幕間劇 黛希歌の二律背反

第閑話 「過去よりの悪夢」

 雨が降っている。

 大粒の雨。

 ざぁざぁと、窓の外の景色を水滴が叩く。

 アスファルトの上を、雨粒が跳ねていく。


 黛希歌が、箱屋敷から帰還して三日が経とうとしていた──



 禁后小鳥が箱の中に吸い込まれてから起きたいくつかの出来事について、意識のなかった希歌は、あとから伝聞という形で知ることになった。


 大きく、二つのことが起きていた。

 一つは、小鳥刀自が落命したこと。

 そしてもう一つは──


「風太くん……」


 橘風太が、彼女の前から姿を消したことだ。


 何があったのかは判然としない。

 希歌が聞いた限りでは、黒子からなにかを耳打ちされると、風太は見たこともないほど険しい表情を浮かべ。

 そしてそのまま、黒子を連れて旅立ってしまったのだという。


 いまもって、彼とは連絡がつかない。

 スマホは常に圏外を示しているし、メールやグループチャットへの返信すらない。


「既読スルーぐらいしなさいっての……まったく、どこいっちゃったのかなぁ……風太くん……」


 自分らしくもなく、くよくよと呟く。

 希歌は、オカルトユアチューバーとして、これまでずいぶんな経験を積んできた。

 幼少期の悪夢を乗り越え、怪異なんて恐くないと笑い飛ばすために、必死で撮影に臨んできた。


 あるときは山奥で天狗を探し、あるときは河に潜って人面魚と格闘した。

 番町皿屋敷の〝しんじつ〟を確かめると言い出した保に従って、勝手に某神社の本殿に忍び込んだり、幽霊が出ると聞けば地方の廃墟まですっ飛んでいったりもした。

 ……人面犬という名の、ただの迷い犬探しもした。


 そこで、確かに希歌は不思議なものを目にしてきた。

 この世の中には人間の叡智が及びもしない存在がいると、確信した。

 希歌にとって、それは事実であった。


 けれど、橘風太にとっては違う。

 彼は生粋の一般人だ。

 小説家だし、道化師だし、しまりのない顔をしたおひとよしだけれど。

 だからこそ、怪異や恐怖などとは縁遠いはずの存在だ。


「だから」


 この心配は当然のことなのだ。

 直前の様子もおかしたかったし、幼馴染みの身を案じることは、なにも間違っていない。


「──はず。だけど」


 残された黒子から、風太がなにを伝え聞いたのか、希歌も知らされていた。

 いや、他のメンツは知らない。希歌だけが聞かされたのだ。

 それは、小鳥刀自からの言伝。あるいは、遺言。

 黒子はこう言った、


「『黛希歌は諸悪の権現だ。川屋華子の目覚め待って、協力して始末しろ』」


 酷くしゃがれた声で。やけに乾いた声で。

 確かに、そう言ったのだ。


 聞いたときは、慌てて周囲を見渡した。保たちに、この話を聞かれなかったかとやきもきした。

 黒子にどういう意味かと訊ね返しもしたが、無言を貫かれた。


 もちろん希歌自身は、自分が怪異の元凶だとは思っていない。

 それでも、この伝言が本当なら──納得もいく。


 保は希歌に言ったのだ。

 風太は、まるで悲壮な覚悟を決めたような顔つきで、屋敷を出て行ったのだと。


「あたしの、所為……あたしが、恐くなって……?」


 橘風太に、そんな表情は似合わないと、希歌は心底から思う。

 だからこそ、怖ろしくなって心が曇る。

 おのれが諸悪の権現だと言われたことよりも、風太が傍にいないことにおののいて。


 窓の外、物憂げな視線を送れば。

 天を衝く不夜の摩天楼だけが、不気味にそびえ立っている。

 ネクスト永崎タワー。完成間近の、巨大建造物。


 水没する永崎の街並みを眺めながら、希歌は考える。


 もし。

 もしも黒子が口にした通り、希歌自身がこの事件の元凶だったとしよう。

 風太がそれを知ったなら、確かに怖がって逃げ出すかもしれない。

 或いは殺そうと、準備を始めるかも知れない。


 そんな人間ではないと知っているが、自分の認識が絶対でないことも理解している。

 連絡がつかないのも、希歌を拒絶しているからかもしれない。


「だとしたら……願ったり叶ったりじゃない」


 ごろりとベッドの上で寝返りを打ち、抱き枕に顔を埋めながら、希歌は呟いた。

 なぜって、ずっと自分は負い目を感じて生きてきたのだから。


 いまの彼からは信じられないことかも知れないが、幼い風太を、希歌はたくさん泣かせてきた。

 無茶なあそびに付き合わせて、怪我だってさせた。

 けれどいつからだろう。

 いつからか、彼はまったく泣かなくなった。


「ムカつくことに、あたしを守ってるみたいに。やだよ、そんなの」


 ……そういえば、いつから彼は、あんなにもはっきり物事を否定するようになったのだったか?

 以前は自分の後ろに、付いてきてばっかりだったのに。


「それこそいまじゃ、否じゃない」


 幼少期、奇病に冒されて生死の境をさまよって以来、希歌は風太に借りを作り続けてきたと考えている。

 治療のための金銭を、彼女の両親は風太の家から借りた。

 病気で寝込んでいる間、風太はつきっきりで看病をしてくれた。

 身体が治ってからも、彼は過保護なぐらい自分につきまとった。

 彼からは、たくさんの元気と勇気を借りた。


 なのに、自分はみそっかすな弱虫のままで。

 こんなにも、心が弱くて。

 だから、そんな惨めな自分と決別するために、


「あたしは、女優になろうと思ったんだ」


 弱々しいおのれに仮面を着せて。

 全くの別人として、強く振る舞うために。

 守られるだけの弱さと永訣するために、女優を目指して、今日まで頑張ってきた。


「だったら、いいじゃない」


 願っていたのは、風太に依存しない人生だ。

 いつも自分につきまとって、ヘラヘラ笑っているあの男との離別だ。

 だから、これでいいんだ。


 これで──


「さびしいよ、風太くん」


 口をついたのは、嘘偽らざる本音だった。

 自分が怪異の元凶だと名指しされ、そんな状態で一人っきりになっては、不安が加速しない方がどうかしている。

 おまけに、人間が何人も死んでいるのだ。


 助けて──と、唇が動きかけたとき。

 右手に、ひどい熱感が走った。


「痛っ」


 右手の甲を、ぐるぐる巻きにした包帯に、薄く血が滲んでいた。

 山でついた傷。

 箱屋敷で悪化した傷。

 それはいま、悔恨とともに疼きを増して。


 はらりとほどけ落ちる包帯。

 赤に染まる包帯の下から現れたのは、奇妙な傷痕だった。


 無数の蛇が絡まり合うような、奇っ怪で醜悪な交配の儀式。

 そんな光景を思わせる、いびつな傷痕。


「…………っ」


 ギュッと、右手を握りしめ、精神の苦痛に耐える。


『────』


 そのとき、どこからか声が聞こえたような気がした。

 誰かが、自分の名前を呼んだような感覚があったのだ。


 誰かの──親友の姿を探すように、不意に窓の外を覗いて。

 希歌は、息を呑んだ。


 大粒の雨が降りしきる中に、真っ黒い影がひとつ、突っ立っている。

 道化のように、ゆらりゆらりと左右に揺れる影法師。


「風太くんっ」


 なぜだかそれが、自分には幼馴染みの姿に見えたのだ。

 反射的にベッドを蹴りつけ、傘も差さずに外へと飛び出した。


 つんのめって転びそうになりながら、それでも家の前へと走り出る。

 いない。

 影はどこにもいない。


 走る。

 走る。


 彼の姿を探して、どこまでも。


 ──いた。


 黒い影が、揺れている。

 傘も差さずに、大きな帽子を被って、道化師が雨と踊っている。


「風太くん? 風太くんなんでしょ!? 戻ってきてくれたんだ!」


 必死にそう叫べば、ピタリと影は動くのをやめた。

 希歌が、一歩、影へと近づく。

 もう一歩、さらに一歩。


 消えた。

 影が、煙のようにかき消えた。


 背後で、誰かが自分の名前を呼んだ。

 振りかえると──


「本当に、久しいな、ミヅチの巫女よ」


 くぐもった声。

 ぎょろりとした双眸。

 ニィッと──〝それ〟の口が、耳まで切れ上がった。


 真っ赤な〝口裂け女〟が、立っていた。


§§


「──っ」


 ベッドから跳ね起きる。

 肢体がじっとりと、寝汗をかいていて、まるで雨に打たれたあとのように濡れていた。


「……夢?」


 自問自答するが、ここにはそれが悪夢だと肯定してくれる人物はいない。

 そもそも、どこからどこまでが夢だったのか解らない。


 夢、幻、悪夢。


 こんなやりとりを、ほんの一月前までは普通にしていたことを思い出して、泣きそうになる。

 遠い、あまりに日常が遠い。


「う、っ、く」


 涙をにじませる自分に、希歌は無性に腹が立った。

 嗚咽をかみ殺し、右手の傷をギュッと握りしめて、思いっきり床を踏みしめる。


「負けるか……負けてやるもんか……っ!」


 仁王立ちになって、言い聞かせるように繰り返す。

 妄念を振り払うように頭を振り、そのまま浴室へと向かった。


 浴槽をお湯で満たして、頭の先までどっぷりと沈めば、熱さが煩わしいことをすべてを融かしてくれるような気がした。


「しっかりするのだ、黛希歌! おまえはプロの女優なのだから!」


 自分を檄するように、水の中へ覚悟を吐き出せば。

 すべては泡となって、水面へと上っていく。


 もう大丈夫だと。

 まだ自分は立ち上がれると。

 水面を突き破って、頭を出す。


 そうして、希歌は硬直した。

 右手の傷跡。

 そこから、黒い泥が滴って。


 水が。

 浴槽のお湯が。

 そのすべてが。


 ──毒々しい虹色へと、変わっていたのだから。


 彼女の長く、甲高い絶叫が、アパート中に響く。

 それは終わらない悪夢の。


 惨憺さんたんたる日々の開幕を告げる、アラームのようであった。


§§


 この翌日。

 希歌は、川屋華子が目を覚ましたことを、加藤保から伝えられる──

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