第二話 「とある道化師の外傷体験・下」

湖上こじょう結巳ゆいみちゃんは、あまり長くないんです。もって、半年ほどではないかと……」

「……え?」


 気がつけば、声が漏れ出ていた。


 ホスピタル・クラウンは、れっきとした職業だ。

 芸を披露したら、はいおしまいとはいかない。

 しっかりと病院側の看護師、または同僚達と連絡事項の確認をして、より理解を深める必要がある。


 だから、病室での大成功のあとで、顔を合わせた看護師から飛び出した突然の言葉は。

 胸を痛いほど締め付ける呪いとなって、自分の喉から言葉を奪ってしまった。


 湖上結巳。

 それは、誰よりも自分の芸を喜んでくれた、あの苔色髪の少女の名前だったからだ。


 筆舌しがたい感情に、口元が不自然につり上がる。

 いびつな笑みを隠すメイクは、もう落としてしまった。

 だから看護師は、哀れみの乗った視線で風太を見つめる。


「あの子があんなに楽しそうにしているのを、初めて見て。なので、あなたには知っておいてほしいと思って……独断で、申し訳ないのですが」

「いえ──」


 そう返事をするので、精一杯だった。


「結巳ちゃん」


 気がつけば、風太は病院の中庭で、ベンチに寄りかかっていた。

 ここは小高い丘の上で、街を一望することもできる。

 遙か遠い街の中心には、天を衝くハイパービルディングが、未完成の巨躯を夕日に晒している。


 死にかけの巨人のようなそれは、永崎が施策として打ち出している〝新世界三大夜景プロジェクト〟の基幹となる建造物、不夜の摩天楼ことネクスト永崎タワーである。

 街に不気味な影を落とす、こけら落とし前の超々高層建築を茫洋と眺め、黄昏れる。


「結巳ちゃん、かぁ……」


 思い出すのは、必然あの少女のこと。


 明日をも知れないこどもたちと、交流するのは、初めてではない。

 そんな子どもにこそ、クラウンは必要で。

 だから自分は〝そよかぜおじさん〟を名乗っている。


 病気という黒いモヤを、病室に垂れ込める、重たい空気を吹き飛ばしてしまえるようにと。

 けれど、先ほど見たばかりの笑顔は、あまりに眩しく、儚くて──


「──名前、呼びましたか?」


 振りかえると、いま思い浮かべたばかりの顔が、そこにあった。

 苔緑色のおかっぱ髪。

 ペットボトルを握って立つ、病衣の少女。


「結巳ちゃん?」

「おじさん、お化粧してなくても、笑ってるみたいですって」

「う、あ……うん。よく言われるよ」


 また口元がつり上がっていたのを、指先で確かめる。


「それにしても」


 よく、自分が〝そよかぜおじさん〟だと解ったものだと、戸惑ってしまう。

 メイクをしていない道化師は、観客にどう映るだろうか?


 夢の国の舞台裏を、無垢な子どもに覗かれてしまったようなばつの悪さ。

 けれど、結巳は頓着しない。


「ねぇ、わたし、もうすぐ死ぬんですってー」


 ペットボトルの水に口をつけながら、あけすけにそんなことを言う。


「え?」

「だから、いなくなっちゃうのですって」


 そんな。


「そんなことはない、ですか? でも、死にますって」

「……死ぬ」


 口に出せば、厭に重く、ざらついた響きが心をざわつかせる。

 不吉な言葉に、けれど少女は頓着することなく言葉を継ぐ。


「死にますけど……だけど、今日はちょっと楽しかったのです。おじさんのおかげで、久しぶりに笑った気がしますって。にこー、ですってー」


 結巳は、達観した様子で。

 けれど口の両端に指を当てて持ち上げながら、微笑んでみせる。


「湖上さんは」

「結巳でいいのにですよー」

「……結巳ちゃんは、またぼくが来たら、笑ってくれるかな?」

「────」


 少女は目をぱちくりとして。

 それから、年齢不相応の複雑な表情で、苦笑した。


「驚きました。こんなときだいたい大人は、『恐くないの?』って訊くんです。また笑ってくれるかなんて、初めて言われました。おじさんはわたしの初めてばかり奪っていきますって」

「いや」


 言い方、というものがあるだろう。

 そうは思ったけれど、結巳本人に他意は見受けられない。

 はぐらかそうとしているわけでも、ないようで。


「わかりません」


 結巳は正直に答えたようだった。


「こうやってお外に出るのも、陽がある間だけです。夜のお空を見上げることもできないわたしだから、次も笑えるかは、わからないのです」


 なら。


「星を視る、というのは、どうだろう」

「ほし? お星さま?」


 そう。

 いまは、病床でもみることができる卓上プラネタリウムがある。

 厚紙と豆電球で作ることだってできる。


「それは、本物ではないかもしれないけれど」


 もしみることができたら、元気が出ないだろうか。笑うことが、できないだろうか?

 問いかければ、今度は年相応の困り顔で、


「わかりません……」


 と繰り返した。


「わたしは、だめって言われているんです」

「ダメ?」

「失敗作なんです。お姉ちゃんになれなかったんですって。だから、なにかをして貰うなんて、許されないんです。いまだって、おじさんと会っていちゃいけなくて」


 少女がまばたきをする。

 わずかに、矮躯がまとう雰囲気が変わる。

 なにか。

 そう、少女の双眸が、夕日を呑んだように、黒から赤いグラデーションを描いて──


「だって、おじさん、〝アレ〟が見えますか?」


 彼女が指差したのは、中庭の隅。

 日陰になっている、何か淀んだ場所。


「……?」


 目をこらすけれど、特別なにかを見つけることはできなかった。

 すると少女は、ため息をついて。

 そのときにはもう、先ほどまでの雰囲気は霧散している。


「普通は見えないんですってー。でも、わたしは触れられないから失敗作なんですって。だから、死ななきゃいけないんです。たのしいことも……しちゃダメなんですって」


 それは。


「誰かに、強制されている……のかな」

「…………」


 少女は押し黙った。

 頷くことも、首を振って否定することもせず。

 ただ、苦しいことを呑み込むように、沈黙を選んだ。


 ペットボトルを握る手が、かすかに震えている。

 震えながら、少女は水を口元に運び。

 ギュッと目を閉じる。


 …………。


「結巳ちゃん、これはぼくの身勝手な独り言だ。聞かなかったことにしてくれてもいい」


 もし。

 もしもきみが。


「きみがなにかを強要されて、それが心底イヤなことだったのなら──理由なんて、探さなくていい」


 ただはっきりと。


「イヤだって、突きつけてやればいいんだよ」

「……え?」


 ペットボトルが止まる。

 少女が呆然と、目を見開く。


「イヤなことに理由はいらない、ただイヤだって言えばいい。それが受け入れられるかどうかは、別問題だ。イヤだって言って、それで初めて人間ってのは、話し合いを始められるんだから」

「…………」

「まあ、これは大先輩の受け売りで」


 加えていえば、身勝手な意見で。


「だからぼくにだって、イヤだって言っていいんだぜ、結巳ちゃん?」


 少女は。

 余命幾ばくもないと言われた少女は。


「……イヤ、です」


 確かに、そう言った。


「これでお終いなんて、イヤです! わたし、見てみたいです! おじさんと一緒に、ほしを、お星様を! あんな気持ち悪いものじゃなくて、綺麗なお星様を! そうしたら、きっと。きっと、ちゃんと〝にこー〟ってなれるから! だから──」


 ──だから。

 痛切な祈り、願いの言葉。

 けれどその先が、彼女の口から出ることはついぞなかった。


「げほっ、ごほっ!」

「だ──だいじょうぶか!?」


 突然、激しく咳き込みだした結巳に、慌てて駆け寄り背中をさする。

 けれど咳は止まることなく、いっそう酷くなり。

 やがて、


「げふ、げぶっ」


 ゴポリ──と。

 少女は、真っ黒な液体を吐き出した。


 慌てて看護師を呼ぼうとすれば、ギュッと強く、腕を掴まれて。


「だから」


 こぼれた。


「だだだから」


 落ちた、ドロリと。


「だから、だ、だだだだだ、からからだ、やややややや──」


 滴り落ちる、次から次に。

 少女の両目から。

 口から、耳から。 

 真っ黒な〝泥〟が、次々に溢れ出して──


「ヤ──ヤクソク、ですって……?」


 泥の涙をこぼす虚ろな双眸が、風太を直視して


 ──にたぁ、


 と、笑った。

 ぎょろりとした目玉がいびつに。三日月の口元は目に焼き付くほどに赤く。


「──ッ」


 絶叫を上げたのが自分だったのか、それとも他の誰かだったのか、覚えていない。

 ひゅーひゅーと遠くで、少女の喉がか細く鳴るのを聞きながら。

 風太はただ、呆然と眺めていた。


 結巳から滴り落ちた〝泥〟が消えてなくなるのを。

 落とされたペットボトルの口から零れる水が、地面にしみこんでいくさまを。


 どこかからか、日陰から。

 なにかが泣く声が聞こえた。気がした。


 そしてそのまま。

 橘風太は、昏倒する。

 自分が結巳と同じような笑みを浮かべていることを、理解しながら──



§§



 はてさて、さてはて──皆様、たいへん長らくお待たせいたしました。


 これよりは泥にまみれた辛苦劇。

 水も滴るいい人形の。


 グランギニョール恐怖劇が、幕開けでございます。

 極彩色の道化芝居。


 どうぞ最後まで、ご堪能あれ──

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