おもてなしREクリエーション
十森克彦
第1話
「おいちょっと、どういうことなんだ。この子だって並んでいたのに、ひどいじゃないか」
急に大きな怒鳴り声が聞えた。3歳か4歳くらいの小さな女の子が、今にも泣きだしそうな顔をして、指をくわえて立っている。隣では、その子の祖父だろうか、カメラを首から下げた白髪まじりの男性が、険しい視線をこちらに向けていた。
キャラクターグリーティングで並んで待っていたのに、気付かれないまま行き過ぎられてしまったということらしい。まずい。着ぐるみに入っていると、視野が極端に狭くなる。だから、それをカバーするために、自分たちキャストがそばについている。これは完全に、自分のミスだ。麻子は謝ろうとして、その男性にあわてて駆け寄った。すると、それに気付いたそのキャラクターの着ぐるみが、大仰に両手を振りながら戻ってきて麻子の前に立ち、そのお客様の前で手をすり合わせながら、大きな頭を何度も下げて一生懸命に謝罪のジェスチャーをして見せた。
犬をモチーフにしたその姿はいかにもユーモラスで、男性も思わず表情を緩める。一足先に笑顔に戻って、嬉しそうにはにかんでいる女の子の手前もあってか、それ以上は言い募ることをしなかった。むしろその小さな背中を押しながら、
「ほら、写真を撮ってもらいなさい」
とカメラを構えた。たっぷりと時間をかけて一緒に写真を撮ったり、その子にハグをしたり、頭を撫でてあげたりしてから次のアトラクションへと手を振って送り出すと、キャラクターは、その大きな顔を麻子の方に近づけてきた。決して言葉を発してはいけないはずの着ぐるみの喉のあたりから、麻子にだけ聞こえる声で、
「大丈夫だよ、麻子ちゃん。それより、なんだか元気ないんじゃないか。いつもの麻子ちゃんらしくないよ」
と話しかけてくる。ベテランの徳川さんの声だった。
「ごめんなさい、うっかりしてしまっていて」
麻子はやっとそれだけを返せた。そう、うっかりしていた。麻子はこのパークに勤めはじめて、10年になる。こんなミスが許される立場ではない。キャストにとって、パークの中は舞台の上と同じなのだから、決して気を緩めてはいけない。なんと言っても、新人キャストにそう教育をしている側なのだ。
「今日だって、休日返上で出て来たんだろ。あんまり頑張り過ぎると、後でしわ寄せがくるぞ。よく分かっているだろう」
器用に体を動かしながら話しているので、周囲からはキャストと即興のパフォーマンスをしているようにしか見えない。それでも、あまり長い間、同じところに留まっているわけにいかない。徳川さんは次のグリーティングポイントに移動するため、
「じゃあな。くれぐれも無理するんじゃないぞ」
とやはり小声でささやいて、頭の上で両手を振りながら、離れていった。麻子にこのパークでの仕事を教えてくれた、師匠だ。こちらのシフトのことまで、把握して気にかけてくれていた。あんな風に優しくされると、ちょっと泣きそうになる。これじゃあ、だめだ。麻子は、ちらちらよぎる七郎の顔を頭の中から締め出して、いつもの笑顔を体中に呼び出そうとした。
木戸孝行は感心していた。借景とは、よく言ったものだ。メインゲートに続くショッピングアーケードを抜けると、スペインの街並みをイメージした建物に囲まれた広場に出る。このパークは山の上にあるために、建物の上はすぐに青空が広がっていて、ふと、日本ではないような錯覚に陥る。さらにそこから奥へ進むと、今度は古城やスペインの遺跡をイメージしたパークの中心部が広がっており、その向こう側には、ふもとに広がる湾が見えている。うまい具合にその手前の街並みは隠されていて、やはり異国情緒にあふれている。
今年は特に新規プロジェクトの立ち上げがあって、子どもたちは夏休みだというのに、なかなかまとまった休みも取れない。せめて日曜くらいは、と思って遊園地に連れくることにした。
自宅から車で約3時間余り。海沿いの道から表示に従って山を登ると、遊園地の駐車場を示すPの文字が見えた。そちらにハンドルを切ると、それまでの緩やかな傾斜が急に勾配のきつい上り坂になり、百米ほどを登りきったところで一気に視界が開けた。
駐車場のゲートをくぐった先は、遊園地とリゾートホテルと温泉からなる総合リゾートの、一連の施設だけしか目に入らない。正直なところ、あまり期待もしていなかったが、一気にリゾート気分になり、年甲斐もなく浮かれた気分になっている自分に少し驚いた。そういえば、遊園地になど来たのは一体何年ぶりになるだろうか。
夏休みの遊園地は、子供たちにとっては夢の国だ。親の孝之がわくわくしているくらいだから、子ども達が平気なわけがない。朝早くの出発だったので、車の中では静かでほとんど眠っていたが、パークに近づくにつれてそわそわし始め、看板が目に入るとポップコーンが弾けるようにはしゃぎ始めた。
「うわあい。やったあ」
車が停まるなり、龍也が駆け出す。
「ちょっと待ちなさいよお。龍也、待ちなさいったら。一人で行っちゃ危ないでしょ」
三つ違いの姉の佐奈子は小学校二年生になって、弟の世話をあれこれと焼きたがるようになった。仕方ないわね、という表情で追いかけていく佐奈子の表情もやはり、嬉しくって仕方がないという様子だ。
妻の幾代と顔を見合わせ、孝之は思わず目を細めた。このところ仕事に追われて毎日帰りが遅かったので、考えてみれば目を覚ましている子どもたちの姿を見るのも久しぶりだった。孝行としては渓流とか湖とか、そんな自然の中で魚釣りでもしながらゆっくり過ごしたいところだったが、子ども達の希望に合わせて遊園地にしてよかった、と思った。
孝之と幾代が後をついて歩いていくと、子ども達はメインゲートの手前で立ち止まっている。この遊園地のキャラクターのぬいぐるみが数体、小さなステージの上に立って、歓迎のポーズをとっていた。観光地によくある、記念写真を撮るためのプレートを立体にしたものらしく、手前にはカメラを設置する台まで用意してある。写真を撮ってくれ、ということなのかと思ったが、佐奈子と龍也はそのぬいぐるみたちに向かってなにやら一生懸命話しかけていた。
「こんにちは。ぼくはきどたつやって言うんだ。今日はパパとママとおねえちゃんで、遊びに来たんだよ」
「龍也君、こんにちは。今日はたくさん遊んで行ってね」
そっと近寄って聞いてみると、ぬいぐるみに話しかけている龍也に、そのキャラクターになりきった姉の佐奈子が、答えているようだ。なるほど、一種のお人形ごっこみたいなもんだな。孝之は少し感心しながら、二人の様子を見た。
こんな風に素直に、無心に取り組めたらいいんだが。ふと、部下たちのことを思い浮かべてしまう。ショウルームの立ち上げという新しいプロジェクトで、接客のイメージを作るのに実際の場面を想定してロールプレイをさせていた。しかし、照れもあるからか台詞は棒読みで、表情などあからさまに嫌々ながらしているという感情むき出しである。
そんなことを途中まで考えて、いやいや、せっかくの休日に不愉快なことを思い出すのはやめよう、と気持ちを切り替える。
山の上だから少しは涼しいかと思ったが、標高が大したことはないので地上と変わらない。それに風もなくて真夏の青空が広がっているので、むしろ暑い。それでも、子ども達。は大喜びだった。
2人ともメリーゴーランドが気に入ったようで、立て続けに3回も並んだ。孝行はその様子をカメラに収めようと柵の外で構えていたが、意外と早く行き過ぎてしまうため、なかなかいいタイミングでシャッターが切れない。姿が見えた、と思った次の瞬間には、目の前を通り過ぎてしまうのだ。
2回目の途中で写真に撮ることをあきらめ、カメラのスイッチをビデオ録画に切り替えて、全体を写すことにした。文字通り瞬く間ではあるが、それだときちんと二人の姿が映る。2人の間に立っている幾代の表情も、ファインダー越しに見ると、リラックスしていて楽しそうだった。テレビのCMなんかではこういうシーンをきれいに撮影しているのだが、思ったように写せないのは孝行の腕前のせいか、それとも手元にあるカメラの性能か。
放っておくと4回目も並びそうな勢いだったが、さすがにぐるぐる回り続けるだけというのに幾代の方がやや疲れてきたのか、
「ねえ、ソフトクリーム食べようか」
と持ちかけ、ものの見事に子ども達の心を鷲掴みにした。3回目からは写真もビデオも飽きてしまった孝行に否やはない。
ソフトクリームと子どもとは、どうしてこんなに似合うのだろう。売店のお姉さんが上手に作ってくれたということもあるのだろうけれど、普段だったら
「お姉ちゃんの方が大きい」
「龍也のが格好いい」
などと、大して違わないお互いのものを見比べて、時には喧嘩にまで発展するのだが、今日に関しては一向にその気配はない。二人とも、顔中を笑顔にして、それを受け取った。
「おいしいねえ」
「ねえっ」
言いながら、うなずき合って、食べている。孝行はそんなに甘いものが好きなわけでないので普段はあまり食べないが、暑さもあって、幾代が買ったものを一口だけ舐めさせてもらった。うん、たまには結構うまいな。そう言いながら、もう一口、今度は少し大きめに口に入れて返した。
「一口だけって言ったのに」
幾代は口をとがらせて言う。こうしていると、結婚前を思い出すな、と笑えた。
近頃急にお姉さんらしくなってきた佐奈子の方は、手渡されたソフトクリームを上手に食べている。龍也の方はと言うと、何をどうすればそうなるのか不明だが、たちまち顔中をクリームだらけにしている。それでも手を出すと嫌がるし、やり取りしている間に溶けてしまいそうなので、とにかく食べてしまいなさい、と促す。Tシャツにまで少し汚れてしまっているが、後で、丸洗いすればいいだろう、と思った。
本当は誕生日くらい、休みを取りたかった。いや、取っていた。七郎と休みを合わせて、このパークで過ごそう、と約束をしていた。ところが、つい3日前になって七郎から、急にシフトに入ることになったと聞かされた。春先の人事異動でホテル勤務になった七郎とは、顔を合わせる機会も減っていたので楽しみにしていたのだが、どうしようもない。それでも、言い訳の一つもしようともしないでただごめん、とだけ言う七郎に、麻子はがっかりした気持ちを抑えきれなかった。
「まあ、仕方ないよね。いいわよ。私との約束なんて、二の次だもんね」
と自分でも嫌になるくらい意地悪な言葉を投げて、一方的に電話を切った。そして、一人きりで過ごす誕生日がやりきれなかったので、自分もシフトを交替してもらって、仕事に出ることにしたのだ。
ふもとの町で育った麻子は、幼いころからこのパークが大好きで、パークのキャストにあこがれていた。だから、高校を卒業してすぐに、ここに就職した。七郎もやはりここが大好きで、東京の大学を卒業して、戻ってきていた。入社式で出会ったので、麻子とは四歳違いの同期生ということになる。
パークの魅力について語りはじめると、お互いに話の尽きることはない二人だった。出会ってから10年目の誕生日は、特別な日にしたいんだと七郎が言っていた。楽しみにしていた、どころではない。もしかしたら、大袈裟ではなく、人生の転機になるのかも、と思っていた。それなのに、
「急にシフトが入っちゃったんだ、ごめん」
とそれだけだった。もちろん麻子にだって事情は分かっている。シフトが入っても断ってほしいなんて思っているわけではない。むしろ、もし七郎がシフトを断ったと言ったら、麻子の方が許さなかったと思う。それだけ、ここでの仕事に誇りを持っている。でも、だからといって割りきれるものでもない。七郎の言葉にはそんな自分への思いやりというか、優しさが感じられなかった。
「だめだ、パークに立って余計なことを考えるなんて」
少し気を抜いていると、すぐに七郎のこと、誕生日のことが出てきて、頭の中で停滞する。集中しなくっちゃ。そう考えて、滞っているそれらのもやもやを追い出す。こんなこと、これまでなかったのにな。それもみんな七郎のせいだ。思ったとたん、また同じ雲の中に引き戻されてしまう。朝から、そんなことをぐずぐずと繰り返すばかりで、一向に抜け出せないでいた。
完全に麻子を怒らせてしまった。もちろん、麻子との約束を二の次だなんて、思ったことはない。特に今年の誕生日は、出会って10年目になるのだから、特別な日にしようと計画していた。2人が大好きなこのパークで一日を過ごして、フィナーレの花火を見ながら指輪を手渡し、プロポーズをする。七郎のロッカーにはその指輪が大事に仕舞ってあった。それなのに、急に仕事が入ってしまったのだ。
春先に上司に呼ばれ、ホテル部門への異動を告げられた。七郎は一応幹部候補生だったので、グループの色々な部署を経験しておくことは重要だと言われた。サブチーフという肩書が付けられることになっていたが、パークにあこがれて就職した七郎にとってそれは、少しも喜ばしいことではなかった。けれども、麻子との将来のことを考えると、我慢のしどころなのだと自分に言い聞かせていた。
そんな麻子との約束をキャンセルしてまでシフトを引き受けたのは、その後輩の、田舎にいるお母さんが倒れたということを聞いてしまったからだ。仕事があるから帰れない。目に涙を一杯浮かべながら家族に電話で応えている彼女の姿を見て、知らない顔はできなかった。
「帰ってあげたらいいよ。シフトは僕が何とかするから」
そう言う他なかった。でも、麻子には何も言えなかった。どんな事情があろうと、大切な約束をキャンセルするのだから、言い訳をすることはできないと思った。
ホテルの一番奥にある、フィットネスコーナーが七郎の担当部署だった。テニスコートやマシンジムなんかもそろっているが、このシーズンに利用客はほとんどいない。大抵はプールの利用である。しかも、遊園地が主な目的で来ている家族連れが中心なので、あまり盛況とは言えない。直接お客様と接するのは受付や浮き輪のレンタルなどの時くらいで、後は散らかったプールサイドの片付けや、場合によっては監視員のような役割を果たすこともある。いずれにしても、七郎が好きなパークでのキャストの仕事とはずいぶん違っている。
まさかお客様の前で沈んだ表情は見せられないが、接客の機会が少なく、そもそもお客様そのものが少ないので、一人になる時間が必然的に多かった。電話の向こうの不機嫌な麻子の声が耳に残っていて、七郎は遠慮なく何度もため息をついては、外の天気とは裏腹に、朝からどんよりした気分に浸っていた。
とりわけ午後を過ぎると人出はめっきり減り、早めの休憩で夕食をとって戻る頃にはお客様は一人もいない、という状態だったので、七郎は受付カウンターに肘をついて、ぼんやりと落ち込んでいるしかなくなってしまった。
ソフトクリームでべとべとになった手と顔を洗わせて歩いていると、パークのちょうど中心にある池のほとりに、アトラクションの入り口があった。丸太舟の形をしたコースターに乗って、実際に水の上を移動するというものらしい。詳しくは分からなかったが、なにやら色々と仕掛けもあるようで、「さあ、冒険に出かけよう」というあおり文句に、舟が好きな龍也はすっかりその気になったようで、
「ねえ、これ乗ろうよ」
と孝行の手を引いて入り口に連れて行った。結構人気があるようで、行列が出来ている。
「まあいいけど、大丈夫かしらねえ」
どうやらアトラクションの内容を知っているらしい佐奈子が、幾代と顔を見合わせながら、意味ありげに笑っている。孝行は全く知らないので、想像もつかないまま、龍也に引いて行かれるままについて行った。
パークの中ほどに作られている池を、その丸木舟は一周した。どこかから怪獣でも出てくるのかと思ったがそうでもない。一番前の席に座って目を輝かせている龍也を見ながら、なかなかのどかでいいじゃないか、と孝行は思った。元来、ジェットコースターとかフリーフォールとか、いわゆる絶叫系の乗り物はあまり好きじゃない。そういう意味では、遊園地に連れてきてやるのは、まだ幼い頃がちょうどいい。
一周を終えると、舟は元の乗り場には戻らずに池の端にある岩山風の建造物の方に、向かった。近づくと、そのたもとに洞窟のような入り口が作ってあって、どうやらそこに向かうらしい。寸前で一旦止まると、それまでの軽快なBGMは急におどろおどろしい効果音に替わった。よく見ると洞窟の入り口から続く通路はずいぶん急な上り坂になっているのが分かった。龍也が少しだけ不安げに、目の前にあるバーを握り直した。後ろの席では佐奈子と幾代がひそひそ話をしているが、龍也の方は余裕がなくなってきているようで、首をすくめて小さく固まってしまった。
ガタン、という振動と共に再び動き出した舟は、一向を座席の背もたれに押し付けるようにしながら急な坂を上っていく。先の方は真っ暗で何も見えない。
「怖いよう」
坂の中ほどまで来ると、龍也が耐え切れずに思わず言った。逆に、後ろにいる二人はくすくすと笑い出している。孝行自身も平気ではなかったが、家族の手前、怖がるわけにもいかない。龍也が怖がっている様子を笑いながら、
「大丈夫だよ、面白いじゃないか」
などと故意に大きめの声で話しかけてみたりしていた。
上りきった先は広い空間になっていて、ところどころに小さな照明が設けられているが、それがかえって薄暗さを強調している。照らし出されているのは壊れた舟や骸骨の模型である。のどかな風景から一転して暗い洞窟。なるほど、よくできているじゃないか。少しその空間に慣れて余裕が出てくる中で孝行が感心していると、龍也の方も同じように慣れてきたようで、縮こまっていたのが興味津々の様子できょろきょろと周りを見回しはじめた。
舟が洞窟の中を進むとすぐに狭い通路に入り込み、さらに不安をあおるような効果音や悲鳴が流れる。曲がりくねった細い通路が少し続いた後、不意に前方に明かりが現れた。ああ、これで終了か。よかったね、もうおしまいみたいだよ、と龍也に話しかけようとしたとき、後ろの席の娘が妻に
「来た、来た」
と言う声が聞えた。えっ、終わりじゃないのか。驚いていると見る間にその明かりは目前に近づいてくる。どうやらやっぱり外のようだ。直前で一瞬止まり、次の瞬間、伝わってきた衝撃と共に、再び動き出した。それまでにない、激しい動き。上ってきた時とは比較にならない急角度で、下っている。いや、落ちている。
「きゃああ」
待っていました、と言わんばかりのタイミングで、妻と娘だけでなく一緒に乗っていたすべての乗客が一斉に悲鳴を上げた。時間にすればものの二、三秒というところだろうか。着水し、激しく上がる水しぶきの中で、叫ぶタイミングを完全に失った孝行は、
「こ、これかあ」
とだけつぶやいた。舟はゆらゆらと余波の中を揺れながら、ゆっくり終点のプラットホームにたどり着いた。龍也は、完全に固まっている。停止し、体を固定していたバーが上がっても、そのままの姿勢で動こうとしないので、孝行が抱き上げて舟を降りた。その頃になってようやく、孝行の肩に顔を押し付けて、泣き始めた。佐奈子と幾代は
「すごかったねえ」
「びしょ濡れになっちゃった」
とはしゃいでいる。
「急流すべりって、初めから知っていたのかい」
と孝行が聞くと、二人ともいたずらっぽく笑って、
「まあね」
と答えた。
真っ青な空に白いモルタルの壁がくっきり浮き上がって見える。スペインの遺跡をイメージしたこの建物が、一番のお気に入りだった。屋上は建物と一体になった石の造りのベンチがあって、上を見上げれば空が一杯に広がっている。一階にはグッズショップやカフェがあって、「魔法の洞窟」というアトラクションもある。ストーリー仕立てで洞窟風に作られたいくつかの小部屋を経て、最終的には三Dシアターで立体映像を観るというものだが、それらが外付けの階段や柱でうまく区別されていて、違和感を持たせない。ここを設計した人はきっと天才に違いないと思っていた。
午後も深くなってきたので、そろそろ日が傾き、白い壁はオレンジに染まり始めるだろう。こんな晴れた夏の日には、長く働いていても、ふと日本にいることを忘れてしまいそうになる。といっても、麻子は本物のヨーロッパに行ったことがない。あくまでも写真のイメージだけなのだが。
このパークの魅力の一つは、そうした異国情緒の中に浸れるところだ。非日常の中で、日常をひと休みする。それが休日の醍醐味だと思う。パーク内を歩くゲストの笑顔は、そんな解放感に満たされている。パークで働くほとんどの従業員たちにとって、その笑顔を見ることが、最大の励みであり喜びとなっている。
朝から負のスパイラルの中から抜け出せない麻子にとってもそれは同じで、ふと力が抜けた瞬間に、そうして喜んでいるゲストの笑顔が飛び込んでくると、危うく涙が出そうになるのだった。
それと気づかずに乗ってしまった急流すべりのショックもあってか、龍也は他のアトラクションには向かおうとせず、プロムナードを歩いたり、パレードやステージのショーを観たりすることに時間を費やした。佐奈子も特にそれに不満は言わず、機嫌よく付き合っている。
孝之と幾代は、色んな見どころがあって助かった、と思った。それにしても、どこにこんなスタミナが隠れているのだろうとあきれるくらい、子ども達は元気だ。基本的に移動は駆け足で、ふうふう言いながら追い付いた孝行達が、額から首筋までぐっしょりとかいた汗を拭いてやるとまた駆け出す、という始末だった。
入り口付近まで戻るとゲームコーナーを見つけ、子ども達はそこにくぎ付けになった。そこにあるゲームはどれも、近くのスーパーにもありそうだったが、目を輝かせて
「これ、やりたい」
とせがむのを止められない。まあ、日頃はそんなにさせているわけでもないので、今日くらいはいいか。それに涼しいし、と半ば自分たちを納得させて、付き合うことにした。
夏休みの期間中は営業時間を延長していて、閉演三十分前には花火の打ち上げがある。孝行と幾代も子ども達も、その花火は楽しみにしていた。今日はよく晴れていて雲もなかったので、きっときれいに見えるだろう。夕食のお子様ランチをたいらげて、上機嫌の子ども達と一緒に花火が見えやすそうな場所に早めに移動しておくことにした。
閉園時間が近づいてきた。あと二十分ほどで花火が始まる。落ち着かない気分で過ごしてきた一日の仕事も、締めくくりに向かっていた。
麻子は「魔法の洞窟」の前に立って、ゲストの誘導をしていた。この時間になると、静かに暮れていく黄昏時と違って、そろそろ花火を観るためにいい場所を探し始めたり、閉園時間までに可能な限りアトラクションを楽しもうと走っていたりと、ゲストの動きもあわただしくなってくる。
「花火って、この辺りからも見えるんですか」
子どもを二人連れて花火を観る場所を探しているらしい、人の好さそうな夫婦に尋ねられた。夏休みの家族旅行か。麻子はせっかくだから、自分の一番お気に入りのスポットを紹介することにした。
「この階段を上って行かれると、屋上です。ベンチがありますから、そこに座ると、花火を一番近くに観られるスポットですよ」
「へえ、そうなんですか。でも、それじゃあ混むんでしょうねえ」
満員電車でも想像したのだろうか、奥さんがちょっと煩わしそうに、眉を八の字にして言った。
「大丈夫ですよ。皆さん、見晴らしのいい広場の方に行かれます。そこも確かにいいんですけれど、意外とここの屋上は穴場なんです。内緒ですけど」
と声を潜めて言った。もちろん内緒ではなくて、パンフレットにも「穴場」としっかり書いてある。けれどもそんな風に伝えると、特別感が出て喜ばれることが多い。
「どうも御親切にありがとう」
案の定、決して社交辞令ではなさそうな御礼を言って、一家はその階段に向かって行った。
麻子が何気なくその後ろ姿を見ていると、お姉ちゃんらしい女の子が、「魔法の洞窟」を指さして何か言っている。一家はそこで立ち止まって、相談を始めた。
「すみません、このアトラクション、所要時間約二十五分と書いてあるけど、これ見てからじゃ花火、やっぱり間に合いませんよね」
お父さんらしき人が戻ってきて尋ねる。
「そうですねえ。ちょっと無理があるかもしれません」
時計を見ながら、答える。シアターの手前の小部屋は、ある程度の人数ごとで区切ってストーリーを進めることになっているので、所要時間はその時によって変動する。花火が始まる時間には間に合わない可能性がある。花火そのものもそんなに長い時間続くものではないから、どうせなら始まる前にはいい場所に落ち着いてもらっておいた方がいい。
急流すべり以来、佐奈子は我慢していたらしい。でもいよいよ花火が始まろうという時間になると、どうしてももう一つだけ、アトラクションに入っておきたいという気持ちが出てきたようだ。それまで我慢してきた分、一度言い出してしまうと抑えられなくなったのか、半分泣き出しそうな表情のまま、その場を動けなくなってしまった。
「佐奈ちゃん、これに入っていたら、花火には間に合わないってお姉さんも言ってたじゃない。花火、観られなくていいの?」
幾代が優しく説得するが、佐奈子は指をくわえてうつむくばかりだ。さっきまでの、頼もしいお姉ちゃんはなりを潜めて、幼い佐奈子が顔をのぞかせている。
「佐奈子、また連れてきてあげるじゃないか。その時には、一番にここに入ろうよ」
孝之も説得しようとして言ったが、これがいけなかった。
「またっていつ? お父さんいつも忙しくてお家にいないじゃない」
佐奈子の目から、大粒の涙がこぼれる。痛いところを突かれた。確かに、孝之の「また今度」は約束としてあてにはならない。幾代もそう思ったのか、一旦夜空を仰いでから軽くため息をつき、佐奈子に向かって手を差し出した。
「分かったわ。じゃあ、お母さんが一緒に行ってあげる。お父さんと龍也は花火を観に先に行く。それでいいでしょう」
でもそれは佐奈子にとっても決して望んでいることではないようで、こらえきれずにしゃくりあげ始めた。
一家の様子を見ていると、大体の事情は想像できた。「魔法の洞窟」にも入りたいし、花火大会も観たい。どちらかを選ぶしかないということで、もめているのだろう。結局花火を選ぶことにしたらしい一家は、麻子が薦めた屋上を目指して、階段を上り始めた。泣きじゃくる女の子を、お父さんが抱き上げている。
「私との約束なんて、二の次だもんね」
七郎に投げてしまった言葉が、麻子を責めた。どちらかを選ぶしかないから、もう一つの方はあきらめるしかない。それでいいんだろうか。麻子はじっとしておれなくなって、「魔法の洞窟」の受付に走って行った。
「田中です。あの、こちらの待ち時間、どうなっていますか。花火大会までにどうしてもここに入りたいっていうお客様がおられるんですけど」
言葉に、熱がこもる。
「今だったら待ちはゼロです。すぐに入ってもらったら、ぎりぎり何とかなると思います」
と麻子の熱に応じるように、弾んだ答えが返って来た。
「よし」
麻子は踵を返して、駆け出した。一分だって無駄にはできない。駆けながら、叫んだ。
「お客様、大丈夫です。ギリギリですが、何とか間に合います」
例の一家は、驚いた顔で麻子を見つめ、
「ありがとう」
と言って、アトラクションの受付に駆けこんで行った。
パークとその上に広がる空を、きれいなオレンジに染めていた夕陽がすっかり沈み、街灯がともり始める。すると、パーク内の景色もまた、ひと味違うものになる。照り付ける太陽の代わりにかすかに吹き始めたそよ風が、少し息を切らせながらその一家を見送った麻子を、ほっとさせてくれた。余計なことを考えずに走れた手ごたえが心地よい。仕事が終わったら、七郎にメールをしよう、と麻子は何故だか素直に思った。
突然、声をかけられた。さきほど、花火には間に合わないだろうかということを尋ねたキャストだ。息を切らせながら、「間に合います」と叫んでいる。自分たちのために、わざわざ時間を確認した上で、知らせに走ってきてくれたのだということが分かった。迷っている暇はなさそうだ。孝行と幾代は、子ども達の手を引いて、「魔法の洞窟」の入り口に向かった。受付では、出発準備を整えて、係の人が待ってくれている。
佐奈子にあきらめさせずに済んで、本当に良かった。それに、自分たちのためにそんな風に一生懸命に連絡を取り合って、迎えてくれた心遣いが、ありがたかった。
見事な花火だった。最後の一発では、空が一瞬昼間のように明るくなった。直前にアトラクションの件でぎくしゃくしかけたが、それも一所懸命走って確認をとってくれたキャストのおかげで、心おきなく楽しむことができた。すっかり満足し、隣接している温泉施設で入浴と歯磨きまで済ませて車に乗り込む。時間はいつもの就寝時刻を少し回ったところだ。自宅までは三時間近くかかるが、ここからは車内を寝室にしてそのまま寝かせて帰ろうという計画だった。
孝之は、この日のためにと用意したフットペダル式のエアポンプを取り出した。足下を埋めるスペースクッションで後部座席を広めのベッドにしてやる。それが今日の家族サービスの、締めくくりだった。
見慣れない道具に、幾代は
「大丈夫なの、それ」
と少し心配そうな顔をのぞかせたが、孝之は自信たっぷりに、
「手の力より足の力の方が何倍も強いんだ。体重も乗せやすいからね」
と答えた。クッションにポンプのチューブをつなぎ、ペダルを踏んでみる。ところが、うまく固定できていなかったためか、数回踏んだだけで、チューブが弾け飛ぶように、外れた。何度かやり直しているうちに、なんの弾みか、スプリングやらなにやら、部品が外れ落ちた。不良品だったのか使い方を間違えたのか、新兵器のはずのエアポンプは、バラバラになってしまった。
「壊れた?」
様子を見ていた佐奈子が、眠そうな目をこすりながら、尋ねる。
「大丈夫。先に寝ていたらいいよ。立派なベッドにしておいてあげるから」
孝之は答えながらその部品を拾い集めて、少々途方に暮れた。簡単には元に戻せそうにない。
「やっぱり、普通の空気入れにした方がよかったんじゃないの。どっちにしても、空気入れが壊れちゃったんじゃ、仕方ないわね。そのままで帰るしかないじゃない」
幾代があきれ顔で、元も子もないことを言う。子ども達は、そうこうしているうちに眠りに落ちてしまっている。一日中はしゃいだ上で入浴もしたので、当然だろう。眠ってしまったのなら、スペースクッションがあろうがなかろうが、気付きようもないのだが、孝之としては引き下がるわけにはいかない。
「そうだ、ホテルなら空気入れくらい、貸してくれるだろう。ちょっと、行ってくるよ」
色々と計画通りには進まないものだが、やれるだけのことはやる。その上で、どうしてもだめならあきらめよう、と思った。
ホテルに入ると、すでに客の出入りは落ち着いたようで、フロントに人影はなかった。声をかけようかどうしようかと一瞬迷ったが、確かこの奥にプールがあったはずだから、そこになら空気入れもあるだろう、と見当をつけ、そのまま廊下を奥の方に進んで行った。
申し送りも終わり、他のスタッフも皆退勤した。後はホテルの夜勤者のみで、この一角は店仕舞いになる。そろそろ帰ろうかな、とけだるく立ち上がった時に、声がかかった。
「すみません、ちょっといいですか」
声のする方を見ると、プールの受付カウンターに男性が一人立っている。こんな時間に、何の用だろう。プールの営業時間はとっくに終わっている。
「あの、空気入れ、貸していただけませんか」
「空気入れ、ですか」
「ええ、実はこれから帰るのに、子ども達を車で寝かせようと思いまして。このクッションを膨らませようとしたんですが、空気入れが壊れてしまったんです。それで、こちらでお借りできないかと思いまして」
七郎が男性の手元を見ると、なるほど確かに黒いビニール製のものがぶら下げられている。
「ああ、いいですよ。でもエアポンプがこのカウンターの中にありますので、こちらで入れます」
そう言いながら、男性からそのクッションを受け取った。まあ、どうせ急いでないし、いいか。軽い気持ちで、引き受けることにした。広げてみると、結構な大きさである。電動エアポンプのノズルを固定し、スイッチを入れる。他に誰もいないフィットネスコーナーに、予想以上にモーターの音が大きく響いた。
日中はボートなどにも空気を入れるにしても、一旦セットしたら後は放っておくしかないから、他の業務をこなしている。ところが今は他にすることもないので、ただじっと、そのビニール製のクッションが膨らんでいくのを見ているしかない。空気が漏れているのではないか、と思えるほど、クッションはなかなか大きくなってくれない。
「どうもすみません、お手数をおかけして」
ほどなく聞こえ始めたモーターの音に安堵して、孝之は礼を言ってカウンターの正面にあるベンチに腰掛けた。せっかく温泉に入ったのだが、すでに汗でぐっしょりだった。車に戻ったら、動き出す前に着替えたがいいな、と思った。
静まり返った一帯に、モーター音だけが響いている。じっと待つしかないので、ことのほか、時間が長く感じられた。結構かかるものだな。漠然とそう思っているうちに、気が付けば聞こえてくる音が変わっていた。
しゅこしゅこ、しゅこしゅこ。モーターの音はいつの間にか止んでいる。どうしたんだろう。もう、終わったんだろうか。しかし、いつまで経っても受付カウンターの奥から人が出てくる気配はない。しゅこしゅこ、しゅこしゅこ。まあ、他の業務もあるだろうから、そのうち出てくるだろう。そう思って座っていると、軽く十分以上は経ってから、カウンターの下から先ほどのスタッフが現れた。奥にいるのかと思ったら、意外とすぐそこにいたようだ。汗をぐっしょりかいている。
「すみません、お待たせしました。ちょっと時間がかかりそうだったので、手動で入れた方が早いかと思いまして」
では先ほどから聞こえていた、しゅこしゅこ、という音はやはり手動の空気入れの音だったのか。電動だから、と任せっきりにして待っていたのだが、悪いことをした、と孝之は思った。
「手動でやって下さったんですか。それは申し訳なかったですね。余計な仕事をさせてしまいました」
恐縮して、立派に膨らんだ二つのスペースクッションを受け取りながら礼を言った。
「いえ、いいんです。お気をつけてお帰りください」
にこやかに送ってくれる、その顔に汗が光って見えた。さっきの遊園地のキャストといい、このホテルスタッフといい、いい仕事をするな。たまには、こんな休日もいいものだ。孝之は来た時よりも少し元気になった自分を自覚しながら、妻や子ども達が待つ駐車場へと戻っていった。
喜んで戻っていったその男性客を見送りながら、七郎は汗をぬぐった。久しぶりに心地よい汗をかいた。少しはダイエットになったかな。考えてみれば遊園地でもホテルでも、お客様に喜んでもらうという醍醐味は変わらないはずだ。今更ながら、この仕事を自分は好きなのだ、と実感した。
「さて、今度こそ、帰ろうかな」
先ほどとは全く異なるトーンでつぶやいて、ふと、自分のスマホに着信が入っているのに気付いた。
「お疲れ様。この前はごめんね。仕事明けたら、会いたいな」
麻子からの三日ぶりのメールが、液晶画面に踊っていた。
おもてなしREクリエーション 十森克彦 @o-kirom
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