第三十九話 「ココからが終わりの始まり」
「──ぷはっ! げっ、ごふっ!」
激しく咳き込み、胃の中のものをぶちまけた希歌の背中を、やさしく撫でる誰かがいた。
まだうまくピントが合わない目で、涙を流しながら必死に見れば。
そこに、ボロボロになった橘風太の姿があった。
「──ッ!」
言葉を発するよりも早く、自分は彼に抱きついた。
強く、強く、風太の身体を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だよ、希歌さん」
「うん、うん……!」
子どものように頭を撫でられ──こどもの時とはまるで逆だ──やさしく、やさしく介抱されて。
ようやく、自分がなにをしているか理解する。
「ちょっ! 風太くんのクセに距離が近い!」
「理不尽だけど!?」
思わず突き飛ばせば、彼は尻餅をつく。
その拍子にぶつけたのか、顔をしかめ、左手を抱く。
「ご、ごめん」
「いや、大丈夫だよ」
「だから」
「『初手否定は感じが悪い』だろ? それより『サヨナラ』なんて酷いよ、希歌さん」
「────」
差し出されたスマホの画面。ほんの少し前に送った別離のメール。
どこまでも日常と地続きの彼の言動。
本当に、生きて戻ってこられたのだという実感に、身体から力が抜ける。
「おっと」
風太が抱き留めてくれたところで。
「おふたりさんよぉ、取り込みちゅう悪いんだがな」
苦み走った様子の声がふってきた。
見れば、所在に肩を借りた保が、顔を痛みに引き攣らせながらこちらへとやってくるところだった。
「カトーさん! 田所ちゃん! あたし」
「謝るのはあとだ。それより、田所、これ撮ってるか……?」
困惑の極みと言った様子で、彼はつぶやき。
所在はガクガクと頷くことしかできない。
そこではじめて、自分は周囲で起きている異常な状況を理解した。
怪異は、終わっていなかった。
蛇の海。
とんでもない量の蛇がホールの中を覆い尽くしており、牙を剥き、毒を飛ばし。
けれど、それをたったひとりで圧倒している人間がいた。
真っ赤なロングコートに、真っ赤な手袋。
真っ赤なサングラスに、真っ赤な帽子。
マスクだけが、まだ白い。
燃えるような髪の女性が、寄る蛇すべてを、拳で砕く。
寄らなければ、一歩を踏み出し、それだけで怪異が灰となって消え失せる。
手も足も届かないとなれば、符を刺した刃が投擲され、怪異を爆散させる。
一見無敵の番人のように見えて。
けれど、彼女の全身は血まみれだった。
コートも手袋も、はじめから赤かったわけではなく、彼女の全身からしみ出した血液で、真っ赤に染まっていたのだ。
この瞬間も、まぶたの上に裂傷が生じる。
首筋が裂けて、血が噴き出す。
それでなお、彼女は止まらない。
恐怖を覚える。
胃と心臓の中間あたりがぐるぐると渦巻き、またも吐き気を催す。
だって、あれは。
あれは!
「〝
裂帛の気合いとともに、彼女が両手で床を叩く。
周囲すべての怪異が、一斉に黒い灰となって消滅──いや、焼却される。
「お前も、ここで決着させるつもりか?
『──ナァァァ──』
赤い女がステージの端を、そこにある暗がりを睨み付ける。
白かったはずのマスクが、滲むように赤に変わった。
泥人形が、そこにいた。
現れてからこれまで、事態を静観していた赤い三日月は、彼女を嗤い。
役者がはけるようにして、闇の中に姿を消す。
「……ふぅ」
緊張から解放されたように重い息をついた〝それ〟は。
ゆっくりとこちらへ振り返った。
そして、血に染まったマスクを外す。
「まだ……生きたいか?」
耳まで裂けた美しい
滴る血液をものともしない、圧倒的な、恐怖すら覚える秀麗な顔立ち。
夢のなかで見はずの、くちさけ女が、そこにいて。
「希歌さん、彼女は、女菟さんは」
「……大丈夫」
なにかを察して、風太が説明しようとしてくれる。
でも、本当に大丈夫だ。
だって。
「あたし、思い出しました。あなたが」
この、くちさけ女が。
「二十年前、あたしの命を救ってくれたんですね……?」
「……誤解があるようだな」
え?
「確かにオレはあんたの延命をしてやったが、助けたのは──ッ」
なにかを言いかけて、彼女の表情が一層曇る。
次の瞬間、くちさけ女は、有無を言わせない怒号を上げた。
「全員伏せろッ!!」
その叫びに前後して。
強烈な地震が、襲いかかってきた。
「希歌さん!」
風太が、反射的に自分をかばってくれる。
同時に、悍ましい呪詛が、ホールを震撼させる。
「使ぃ命ぃをぉぉぉはぁたぁせぇぇええええええええ──!」
おどろおどろしいというのならば、これこそがおどろおどろしい声音。
地震が収まり、顔を跳ね上げれば、壇上に見覚えのある人物がいた。
ぼろぼろの汚らしい服に身を包み、蓬髪を振り乱し。
片手には包丁を握った、右目だけが白目まで黒い、木乃伊のような中年女性。
「金泥虞泪」
静かに、くちさけ女が、その名を呼ぶ。
「水の巫女ぉ……こっちへこぉぉい!」
虞泪と呼ばれた女性の身体が、宙に浮き上がった。
そのまま、ハゲタカがするように急降下し、こちらへと襲いかかる。
風太がかばうように抱きしめ、振りかぶられた包丁がギラリと輝いて──
「邪魔をするかぁ、朽酒ぇえええええええええええ!!」
ざくりと、肉を断つ音。
そして、噴き出す血の音。
自分はずっと見ていた。
彼女が。
くちさけ女が、自分を守るように立っていて。
ぼた、ぼたた……
その背中から、大量の血がこぼれ落ちる。
「アンタ!」
「かすり傷だ。それより──金泥虞泪!」
振りかえる赤い彼女の視線の先に、観客席の上に犬のように座り、首を傾げている虞泪の姿があった。
「なぜ。なぜなぜなぜ?」
ミミズクのようにその首が、気色の悪い音を立てながら一回転する。
生理的嫌悪から、吐き出しそうになる。
あれは、人間じゃない。
「なぜ使命を果たさない水の巫女。選ばれたはずなのに。聖杯となったお前の死こそ、世界の洗濯には必要なのに」
「世界の洗濯って、なんなんですか、金泥さん?」
風太が、叫ぶように問いかける。
虞泪はジッと彼を見つめ。やがて。
ニタァッと、嗤った。
「願いは、まだ体内か」
「は?」
「道化師! オマエじゃなかった! けれどオマエのせいで死ぬぞ! たくさん死んだ! もっと死ぬ! 洗濯は水の到来! 巫女の死が怒りの引き金、世界を洗い流す新世界への扉!」
「今度も邪魔してやるよ、金泥虞泪」
「朽酒女菟。忌ま忌ましき始まりの死め……だが、間に合わない。間に合わなーい! えっくっくっくっくっかっ!」
上機嫌な様子で狂笑すると、中年女性は一瞬で表情を消した。
「
彼女は手の中で包丁を一回転させると、後方の空間を切り裂いた。
闇、闇黒、無窮。
なにかも解らない裂け目がうまれて。
「使命を、はたせぇえええええええ!!」
そして、彼女は裂け目に飛び込んで。そのまま、姿を消した。
「終わった、のか……?」
保がぽつりと呟くと。
「終わっていない。これから、始まるんだ」
赤い彼女が、首を振った。
そして──
「地震!?」
「またかよ!」
「全員、外に出ろ!」
「ま、待ってほしいッス! 証拠に、これだけは」
所在がカメラを回したまま、嘉嶋禮子の残したノートパソコンを抱きかかえる。
「はやく!」
赤い彼女に扇動されるまま、全員がホールから抜け出して。
そして。
「うそ、でしょ……?」
そして、自分は言葉を失った。
そびえるネクスト永崎タワーを中心に、暗雲が渦を巻く。
閉ざされていたソラが割れ。
そこに、巨大な、天空を覆い尽くすほど巨大な眼球、
──真紅の海が、広がっていて。
大量のカラスが空を飛び、吠え立てる。
犬が発狂したように唸り吠え、地ベタを這いずり回る。
虫が空を陵辱し、共食いしては地に落ちる。
絶え間ない地震が、世界を砕く。
「この世の、終わり」
誰かが、そう呟いた。
「いや──終わらせたりなんて、しないよ」
「橘風太の言うとおりだ。この天変地異を止める方法は、まだある」
くちさけ女。
傷だらけの赤い彼女が。
辛辣な口調で、こう告げた。
「湖上結巳を、殺すことだ」
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