第二十四話 「蛟霊~MIZUCHI~」
「
老婆の朗詠が、半ばほどを過ぎたあたりだった。
まずはじめに起きた異変は、水槽に生じた〝曇り〟だった。
「おい、これ……なんか濁ってねぇか?」
「濁ってるッス……濁ってるッスよ、保さん!?」
先ほどまで不純物など見えなかった水に、ぼろぼろと、なにか朧のようなものが混じり始める。
「ぴ、ピリッとしない? この水……?」
「手ば抜かんとよ!」
希歌が怯えたように手を水から揚げようとすると、老婆の一喝が飛んだ。
箱に向き合って一心不乱に手を合わせながら、小鳥刀自はこちらをたしなめる。
「手ば出したが最後、持ってかれるけんね」
「も、持っていかれるって、どういう意味ッスか……?」
「そんままの意味じゃ、ぼけ!」
口汚く所在を罵りながら、老婆は祈りに力を込めた。
けれど、怪奇現象は続く。
「……希歌さん? どうしたの、希歌さんっ?」
「…………」
隣に座っていた幼馴染みの身体が、前後に揺れ動きはじめたのだ。
その目はうつろで、視点が定まらない。
口は半開きになり、形をなさないうめき声と、銀色をした唾液がとろとろとこぼれ落ち始める。
「あぁ……うぅぅ……」
「希歌さん!」
「黛ぃ! しっかりしろ!」
乾いた音が鳴る。保が、希歌の頬を張ったのだ。
だというのに、彼女はなんのリアクションも起こさない。
「そがんことばしても無駄やけん。一種のトランス状態ちゅうもんになっちょるが」
「トランス状態!?」
「知ってるッス! 巫女やシャーマンが予言とかをするときに、薬物を摂取したような状態になる、いわゆる
バカ、そんなことは俺だって知っていると保は所在の頭をはたくが、風太にしてみれば初めて聞く言葉だった。
「けれど」
これは、初めて見る光景ではない。
どこか、記憶の片隅。
遙か昔に、風太は類似した光景を眼にしていた。
……多すぎる。
なにもかもが、既視感に満ちている。
なんだ? これは一体何だ? どうして識っているなどと思う?
必死に思い出そうと努めている間にも。
状況はさらなる悪化の一途をたどる。
希歌の全身の揺れが激しくなり、水槽の水面がバシャリバシャリと波を打つ。
次の瞬間、彼女の身体が、背後に大きく倒れ──
「黒子!」
「耐えきれなかったか。是非もない!」
影から飛び出した覆面の黒子が、素早く希歌の身体を支えた。
「があああああああああ!!!」
前屈の体勢で組み敷かれた希歌が、叫び声を上げながら右手を跳ね上げようとする。
寸前、皺まみれの腕が、その動きを押さえ込んだ。
小鳥刀自の両手が、希歌の右腕をひっつかみ、水槽へと押し戻したのだ。
二人がかりの拘束を、希歌は撥ね除けようと叫ぶ。
「ぐぅううううううっ、がっ、ばあああああああああ!!」
うなり、暴れ、別人のように表情を豹変させる希歌。
その耳元で、老婆が怒鳴る。
「名乗れぇ! きさまは何者だ!」
「ぎ、ぎぎぎぎ」
「苦しかねぇ? 苦しかろうねぇ! ミネラルウォーターとは
「──ぃ」
暴れる希歌。波打つ水面と、飛散する真水。けれどそれは、いまやどす黒く変色し。
十数分にも続く格闘の末に。
突如、希歌の顔つきが変わる。
にぃ──と。
獣のような凶相だったそこに、壮麗な笑みが浮かび上がったのだ。
そして眼球が、白目まですべて──真っ黒に染まる。
「みぃ──ず──ち──」
名乗った。〝それ〟は確かに名乗った。
みずち──と。
§§
「ばあさん! なんなんだ、みずちって!?」
保の疑問に、刀自は額に玉の汗をかきながら答える。
「やはり、ミヅチ……いや、みずちか!
「────」
希歌。
いや、みずちは答えない。
代わりに、ニタァと蛇のように笑う。
「だんまりなら、そいでんよか! みずちと解れば、戦い方はいくらでんあっけんねぇ!」
正体が判明したからだろう、小鳥刀自が強気に攻める。
黒子を下がらせ、果敢にもその矮躯でみずちを押さえ込み、耳元で直接呪文を唱えながら、殴りつけるような口調で〝要求〟を突きつける。
「御主はまっこと蛟霊ならば! この娘っこば、箱の中に引きずり込むことができるはずじゃ! やってみせい!」
「なに言ってるんですか、小鳥刀自!?」
希歌を箱の中に引きずり込めだって!?
「正気じゃない!」
「だまらっしゃい! 手段は、こいしかなかと!」
ぴしゃりと、彼女はこちらの言葉を遮り、再度みずちに勧告する。
「ぐ、うぅううううう」
……驚いたことに、小鳥刀自の言葉は効果覿面だった。
あれほど余裕と美しさに満ちあふれていたみずちの顔が、いまや苦悶に歪んでいる。
口元から零れ出るのは、うなり声と
「どうじゃ! できんじゃろ! できんなら、さっさとその身体から立ち去らんね!」
強い言葉とともに、小鳥刀自が祈祷を再開しようとした、その瞬間だった。
「──っ」
背筋が悪寒に震え上がる。
感じた、確かに。
鋭く周囲に視線を向けるが、もちろんおかしなものはない。状況は異常極まるが、先ほど同じ……はずだ。
けれど、確かに感じている。
これは──視線だ。
無数の、大量の視線。
そして──
「──シュゥゥゥゥ──」
希歌の口から、蛇の鳴き声が漏れた刹那だった。
「ぐっ!?」
「くそばばあ!?」
水槽が弾けた。
溢れ出すのは、とても水槽に収まるとは思えない膨大な体積の〝津波〟。
それが、獣のアギトのように小鳥刀自に覆い被さり。
そして──するり、と。
老婆の身体を飲み込んで、箱の内側に消える。
「──え?」
唖然として、誰も声が出せない。
なにかが倒れる音がした。
希歌が、倒れていた。
なのに、誰も動けない。
だって──笑っていた。
箱の中に消え失せる瞬間、禁后小鳥は自分を見て、微笑んだ口元に触れたのだ。
「──反応するな。黙って聞け。禁后小鳥より、お
ただ呆然と座り込んでいるしかない風太の耳元に。
黒子がひとり、顔を寄せて囁いた。
いやに聞き取りにくい声だったけれど、確かに聞いた。
「『黛希歌はすべての元凶。
§§
かくしてこの数時間後、橘風太は一行の前から姿を消すのです。
彼がなにを思い、なにを為すのか。
残されたものたちがなにに怯え、なにに立ち向かうのか。
さあ、次なる物語の幕が。
いま、開かれるのです──
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