り倒し、箱を奪い返した。沢田が振り返ろうとした時に全身に痺れが走った。アルファードに乗っていた一人がスタンガンを押し付けていた。

 沢田は矢部に箱を渡しながら叫んだ。

「逃げろ!」

 駐車場のアスファルトに倒れた沢田の目に、箱を持って砂浜へと逃げる矢部と、追っていくスタンガンの男が見えた。

 シロに伝える。

「後ろから追いかけていく男を止めろ。手に持っている武器に気を付けろ」

 シロから、走る2人の男の距離は100メートル。シロは全力で音もなく走った。

 数秒後にシロはスタンガンを持った男の右手に噛みついた。男は喚きながら左手でシロを殴る。

 沢田にはシロの悲鳴が聞こえるが視界の外で様子が見えない。男の喚き声も聞こえる。

 

 急に静かになった。沢田はシロに呼びかける。

「シロ・・・どうした?」

 シロの声。

「痛いな・・・こいつ僕を殴ったよ。オシッコかけてやれ」


 沢田は身体の麻痺が徐々に解け、ゆっくりと立ち上がることが出来た。砂浜へと歩く。

 そこには右手から血を流している男の顔に、後ろ足で砂を掛けているシロ。

 そして棒切れをもって立っているユキがいた。ユキが言う。

「頭を思いっきり殴っちゃったけど、大丈夫かな」

 沢田は驚いてユキを見た。

「ユキ・・・」

 ユキを抱きしめた。

 沢田は、もし彼女が怪我をしていたらと思い涙を流した。

 シロが尻尾を振りながら二人に身体を擦りつけた。


 矢部が箱を抱えて歩いてくる。沢田は手を振った。


 ユキと矢部はFJクルーザーでシロを連れてその場を離れた。


 駐車場にはアルファードと二人の男が倒れている。沢田は砂浜に倒れていた男を運んできた。3人をアルファードの後部座席に押し込む。砂浜から運んだ男が意識を取り戻したので話しかける。

「お前らは何だ?」

 男は薄笑いを浮かべている。沢田は顔を殴った。前歯が飛ぶ。男は血だらけの口で笑っている。

「言う気が無いようだな」

 沢田は男の腹を殴った。背骨まで折れた感覚が拳に伝わった。他の2人はすでに息をしていなかった。


 ポケットを探るが何も出てこない。財布には少しの現金が入っているだけだった。アルファードのグローブボックスを開けると銃が出てきた。

 映画でよく見る『グロック17』だった。一杯に装てんされた弾倉2個と共にポケットに入れた。


 沢田は、ガソリンのフィラーキャップを開けて車内に有った麻のロープを深く差し込んだ。ガソリンが滲みこむまでしばらく待ってロープに火を点けて砂浜に歩いた。

 3分後、海を見ている沢田の後方で爆発と共に炎が上がった。



 宇宙船ミルキー号の中では、銀河系の神『ミルキー』がその様子を見ていた。

『やはり人間という動物は変わらない。1万年経っても暴力からは解放されないようだな。他の動物は自分が食べる為と身を守る為にしか力に訴えないのに・・・まあ、面白いから、もう少し見ていようか』

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