第三十一話 「結局は走るしかない!」
「泥水霊教会は、相当に根深く巨大な組織で、世界中のあらゆる場所に構成員を潜り込ませている。たとえば僕がお世話になっている出版社、たとえば国会議員、たとえば大きな商社、たとえば医療機関、そしてたとえば……加藤保のプロダクションにもいただろうね」
だとすれば。
すべては、筋書き通りだったと言うことだろうか。
その、金泥虞泪という人物の。
「おおむねはそうだ。黛希歌という封印された水の聖杯を無理矢理に起動させ、もうひとつの聖杯──〝泥の聖杯〟と交合させることで彼らの願いを成就する。世界を洗濯する。その通りに、今のところ事態は動いている」
聖杯を起動させる、とは。
「聖杯同士の照応と共鳴を利用して、片方を覚醒させることで、もう片方の位階も引っ張り上げる。聖杯であり巫女であるものが死んだとき、バランスが崩れ大災害が起きるのは、キミも目にしただろう?」
それが、世界の洗濯。
しかし、どうやって巫女を目覚めさせるというのだろう。
「これについては、キミたちの目があまりに節穴だった、としか言いようがない。控えめに言って、眼窩が空っぽだったのでは?」
「どういう意味ですか?」
「泥の色を、キミは見たね。何色だった?」
それは、黒だ。
この世の終わりのような、闇黒。
「……ふむ。その時点であれだが、まあいい。では、水は何色だい」
「透明、水色、そういう色です」
「うーん、これは思ったより根が深いぞぉ。思い込みというか、信じたものを疑わないことは美徳ではあるけど、度が過ぎれば毒にもなる。最近の子は、コギト・エルゴ・スムも知らないのかと疑いたくもなる」
「どういう意味ですか?」
「……はっきり言っておこう」
彼が。
花屋敷統司郎が、侮蔑にも似た表情で、告げた。
「泥が黒いものだなんて、誰が決めたんだい?」
§§
なん、だって?
それは、どういう意味だろうか。
泥は、泥じゃないのか。
……違う。
違う、違う、違う。
知っている、自分は見たことがある。
どこかで、なにかを。
「──そうだ」
あの宗教施設で、自分は見た。黒い泥が、虹色に変わる刹那を──!
「まさか……」
「そのまさかだとも。泥は自在に色を変えられる。たとえば、キミがさっき飲もうとしたペットボトルの水の色にもね」
「……っ」
言われて、ペットボトルに視線を向ければ、心なし水がどろりとしたように見えた。
背筋を、慄然とした恐怖がよぎる。
連鎖的な気づき。
もし、もしも。
これまで自分たちが口にしてきたものすべてに、泥が含まれていたのだとしたら……?
「うんうん。水は人間の知るもっともありふれた物体であり、生物の七割、地球表面の七十パーセントを覆うものだ。同時に数多の物質を溶かす溶媒でもあり、生命の維持には必須のもの。それが得体の知れないものだと話されれば、ゾッとするのも理解できる」
「…………」
「この世の命は先に言ったとおり、すべてが泥と水の化合物だ。では、もし意図的に、この比重を変化させる液体をばらまくことが出来たとしたら……どうなると思う?」
「経口補水液……」
「うん?」
「水祝病院で利用されている、経口補水液!」
「ビンゴ。あれも、金泥虞泪の息がかかった医療会社が作ったものさ。なんのためにかって? 当然、湖上結巳の体内比重を変えて、彼女を泥の巫女として覚醒させるためだ。そうして、同じ事を黛希歌にもやろうとした。あの、宗教施設でだ」
それじゃあつまり。
自分たちは巻き込まれただけで。
狙われているのは、どこまでも希歌で。
「そうだ。泥水霊教会はふたつの聖杯を同期させて、願いを叶えたいのさ。なにせナズミヅチは、正真正銘の神様だからね。不可能なんてない」
深く、統司郎は首肯する。
それから、ゆっくりと首を振った。
「けれど、予想外のことも起きている。そうキミだ、終日日向──いや、橘風太」
自分が……?
「キミにはこれまで各地を廻らせ、その地に眠る神性たちと出遭わせてきた。もちろん、終われば記憶を消してだ」
「なんですって?」
「僕はなにも言っていない。安心してほしい。いまだにキミはただの人間だ。幸か不幸か、人間のままだ。神性に対する耐性を身につけても、どうしようもないほどに人間を逸脱できなかった。いまだって喉の渇きに敗北しそうになっているのを、わざわざハーブティーで宥めている。けれど、一点だけ」
前後の会話が思い出せない。
けれど統司郎は、自分を見つめ、真剣な表情で問う。
「その左手、見せて貰ってもいいかな?」
彼は、こちらの左手を指差した。
包帯が乱雑に巻かれた、左の手のひらを。
少しだけ考えて、自分は首を振った。
「イヤです」
「うーん、この空気を読まない否定っぷり。いっそ清々しい」
イヤなことを否と言えと教えてくれたのは、統司郎だろうに。
「そういえばそういうことになっていたっけ。でも、見せてくれないと困るんだ。お願いできないかな?」
そこまで言われて、固辞することは出来なかった。
何より、自分でも気になって仕方がなかったのだから。
「よしよし」
了承を得ると、彼は嬉々として包帯をほどき、やがて感嘆の声を上げた。
「おぉ、やはり……!」
左の手の甲。
その中心で、真珠色のなにかが脈を打っている。
禁后小鳥に突き刺された部分は、すっかり傷も塞がり、しかし代わりに、この奇妙な腫瘍を発生させた。
常に針で刺されるような痛みが継続しており、次第に痛みの範疇は、手の甲全体へと広がりつつある。
「これはね、橘クン。〝
「ヴルトゥームの種子……やはり、禁后が隠し持っていたか」
突然、黒子が口を開いた。
くぐもった聞き取りづらい声ではあったけれど、確固とした意志がそこには宿っている。
垂れ布の奥からでも透けて見えるような鋭利な視線で、黒子は統司郎を睨み付ける。
「答えろ、色彩の傀儡。おまえはこの子に、なにをさせるつもりだ」
「急に雄弁になるじゃないか、黒子クン。しかし、僕が彼にやらせたいことなど、あるわけもない。強いて言うのなら」
統司郎がこちらを見て、かすかに笑う。
「彼にできる限りの協力をして、懸命に生きて貰いたいだけさ」
「触るなッ」
大喝。
同時に、自分の身体が急速に背後に引き戻される。
統司郎が〝種〟と呼ぶ腫瘍に触れようとして、黒子が自分を、無理矢理背後に引っ張ったのだと理解したのは、数秒あとのことだった。
その間に、黒子は拳法のような構えをとり、こちらと統司郎の間に割り込んでいた。
「これ以上、妖しい仕掛けはさせないぜ。絶対にだ」
「……僕にするつもりはないよ、興ざめだからね」
「もう一つ。こちらの問いに答えろよ、傀儡」
「なんなりと」
ひらひらと手を振り、気もなさげに統司郎は応答する。
「なにを企んでいる?」
「……知れたことだろ?」
彼は。
急に何十歳も年老いたような表情になって、嗤った。
「すべては
「…………」
黒子が。
統司郎が。
その緊張を、ピークまで高めようとした。
そのときだった。
「──!?」
突如入り口の扉が破壊され。
無数の白蝶が、室内に飛び込んできた。
「こ、これは」
「いや──落ち着くといい、橘クン。そして黒子クンも拳を収めたまえ。これは。いや、〝彼〟は──」
白い蝶々に見えたもの。
それは、無数の人型の紙切れだった。
天井近くでぐるぐると渦を巻いた紙切れは、脈絡もなく巨大な顔へと変わる。
その顔に見覚えがあった。
雪鎮──
「────!」
彼は声もなく叫ぶと、ぼくらに覆い被さり、そしてはじけ飛ぶ。
その刹那、脳裏に無数の映像が映った。
川屋華子。
異形と化したTAKASHI。
そして──病院。
「花屋敷先生!」
「だから呼び捨てでいいと言っているのに……ええい、行きたまえ! これはキミたちが片付けるべき問題だ! すぐに向かうといい!」
視線を向ければ、黒子もまた頷き、荷物をまとめる。
自分たちは何故か悟っていた。
華子の入院していた病院が。
水祝記念病院が、怪異に襲われたことを。
「結巳ちゃんが、危ない!」
だから、急ぐ。
駆け出す自分の背中に。
「終日日向先生! 二つだけ教示してあげよう! ひとつ、絵本の最後を思い出せ。ふたつ──これは、物書きとして最も大切なことだ」
統司郎が。
やけに優しい声を、一度だけこちらへ投げた。
「〝与える〟ことだ。キミはいつだって誰かの笑顔を願っている。そいつは、本当に希少な、なによりも尊い姿勢なんだぜ? それをどうか、忘れないでくれよな」
自分は。
振り返って一礼し、すぐにまた、走り出した。
§§
橘風太が去ったあとの部屋で。
花屋敷統司郎は、絵本を見つめる。
そこに描かれているのは、神話の光景。
命が成立するまでの創世記。
その、最後のページには。
「死ねなくなった姫君に添えられる、一輪の花、か」
海底に根を張り、ソラまで伸びて咲く花が描かれており。
パタンと本を閉じた彼は、椅子から立ち上がると、サングラスを外した。
「橘クン、どうか上手く──ステージを盛り上げてくれよ……?」
サングラスを外した彼の瞳は。
血の色よりもなお深い、怖気の走る赤だった。
「は、はは、はははは、ははははははは!」
走り去る風太たちへ、統司郎の哄笑が降り注ぐ。
「さてはご観覧の皆様方、道化の物語は、これよりクライマックスを迎えます。果たして風の道化師は、大切な姫君を守れますでしょうか……そもそも、姫君とは誰なのか? どうぞ最後まで、お楽しみください」
だれもいない虚空に向かって、彼は笑いかけ、お辞儀をする。
そうして、ふと顔を上げると。
じつに愉しそうに笑い、こう続けた。
「──おっと、訂正訂正。彼の地獄は、まだまだ続くようだ。まったく、じつに愉快きわまりないじゃないか?」
赤い、奇妙な色彩の瞳には。
いまにも蛇の海に溺れんとする、黛希歌の姿が、映っているのだった……。
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