第四部 絶望に向かい咲けよ立華~ジオサイド~
第一章 敵は天の階に
第四十話 「諦めない、ゼッタイ」
「再会を祝そうって雰囲気じゃ、なくなっちまったな」
駐車場に止まっていた社用車のバンに、全員が乗り込み、顔をつきあわせている。
保が、タバコに火をつけようとして、ライターの油が切れていることに気がついた。
苛立たしげに舌打ちをして、彼は言葉を続ける。
「とりあえず、センセが無事だったのはいい。黛だって助かった。だが、この状況はなんだ?」
顎で車の外を示す保。
永崎の街並みは、既に魔界の様相を呈していた。
暗雲立ちこめる空は、カラスと大量の虫が覆い尽くし。
地面では季節外れの虫やネコが、狂ったように鳴き叫んでいる。
混み合い街を行き交うはずのひとびとは、その場に倒れ伏し、泥を吐き、凄まじい形相で身体を硬直させている。
地獄。
控えめに言っても、ここは地獄だった。
「なにが起きているか、オレが説明するよ」
「そうだぜ、そもそもあんた誰だよ? ひょっとして、奴らの」
〝奴ら〟と一括りにしかけて、しかし保も範囲が絞れなかったらしい。
「あの、
と、言うにとどめた。
彼女──虚ろな眼差しのくちさけ女は、あちこちの傷の治療をしながら、ゆるゆると首を振った。
「オレは女菟。
「するってぇと、あんたが」
「最強の霊能力者ッスか!」
ぱっと所在の表情が明るくなったが、続く希歌の言葉で困惑に変わった。
「そして、あたしを二十年前にたすけてくれた恩人、なんだけど……」
「どういうことだ、黛?」
そこで、自分たちはようやく。
ようやく、おのおのが得た情報をすりあわせることが出来た。
ことは二十年以上前から始まっていたこと。
これがナズミヅチと呼ばれる〝泥〟と〝水〟の神に起因する災厄であること。
泥と水のバランスをへたに変えると、神の祟りにあうこと。
金泥
湖上結巳が〝泥〟の巫女で、希歌が〝水〟の巫女であること──
「いいか、オレの知る限りこの世はバランスだ。天秤の両端に、神の触角である巫女が乗っている。巫女がいる限り、天秤が傾きすぎないよう神は調節を出来るが……もし、どちらかが失われれば」
制御を失った天秤は、たちまち傾き、乗せていたもの──即ち世界をこぼしてしまう。
「お前たちの周囲で起きていた、泥を吐き出す祟りは、その縮図だ。体内で泥と水のバランスが崩れ。今回は水が多くなりすぎて、泥が追い出された。泥も、水も、命にとっては必要なものだから、偏りが酷くなれば、生きているとは言えない状態になる」
「なんで、泥が追い出されたんだよ?」
保が口を挟めば、女菟は希歌をちらりと見て。
「黛希歌、彼女は封印されているが完全な〝水の巫女〟だ。一方で湖上結巳は、出来損ないだ。どちらの力関係が強いかは、一目瞭然だろう」
「……それは、ひょっとして自分たちが無事なことにも、関係あるッスか?」
所在の問いに、女菟は頷いた。
「お前たちは黛希歌と比較的長い時間を過ごした。つまり、神の触覚の傍にいた。覚え目出度ければ、優先してバランスをとるのが神というシステムだ」
「優先度の問題ッスか……」
「それで」
ここで、自分は。
橘風太は、口を挟む。
「これから、なにが起きるんですか。どうして」
結巳を殺さなければいけないのか、と。
「…………」
女菟はしばらく瞑目し、それから新しいマスクを大きな荷物から取り出し、口にはめた。
「ひとつ、黛希歌は完全な〝水の巫女〟である」
彼女が、指を立てながら続ける。
「ふたつ、湖上結巳は不完全な〝泥の巫女〟である。みっつ、神は覚え目出度き者を優先し、どんなときもバランスをとろうとする。では、橘風太。お前様に問おう」
もし。
「繊細な操作が必要な機械を触っているとき、急に眼を潰されたら、お前様はどうする?」
「どうもこうも」
パニックになって、手元が狂って。
「……そう。本来なら適量注ぎ込まれるはずの〝神の末端〟が、膨大な量溢れ出す。金泥虞泪は黛希歌の封印を解いたうえで殺し、この現象を引き起こそうとしている。平たく言えば」
彼女は、バンの天井を睨み、言った。
「空の海原を決壊させ、世界を洪水で押し流すつもりだ」
「────」
保たちが、目を見開き絶句する。
それでも女菟は、言葉を続ける。
「まず黛希歌の封印を解き〝水の聖杯〟に置換、〝泥〟に危機感を持たせる。その上で泥の巫女、湖上結巳を〝聖杯〟に覚醒させ、カウンターとして〝水〟に決断を強いる。強い〝泥〟の勢力に呼応し〝水〟は大量の神気を注ごうとする。それが現状の、空の赤い海だ。だから、この状況で黛希歌を殺せば」
バランスは崩壊し、世界に水が溢れる。
「洪水というのは文字通りでもあるし、暗喩でもあるんだ。オレの識るとおりなら、〝水〟にすべてが飲み込まれれば〝泥〟は消滅する。即ち肉体、物質文明の崩壊だ。やってくるのは、精神だけの世界。金泥虞泪は、この境地に至ることを目的としている。すくなくとも、十年前からは」
「ふ──」
保が。
吠えた。
「ふっざけんじゃねぇ! 世界中巻き込んで心中しようってのか!? 黛の命も、自分の命も、ましてこどもの命まで奪ってか!? そんなもん、マジモンの気狂いじゃねーか!」
「……金泥虞泪は度重なる呪術の行使で正気を失っているんだ。もう、人間としての判断力は期待できない」
「待って、待ってください。けれど、じゃあ」
どうして、結巳を殺すなんて話になるんだ?
「まだ結巳が〝聖杯〟として覚醒しきっていないからだ。あれにはまだ、微量の人間の心が存在している。人格が残存している」
なんだって?
「ゆえにこそ、黛希歌の力を削ぎ、その上でいま殺せば、被害は最小限ですむ。せいぜい、この街が泥に飲み込まれるだけですむだろう」
「バッ!」
手を上げかけた保を、希歌が遮る。
彼女は右手の中を確かめるようにして、ギュッと握り。神妙な面持ちで、女菟に訊ねる。
「あたしは、どうなりますか」
「……殺しはしない。けれど、オレはもう一度、お前の巫女としての力を封印し、二度と聖杯に転じないよう処置をする」
「できるんですか」
「その腕」
女菟が、希歌の真っ黒な右手を指差す。
「右腕を切り落とせば、できる。その上で、オレは湖上結巳を殺す。これで──」
乾いた音が、鳴った。
女菟が目を丸くする。
希歌が、女菟の頬を平手で打っていた。
「殺すとか、簡単に言うな」
希歌は、落ち着いた声音で告げる。
「殺したり、殺されたり、あんたらにとっては日常茶飯事かも知れないけど……あたしたち人間は、必死でいまを生きている。あたしも、カトーさんたちも、それに」
彼女がちらりと、こちらを見て、
「……結巳ちゃんも」
そう言ってくれた。
頷く。首肯する。
そうだ、その通りだ。
「女菟さん、他になにか、方法はありませんか」
「誰も死なない、御伽噺のような解決法をお望みか? はん! あったら誰も苦労しない。湖上結巳を人間に戻し、黛希歌がこれ以上死に接近せず、金泥虞泪の憎悪を一瞬でも止める、そんな魔法のような御都合主義は──」
彼女の言葉を遮るようにして。
自分は、包帯まみれの左拳を突き出した。
そして、全員の目の前で、ゆっくりと開く。
掌の上に乗っていたのは、小さなボール。
手を閉じる。
開く。
ボールが増える。
繰り返す。
ボールはまた増える。
そして、もう一度閉じて。
「約束、したんです」
開かれた手のひら。
そこには。
小さな機械が、乗っていた。
卓上プラネタリウム。
結巳と約束して、いまだ果たせない夢。
「ぼくは、彼女に、星を見せたいんだ」
生きることに、世界にすら絶望した彼女に。
それでも美しいものがあるということを。
「だから、諦めたくないんです。みんなに、笑顔になってほしいんです!」
「それは……わがままで。なにより呪いだぞ、お前様」
「だとしても、彼女を助けたい。希歌さんを、犠牲にしたくない」
「…………」
彼女は、グッと押し黙り。
そこで、希歌が顔を跳ね上げた。
「うん、言ってたよ、あの子」
「希歌さん?」
「言ってた、確かに──星を視る約束をしたって」
希歌が右手を突き出す。
その手のひらの中で、なにかがかすかに輝いている。
「……湖上結巳の、残留思念。それが人格を保っていた理由か」
女菟の言葉に、パチリとパズルのピースが嵌まった気がした。
机上の空論に、血が通う感覚。
反射的に、女菟を見れば。
「……本当に、泣く子と地頭には勝てないな、オレたちは」
彼女は、絞り出すように呻いて見せた。
そして、声を上げて笑う。
きょとんとする自分たちを置き去りにして、彼女は目に涙まで浮かべてひとしきり笑うと。
「馬鹿馬鹿しい企てだ、奇跡に縋るようなもんだ! ああ、けれど──やってみる価値はある。湖上結巳の心と願いがここにあるなら、人間側に連れ戻す手段がな!」
そう、言ってくれた。
「け、けどよぉ」
保が、当惑したように言った。
「結局、その虞泪ってやつはどこにいるんだ?」
「いや」
それについては、自分に思い当たる節がある。
いつも携帯している小説のネタ用メモ帳を取り出し、ページをめくる。
あの日、はじめて金泥家を訪ねたとき。
彼女は確かに、こう言ったのだ。
「『礎の塔で天と地は結ばれる』」
「天と地を結ぶ塔……高い建造物──あー! それって!?」
所在が、素っ頓狂な悲鳴を上げ。
そうしてノートパソコンを操作して、こちらに掲げてみせた。
そこには、永崎観光ガイドの文字とともに、ひとつの建造物が映っていた。
即ち、
「ネクスト永崎タワー!」
……かくして、自分たちは行動を開始する。
世界を救うなんて大それた話ではなく。
それぞれが大切なものを、守るために。
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