第二話 「とある道化師の外傷体験・下」
「
「……え?」
気がつけば、声が漏れ出ていた。
ホスピタル・クラウンは、れっきとした職業だ。
芸を披露したら、はいおしまいとはいかない。
しっかりと病院側の看護師、または同僚達と連絡事項の確認をして、より理解を深める必要がある。
だから、病室での大成功のあとで、顔を合わせた看護師から飛び出した突然の言葉は。
胸を痛いほど締め付ける呪いとなって、自分の喉から言葉を奪ってしまった。
湖上結巳。
それは、誰よりも自分の芸を喜んでくれた、あの苔色髪の少女の名前だったからだ。
筆舌しがたい感情に、口元が不自然につり上がる。
いびつな笑みを隠すメイクは、もう落としてしまった。
だから看護師は、哀れみの乗った視線で風太を見つめる。
「あの子があんなに楽しそうにしているのを、初めて見て。なので、あなたには知っておいてほしいと思って……独断で、申し訳ないのですが」
「いえ──」
そう返事をするので、精一杯だった。
「結巳ちゃん」
気がつけば、風太は病院の中庭で、ベンチに寄りかかっていた。
ここは小高い丘の上で、街を一望することもできる。
遙か遠い街の中心には、天を衝くハイパービルディングが、未完成の巨躯を夕日に晒している。
死にかけの巨人のようなそれは、永崎が施策として打ち出している〝新世界三大夜景プロジェクト〟の基幹となる建造物、不夜の摩天楼ことネクスト永崎タワーである。
街に不気味な影を落とす、こけら落とし前の超々高層建築を茫洋と眺め、黄昏れる。
「結巳ちゃん、かぁ……」
思い出すのは、必然あの少女のこと。
明日をも知れないこどもたちと、交流するのは、初めてではない。
そんな子どもにこそ、クラウンは必要で。
だから自分は〝そよかぜおじさん〟を名乗っている。
病気という黒いモヤを、病室に垂れ込める、重たい空気を吹き飛ばしてしまえるようにと。
けれど、先ほど見たばかりの笑顔は、あまりに眩しく、儚くて──
「──名前、呼びましたか?」
振りかえると、いま思い浮かべたばかりの顔が、そこにあった。
苔緑色のおかっぱ髪。
ペットボトルを握って立つ、病衣の少女。
「結巳ちゃん?」
「おじさん、お化粧してなくても、笑ってるみたいですって」
「う、あ……うん。よく言われるよ」
また口元がつり上がっていたのを、指先で確かめる。
「それにしても」
よく、自分が〝そよかぜおじさん〟だと解ったものだと、戸惑ってしまう。
メイクをしていない道化師は、観客にどう映るだろうか?
夢の国の舞台裏を、無垢な子どもに覗かれてしまったようなばつの悪さ。
けれど、結巳は頓着しない。
「ねぇ、わたし、もうすぐ死ぬんですってー」
ペットボトルの水に口をつけながら、あけすけにそんなことを言う。
「え?」
「だから、いなくなっちゃうのですって」
そんな。
「そんなことはない、ですか? でも、死にますって」
「……死ぬ」
口に出せば、厭に重く、ざらついた響きが心をざわつかせる。
不吉な言葉に、けれど少女は頓着することなく言葉を継ぐ。
「死にますけど……だけど、今日はちょっと楽しかったのです。おじさんのおかげで、久しぶりに笑った気がしますって。にこー、ですってー」
結巳は、達観した様子で。
けれど口の両端に指を当てて持ち上げながら、微笑んでみせる。
「湖上さんは」
「結巳でいいのにですよー」
「……結巳ちゃんは、またぼくが来たら、笑ってくれるかな?」
「────」
少女は目をぱちくりとして。
それから、年齢不相応の複雑な表情で、苦笑した。
「驚きました。こんなときだいたい大人は、『恐くないの?』って訊くんです。また笑ってくれるかなんて、初めて言われました。おじさんはわたしの初めてばかり奪っていきますって」
「いや」
言い方、というものがあるだろう。
そうは思ったけれど、結巳本人に他意は見受けられない。
はぐらかそうとしているわけでも、ないようで。
「わかりません」
結巳は正直に答えたようだった。
「こうやってお外に出るのも、陽がある間だけです。夜のお空を見上げることもできないわたしだから、次も笑えるかは、わからないのです」
なら。
「星を視る、というのは、どうだろう」
「ほし? お星さま?」
そう。
いまは、病床でもみることができる卓上プラネタリウムがある。
厚紙と豆電球で作ることだってできる。
「それは、本物ではないかもしれないけれど」
もしみることができたら、元気が出ないだろうか。笑うことが、できないだろうか?
問いかければ、今度は年相応の困り顔で、
「わかりません……」
と繰り返した。
「わたしは、だめって言われているんです」
「ダメ?」
「失敗作なんです。お姉ちゃんになれなかったんですって。だから、なにかをして貰うなんて、許されないんです。いまだって、おじさんと会っていちゃいけなくて」
少女がまばたきをする。
わずかに、矮躯がまとう雰囲気が変わる。
なにか。
そう、少女の双眸が、夕日を呑んだように、黒から赤いグラデーションを描いて──
「だって、おじさん、〝アレ〟が見えますか?」
彼女が指差したのは、中庭の隅。
日陰になっている、何か淀んだ場所。
「……?」
目をこらすけれど、特別なにかを見つけることはできなかった。
すると少女は、ため息をついて。
そのときにはもう、先ほどまでの雰囲気は霧散している。
「普通は見えないんですってー。でも、わたしは触れられないから失敗作なんですって。だから、死ななきゃいけないんです。たのしいことも……しちゃダメなんですって」
それは。
「誰かに、強制されている……のかな」
「…………」
少女は押し黙った。
頷くことも、首を振って否定することもせず。
ただ、苦しいことを呑み込むように、沈黙を選んだ。
ペットボトルを握る手が、かすかに震えている。
震えながら、少女は水を口元に運び。
ギュッと目を閉じる。
…………。
「結巳ちゃん、これはぼくの身勝手な独り言だ。聞かなかったことにしてくれてもいい」
もし。
もしもきみが。
「きみがなにかを強要されて、それが心底イヤなことだったのなら──理由なんて、探さなくていい」
ただはっきりと。
「イヤだって、突きつけてやればいいんだよ」
「……え?」
ペットボトルが止まる。
少女が呆然と、目を見開く。
「イヤなことに理由はいらない、ただイヤだって言えばいい。それが受け入れられるかどうかは、別問題だ。イヤだって言って、それで初めて人間ってのは、話し合いを始められるんだから」
「…………」
「まあ、これは大先輩の受け売りで」
加えていえば、身勝手な意見で。
「だからぼくにだって、イヤだって言っていいんだぜ、結巳ちゃん?」
少女は。
余命幾ばくもないと言われた少女は。
「……イヤ、です」
確かに、そう言った。
「これでお終いなんて、イヤです! わたし、見てみたいです! おじさんと一緒に、ほしを、お星様を! あんな気持ち悪いものじゃなくて、綺麗なお星様を! そうしたら、きっと。きっと、ちゃんと〝にこー〟ってなれるから! だから──」
──だから。
痛切な祈り、願いの言葉。
けれどその先が、彼女の口から出ることはついぞなかった。
「げほっ、ごほっ!」
「だ──だいじょうぶか!?」
突然、激しく咳き込みだした結巳に、慌てて駆け寄り背中をさする。
けれど咳は止まることなく、いっそう酷くなり。
やがて、
「げふ、げぶっ」
ゴポリ──と。
少女は、真っ黒な液体を吐き出した。
慌てて看護師を呼ぼうとすれば、ギュッと強く、腕を掴まれて。
「だから」
「だだだから」
落ちた、ドロリと。
「だから、だ、だだだだだ、からからだ、やややややや──」
滴り落ちる、次から次に。
少女の両目から。
口から、耳から。
真っ黒な〝泥〟が、次々に溢れ出して──
「ヤ──ヤクソク、ですって……?」
泥の涙をこぼす虚ろな双眸が、風太を直視して
──にたぁ、
と、笑った。
ぎょろりとした目玉がいびつに。三日月の口元は目に焼き付くほどに赤く。
「──ッ」
絶叫を上げたのが自分だったのか、それとも他の誰かだったのか、覚えていない。
ひゅーひゅーと遠くで、少女の喉がか細く鳴るのを聞きながら。
風太はただ、呆然と眺めていた。
結巳から滴り落ちた〝泥〟が消えてなくなるのを。
落とされたペットボトルの口から零れる水が、地面にしみこんでいくさまを。
どこかからか、日陰から。
なにかが泣く声が聞こえた。気がした。
そしてそのまま。
橘風太は、昏倒する。
自分が結巳と同じような笑みを浮かべていることを、理解しながら──
§§
はてさて、さてはて──皆様、たいへん長らくお待たせいたしました。
これよりは泥にまみれた辛苦劇。
水も滴るいい人形の。
極彩色の道化芝居。
どうぞ最後まで、ご堪能あれ──
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