第二章 魔界病棟
第三十二話 「対シン概念法ひふみ秀真」
私立
その入り口が。
雄弁にこの先は魔界であると、物語っていた。
陽光は翳り、空は暗雲に曇る。
病院の近くにはまったく人通りがなく、そもここに至るまで誰の車とも遭遇していない。
代わりに、やけにたくさんの烏が、夕方でもないというのに空を舞っている。
入り口から漂ってくるのは、海水の淀んだところと同じ、水の腐った臭い。
自動ドアがぴったりと閉じているというのに、臭気はここまで届くのだ。
「……行きます」
同伴してくれた黒子に、一言声をかけ、自分は自動ドアへと手を伸ばす。
感圧板に触れ、強く押し込むが、なにも起きない。
さらに数度押してみるけれど、反応がない。どうやら、機能していないようだった。
迷っている時間はなかった。
ドアに組み付き、思いっきり左右に引っ張る。
ギリッ。
っと、音を立てて、左右に硝子製のドアが開いていく。
酷い臭いが、鼻を突いた。
腐臭。
いや、もっといえば、これは──
「死臭か」
黒子が、言いにくいことをはっきりと口にする。
ふたりで連れ立って、ドアを潜れば、見覚えのあるエントランスが広がる。
……けれど、ここにすらだれもいない。
今日は休診日でなく、診察時間外でもないというのに。
「戻れッ」
さらに一歩踏み込もうとしたところで、首根っこを掴まれ背後に投げ飛ばされた。
たたらを踏んで、何事かと抗議をしようとして、言葉を失う。
『チ──チチチチチチ……チッ──』
『シュゥゥ──シュゥウゥゥウゥゥ』
いったいどこから湧いて出たというのだろう?
無数の泥にまみれた蛇たちが、波打ち際に押し寄せる潮のように、絨毯の上一面を覆っていたのである。
いや、絨毯の上だけではない。
ソファ、電灯、壁、天井、あらゆる場所から這いずり出てくる細長きものたち。
白、黒、茶色の蛇の波。
そのところどこに、チロチロと燃える炎が──赤い舌が窺える。
中には明らかに蛇ではない、丸々と太った何か、大腿部のような太さの目も鼻もない巨大な口だけの異形ものたうっている。
なんだ、これは。
「ひとつひとつが
「で──ですが! ぼくらは!」
「解っているさ」
黒子は、やはり聞き取りにくい声で、了解を示した。
「オレも、お前様も、この病院にいるものたちを助けるために、ここにいる。だからこそ、役割分担だ」
言うなり、彼女はゆっくりと拳を握り。
そして、大喝とともに脚を振り下ろした。
「〝
床が砕け散るのではないかというほどの大音声とともに行われた渾身の踏み込みは、奇跡のような現象を容易く実現させる。
宙に舞い、吹き飛んでいく無数の蛇。
モーセの十戒のごとく、黒子のなんらかの武術がもたらした衝撃波は、蛇の海を真っ直ぐに切り裂いたのである。
武術。
そう、これは武術だ。
多くの創作で見覚えがある、いわゆる──
「寄らば、弾き。触れれば、弾けろ」
黒子の振るまいが蛇たちを激怒させたのか。
吹き飛ばなかった蛇たちが、一斉に黒子へと飛びかかる。
けれど、それすらも想定内とばかりに、黒子の右手が水平に振られる。
空間を横切るのは赤い糸。
糸は無数の
読み取れない紋様が、二つずつ書かれた護符の障壁。
これに触れた刹那、すべての蛇が飛沫となって砕け散った。
「対シン概念法ひふみ
「え?」
「道が出来たんだ。助けたい者がいるんだろ? だったらここは、オレが引き受ける。この病院では、〝水〟と〝泥〟の因果が渦巻いている。どちらかがどちらかに当たるしかない。そして……オレは〝死〟の専門家だ。だから、征け」
「…………」
「生きている人間を助けてこいと言った!」
「──はいっ!」
自分はつんのめるようにしてスタートを切り、エントランスを一気に走り抜ける。
背後ではまた、地震のような踏み込み音が鳴る。
「……川屋先生! 結巳ちゃん!」
自分は。
ただ一心不乱に、彼女たちのもとへと走った。
§§
橘風太には、緊張すると口元が吊り上がるクセがある。
小児病棟に踏み込んだ瞬間、背筋が粟立つのを感じて、気がつけば口元は弧を描いていた。
たくさんのこどもたちが、倒れていた。
「きみ! ……っ!?」
思わず一番近くの子に駆け寄り、抱き起こして、絶句する。
少年は全身を硬直させており、恐怖に見開かれた目と口からはドロドロと、
「まさか……」
見やれば、全員がそうだった。
この場に倒れる少年少女、そのすべてが、全身から泥を垂れ流し、うめき声をあげているのだ。
同じだった、あのときの結巳と。
同じだった、これまでに視てきたものと。
口元の笑みが、深くなる。
狂気に脳髄が蝕まれそうになる。
どうすれば。どうすれば──
「だ、だれ……か……」
おかしくなりそうになった自分を正気に戻したのは、明瞭とは言い難い、けれど確かに助けを求める声だった。
ハッと顔を上げ、声の聞こえてきた方へと駆け出す。
廊下を曲がったところ、見覚えのある個室のすぐ前に。
老人が、倒れ伏していた。
「理事長先生!」
「う、うう……きみは、橘……」
「橘風太です。何があったんですかっ?」
助け起こしながら──よかった、彼は泥を吐き出してはいない──事情を聞けば、水祝清十郎は突然逼迫した様子で、自分にすがりついてきた。
「そ、そうだ、儂のことはどうでもいい! 娘を──儂の残された娘を助けてくれ!」
娘?
「亡くなられたという……」
「確かに儂はあの子を、
それは。
「離婚した妻との末子! 旧姓は金泥──いまの名前は湖上──」
彼は。
血を吐くような声で、言った。
「湖上結巳を、助けてくれっ」
叫びとともに指差されたのは、結巳が眠っているはずの、病室で。
自分は、彼をゆっくり横たえると。
そっと、扉に手をかける。
音が鳴るほどに、固唾を飲み込んで。
一息に。
扉を、開けた。
「……うふふふ。いらっしゃい〝そよかぜおじさん〟? 来てくれると、信じていましたってー」
そこには。
そこには──
滴る汚泥の海のなかで。
無数の蛇と戯れる、狂気の笑みを宿した少女の姿があった。
「さあ、いっしょに星を視ましょうって!」
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