fragment:25 月はとろろな夜の馳走
旅好きの友人が久しぶりに街へ戻ってきた。酒を吞みながら語らううち、時刻はすっかり深夜だ。肴もとうに尽きた。小腹が空いたとぼやくと、友人はにやりと笑って誘ってくる。
――それじゃあ、とっときの夜食といこうか。今夜は上手い具合に満月だ
友人はにわかに私の手を引き、そのまま体がふわりと浮いたかと思うと、いつの間にやら辺りの景色は一変していた。足元はざりざり言うし、落ちてきた月明かりがちろちろ揺れるのは流れる水のためらしい。どうやらここは河原のようだ。
――よしよし。今夜も店が出ているよ
目を凝らせば河の中洲には屋台が出ていて、おまけに鼻を利かせれば、そこから出汁の香りが流れてくる。
――よう、店主。久しぶりだな
友人は勝手知ったる様子で暖簾に顔を突っ込む。ご丁寧に中洲まで河が浅くなっている箇所があって、水溜まりを歩くような気軽さで渡って来られた。店主と呼ばれた人影がひょいと顔を上げた。
――まあまあ旦那、ご無沙汰しております。お変わりないようで
――ありがたいことにな。こいつと吞んでいて、夜食が欲しいと思ったところだ
友人が私を示すと、店主はこちらを見てにっこり笑う。
――ようこそ、いらっしゃいませ
藍色の布をきりりと頭に巻き、同色の着物をまとった店主は人懐こい印象だった。目は細く、色白の細面で男とも女ともつかないが、その手は間違いなく日々仕事に励む人間のものだった。
――じゃあさっそく頂こうかな。大盛りをふたつだ。俺のはたっぷりで頼む
――はい、ただいま
友人は品書きも見ずに注文する。どっかり腰かける様子にはみじんも迷いがない。
――まあ慌てるな。ここではな、食べられるものはひとつきりなんだよ。楽なものだろう
――お気に召していただけると良いのですがね
店主が釜の蓋を開くと、ふわりと甘い香りの湯気が立った。
――お待たせいたしました
目の前に置かれた丼の中身は、炊いた麦飯に、とろりとした汁をふんだんにかけたものだった。なるほど、とろろ飯。これは夜食にぴったりだ。
――やはり酒の締めにはこいつだな
友人の丼を横目で見ると、私のよりもとろろが多くかかっている。たっぷりとはこのことだったらしい。友人は馴れた手つきで七味を振り、箸でさくさくと飯をほぐしてとろろと馴染ませ、美味そうに掻き込んだ。私はそのままいただくことにする。飯と一緒に、口へ滑り込ませた。
出汁の風味がしっかりと感じられ、かといって芋の香りを邪魔しない。なんといってもこのなめらかさだ。店主が丹念に擦ったに違いない。麦飯の硬さも申し分なく、とろろとの調和が見事だった。
――うん、美味かった!
友人が先に食べ終わり、快い音を立てて丼を置く。私もそれに続いて食べ終えた。大層美味いとろろ飯だった。思わず拝むように手を合わせると、目の前に湯呑みが現れる。
――お粗末さまでした。綺麗に食べていただけて、商売冥利に尽きます
茶を啜りながら、改めて丼を眺める。本当に美味かった。普段の暮らしではしょっちゅう食べるというわけではないが、これなら毎日でも構わない。
――このところ曇りが多かったろう。店を開けない日も多かったんじゃないか
――ええ、こればかりはお天道さまの言う通りですね
友人と店主が不思議な会話をしている。そう言えばここへ来る前、満月がどうこうと言っていたが、それに関わることだろうか。
――うちは、満月の晴れた夜にだけやっております。ここへ来るときに、河を渡ったでしょう。それに合わせているんですよ
満月の晴れた夜に開くとろろ飯屋。なんとも奇妙な話だったが、おとぎ話のようで面白い。
――なあおまえ、未だにここがただの川だと思ってないか?
友人がにやにや訊いてくる。
――ここは銀河だよ。天の川だ
どこにでも行くやつだと思っていたが、なんと天上にまで足を運んでいたとは呆れる。まったく不遜なやつだ。まあ、それくらいでないと旅人などやっていられないのかもしれないが。
――天の川の水のように、さらさらっと召し上がっていただこうと思いまして
駄洒落のようなことを言う店主も店主である。さらさら、と言いながら箸を扱う手振りをしてみせるが、それが妙に上品だ。世の中には変わった商売人もいたものである。
――それではな。また頼むよ
友人は懐から何か光るものを取り出した。淡い青や赤に染めた硝子の欠片のように見える。じゃらっと机に置くと、店主は深々頭を下げる。
――毎度ありがとうございます
私も支払いをしなければと思うものの、こんなものは持っていない。まごついていると友人が涼しく言った。
――今日は奢りだよ。冷える前に戻ろう
店主はこちらを見て、もう一度微笑んだ。
――またのお越しを
再び河を渡る。辺りがやけに暗くなっていた。屋台の灯りに目が馴れたせいかと思ったら、頭上の月に雲がかかり始めている。
――運が良かったな。この様子なら、今夜はそろそろ店仕舞いだよ
しばらく河原で見ていると、さっき越えた浅瀬がたちまち流れに巻き込まれ、その向こうで暖簾越しの洋燈がふっと消えた。もう気配も感じられない。
――驚かないな、おまえ。馴れたものだな
このような場所で店を持つ以上、店主が人でないことくらいは織り込み済みだ。そういうのはたくさん見てきた。主に、この友人のせいで。
――では、帰って眠るとしよう
友人に再び腕を掴まれると、あの体が浮かぶ感覚がたちまち押し寄せる。足が地面から離れる瞬間、暗闇のなかで店主が手を振っているような気がした。たいへん美味かった。またお邪魔する。胸のなかでそう言うと、出汁のような金色の月明かりがわずかに射して、すぐに雲にまぎれてしまった。
断片集 此瀬 朔真 @konosesakuma
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