第三十三話 「それでも左手を伸ばした」

「だれもが眠る小夜中さよなかに、水面みなもで遊ぶぞたのしけれ」


 天井で凝縮した水気が、雫となって滴り落ちる。

 雫は、闇黒の水面に重たい王冠を作り、無数の波紋を広げていく。

 少女の半身は、どっぷりと泥の水面みなもに沈んでおり、清潔なはずの病衣はよどみ穢れていた。


「よどみの中をかき混ぜて、腐臭を嗅ぎ分け笑いかけ」


 うねうねと脈打つ髪の毛は、まるで意志持つ触手のようで。

 絡みつく少女の肢体も、ベッドも、ただ泥の海へと沈み。

 沼を泳ぐ蛇。

 それは彼女を助けようとしたのか、水底から手を伸ばす白衣の骸たちに、絡みつくだけ。


「濡れ髪みどりに染め上げて、あなたを求めて笑うのです──にこー、ですって笑うのです」


 笑う、少女にあるまじき蠱惑的な表情で。

 笑う、艶然えんぜん慄然りつぜんと、怖気が走るほどの快楽を与える嗜虐しぎゃくの顔で。

 嗤う。


 人というモノの度を外してしまった少女が、夢うつつに。

 自分を誘惑しようと、傾国の手弱女たおやめが三日月の笑みを浮かべる。


「ああ、おじさんも笑ってくれるんですって」


 彼女の言葉は事実だった。

 自分の口元は、先ほどよりもよほど酷く弧を描いている。

 一歩病室に踏み込んだとき、底なし沼に立ち入ったがごとき錯覚を覚え、脚は動かなくなった。

 いまではもう、ズブズブと腰までもが汚泥の中に沈んでいる。


 動けないこちらへと、少女は泥の水面を、近づいてくる。

 上気しとろけた表情のまま、そっと少女は、風太の顎をなで上げ。

 頬に手を添えた。


 ──冷たい。


 結巳の手は、氷のように冷たかった。


「おじさんとは約束しましたって。一緒の星を視るんですって。だから、おじさんは、わたしと一緒に来てくれますよね?」


 どういう意味の言葉か解らない。

 彼女の声を聞くたびに、脳みその最も深い部分がジンと痺れ、思考は霞がかかったように失われていく。

 だから理解できない。したくない。


「なので、まずは一緒になってほしいんですって。わたしとおなじ、泥の底を見てほしいので──」


 少女の手が、愛おしげに自分の顔を撫で回し。

 やがて、頭を押さえ、泥の中に沈めようとする。


 もはや手足を動かすことも億劫で。

 抵抗する気力もなく。

 底なし沼へと、この身体は堕ちていく。


 ……けれど。

 けれどこれで。

 本当に、いいのだろうか?


「いいのですよー、ぜんぶ、ぜーんぶわたしに委ねて、楽になって」


 楽に、なって。


「大切なものを、手放しちゃえばいいのです」

「──」


 ちりっ──と。

 左手を、痛みが貫いた。

 手放せばいい?

 手放すべきだ?


「いや」


 そんなことが、あるものか。

 自分にはまだ、諦められないものがある。

 やるべき事がある。

 何より、目の前に。


 ──目の前に、泣いている子どもがいて、黙っていることが出来るものか。


 急速にクリアーになる思考。

 そうだ、少女は、結巳は泣いているじゃないか。

 泥のなみだを、流しているじゃないか!


 だったら、手を伸ばす。

 届くかどうかは伸ばしたあとで考えればいい。

 いまは、この手を。


 それでも、左手を伸ばす!


「あ──」

「──っ」


 


 自分の手は、確かに少女に触れて。

 そして──


 なにかが、橘風太の記憶を粉砕した。


§§


 意識の濁流。

 攪拌される記憶。

 時系列が無秩序になった記録。


 流れ込んでくるのは、なんだ?

 結巳、彼女の記憶なのか?


『どうしてみおのように出来ない!』


 怒鳴り散らすのは影法師。

 真っ黒な影の中で、右目だけがさらに濃い黒色をしている。


『未完成品が! 澪の、お姉ちゃんのかわりにおまえが死ねばよかったのに!』


 それが怒声を上げるたびに、何かが萎縮し砕け散る。


『この身は黛希歌に被爆し、傑作たるみおを身籠もることが出来た。だというのに、澪の命を受け継いだおまえは、とんだ失敗作だ、恥を知れ!』


 影が拳を振るい、痛みを覚える。

 涙が溢れ、心が拉げる。


『だが……利用価値は、まだある。澪が人柱になったように、おまえには視えるようになってもらう。そして、あれを道連れに死ぬのだ。〝泥〟もろとも死ぬために生きろ。水の聖杯を活かすために死ね。それだけが、おまえの価値だ!』


 心のない言葉、壊れた絆の嘆き。

 少女じぶんの視界の片隅で、なにかが凝った。


 涙を流す自分に向かって、それは日に日に近づいてくる。

 近づくたびに、理解する。


 泥人形。

 子どもが戯れに作ったような出来損ないの人形。

 顔は泥を塗りつけたように荒く、眼はぎょろりと咲いて、口は赤い。

 赤い三日月。


 自分を嗤う、恐ろしい化け物。

 こんなものを、影法師を必要だというのか。


!」


 少女には大凡、光と呼べるものはなく。

 母親の元から、父親が──水祝清十郎が連れ出したときも、希望はなく。

 その魂は、どこまでも、どこまでもはてしなく。

 泥と、母親の呪詛に束縛されていた。


「だから!」


 少女は叫ぶのだ。

 怨嗟と呼ぶには、あまりにも悲しい願いを。


「わたしのかわりに、世界が死んでしまえばいいのにって!」


 場面が


 少女の視界ではない。

 歪んだ視界、霞んだ視野。涙に濡れた光景。

 しゃくり上げながら誰かが、必死に手を合わせて祈っている。


 神という概念を、それは理解していなかった。

 仏も、天使も、或いは対価を払えば望み叶える悪魔さえよくは知らなかった。

 それでも、一心不乱に祈る。


「お願いです」


 涙に溺れた声で。

 悲嘆に暮れ、なおも意地を通すように噛み締めた声音で。

 泣きじゃくりながら〝少年〟は縋った。


「希歌さんを、たすけてください……ッ!」


 記憶の配線が繋がる、少年と少女が重なる。

 涙を流す彼女たちはまったく違うベクトルで、けれど同じぐらい必死に願った。

 ──救いを求めた。


「たすけて、ください!」

「死ねばいいのにって!」


 ……ああ。

 本当に、苦しんできたんだね。

 つらかったんだね。

 自分にはわかってあげることはできないけれど、それでも知ることが出来たから。


「──だから、だいじょうぶだ。ぼくは道化師──〝そよかぜおじさん〟。きっと君を、笑顔にしてみせる!」


 いま、手を伸ばす。


§§


「──ぷはっ!?」


 水面を突き破った瞬間、肺腑が勝手に呼吸をした。

 貪るように死臭の混じる酸素を取り込み、盛大にむせる。


「大丈夫か?」


 声をかけられ、そこで初めて、自分の手を誰かが握って沼から引きずり上げてくれたのだと理解する。


 黒子。

 黒子だった。

 なぜだか全身がボロボロの、至る所から出血している黒子が、自分のことを助けてくれていたのだ。


「ど、どなたですかー!? あなたってー!」


 場所は病室から変わっておらず、少女はかんしゃくを起こしたように叫ぶ。


「誰か、だと? お前、オレが誰かと訊いたのか?」


 風太を助け上げた黒子は、不敵な口調で応じると。

 千切れ掛けの垂れ布を、勢いよく剥ぎ取った。


「……ひっ!?」


 短い悲鳴を上げる結巳。

 同時に、周囲に存在した泥が、さざ波のように後退する。

 ……まるで、〝それ〟を恐れたかのように。


「オレは女菟めう


 腕を組み、仁王立ちするのは大柄な女性だった。

 炎のような長い髪を翻し、前髪の一房だけを赤く燃やして、焔のような瞳でもって相手を睨み付ける絶世の美女。

 虚無のような眼差しは、しかし矛盾するような意志の力に充ち。

 けれど、その口元が。


 ──酷い傷が、耳までも裂けていて。


朽酒くちさけ女菟。かむさびた恩讐の彼方より、お前たちに昏き死を馳走しにまいった──恐怖殺しホラーハンターだ」


 黒子──否。

 女菟が拳を振り上げ、泥の水面へと向けて、思いっきり叩きつける。


「対シン概念法ひふみ秀真ほつま──〝ぜつ〟!」


 凄まじいまでの一打。

 鼓膜が破れるような爆縮の衝撃波。

 ただそれをもって、彼女は奇跡を成し遂げる。


 目を疑うような光景が、広がった。


「うそ……」


 結巳もまた、呆気にとられたように言葉を失う。

 泥が。

 部屋を、病院を、周囲一帯を覆い尽くしていた泥が。


 すべて、消し飛んでいたのだから。


「ふん」


 わずかに残った野霊や蛇が、彼女に纏わり付こうとするが、触れる寸前で弾けて消える。

 ただ……女菟もまた無傷ではない。

 全身の裂傷は、明らかに先ほどより悪化し、いまも赤い血をポタポタとこぼしている。


 口元の傷も開いているのか、歯は真っ赤に染まっており、なんとも血なまぐさい。

 けれど、彼女は不撓ふとうだった。


 不撓不屈を体現する絶対だった。


 一歩、彼女が結巳へと迫る。

 なにが起きたのか、それだけで少女はめまいを起こしたようで、その場に崩れ落ちる。

 さらに一歩、女菟が結巳へと手を伸ばし、すべてが解決するかに思えたとき──


「嗤うなぁあああああああああああああああああ!!!」


 聞き覚えのある声が、乱入した。


§§


 黒子。

 黒子だった。

 女菟とは違うもうひとりの黒子が、猿のような叫び声を上げながら現れ、風太たちを突き飛ばす。


 反射的に掴まえようとするが、そのときには黒子の手の中で、凶刃がギラリと瞬いた。

 音を立てて奮われるのは、包丁。


 女菟が自分の首根っこを掴み、冷静に後方へと跳躍する。

 けれど、これじゃあ結巳が。


「道化師……! やはり、やはりおまえの所為かぁッ!」


 絶叫しながら、黒子は結巳を抱え上げる。


「〝しっ〟!」


 女菟が、どこからか取り出した紐付きのくない──符の刺さった縄鏢じょうひょうを黒子へと投げつけるが、寸前で躱される。

 けれどそれで、黒子の顔を隠す布が、切り裂かれた。


 下から現れた顔は、あまりに見覚えがあるものだった。

 かつて、希歌との取材で出会った人物。

 すべての始まりとなった施設に立ち寄る前、襲いかかってきた中年女性。

 右目だけが闇黒の女──


金泥かなさこ虞泪ぐるい! 二十年前の敗残者! まだこの世に迷い出るつもりか!」

「我らが怨敵め、古ぶるしきシステムめ! 控えろ! 聖杯は今度こそ目覚め、世界を押し流す! 結巳は正しき場所で使い潰す! 〝これ〟には苦痛と涙こそが相応しい!」


 クワッと歯を剥き、凶悪な面相で笑った虞泪は。

 結巳を抱え上げると、脱兎のごとくきびすを返した。


 そして。

 病室の窓を開けると、そのまま。


「使命を果たせぇええええええ!!」


 外へと、飛び降りた。


「結巳ちゃん!」


 慌てて窓に駆け寄るが、想像していたような凄惨な光景はどこにもない。

 結巳も、虞泪も、影も形もなく、消滅していた。

 何か急に力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。


「……お前様」


 呼ばれて緩慢に振りかえると、口の裂けた女性。

 女菟が、厳しい表情で、うなり声を上げた。


「水の聖杯の、〝封印〟が解けかけている」


 え?


「このままでは巫女の──黛希歌の命が危険だと、言ってるんだよ」


 懐のスマホが。

 一体いつぶりになるのか、メールの着信を告げた。

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