エピローグ
「リコ、頼んでいたものはできたかい?」
背中越しに扉を叩く力強い音と野太い声が聞こえ、蜂蜜色の石をルーペで覗き込んでいた僕は驚いて顔を上げた。古めかしい質素な木の扉を開いて部屋に入ってきたのは、黒い髪を撫で付けた髭面の魔法使いだった。
「ドラーゲ!すみません、持っていくのをすっかり忘れていました」
「できていれば問題ないよ」
僕は立ち上がって、棚から小箱を取り出してドラーゲに渡した。彼は節ばった分厚い指で箱を開け、やや不器用そうに、中からそっと赤いスピネルの耳飾りを摘み出した。
「こりゃあまた見事だなぁ」
「ありがとうございます」
「ペリシュ家の奥方からの依頼ってんで落ち着かなかったが、これならあの方のお眼鏡にも叶うに違いない」
「そうだといいのですが」
「もしも文句をつけられたら売らずに持ち帰ってきてやるさ。これだけのものを作って下手に出ることはない。他にいくらでも買い手がつくよ」
ドラーゲはそう言って僕の背中を景気良く叩いたので、僕はつんのめって危うく作業台の研磨機の上に倒れ込むところだった。相変わらず武骨で、屈託なく人を褒める人だった。
僕は半年前にドラーゲの工房に戻った。僕はかつて、この善き魔法使いが自分に授けてくれた恩を返したいと思っていた。彼が適切に指輪を分析してくれ、サリクスのことを教えてくれなかったら。そして彼の支援がなければ、あれほど早くセントラルに行くことができたか分からず、サリクスの最後の実験の折に、僕が居合わせることも叶わなかったかもしれなかった。
彼には返しても返しきれない恩義を感じていたし、また単純に僕は彼のことを好いてもいた。
ドラーゲは立ち去ろうとして、ふいに僕の手元を見て首を傾げた。
「次は何を作るんだい?なにか依頼があったかな」
作業台の上には、先ほどの石やルーペのほかに、術式を刻んだ台座もあった。
「実は、先日訪ねてきた幼馴染みが知らせてくれたんですけど、僕の弟に子供が生まれるらしいんです。それで、次の帰郷の折にその子に贈ろうと思って」
「そりゃあいい。ヘリオドールか。太陽の石、希望の石だ。きっと喜ばれるよ」
「ありがとう。それと、呪いをかけるつもりなんです。……サリクスに倣って、というには稚拙なんですけど」
僕は慎重に口に出したその名前の響きに、心が暖かくなるのを感じた。ドラーゲも目を細めて頷いた。
†
アルジャンが寝室の扉を開けた時、僕はまだサリクスの胸の上に頭を乗せていた。冷たくなった彼の体は生きているうちからおおかた腐ってしまっていた。けれどサリクスの顔は薄く微笑んでいて、ただ静かに眠っているようだった。
アルジャンは歩み寄って、まず僕の背中を優しくさすった。そして、しばらく僕と一緒にサリクスを見ていた。それからゆっくりとサリクスに近寄り、彼の頬に触れた。
「安らかな顔だ。ありがとう、リコくん。遅れてすまなんだ……二人ともつらかったろう」
アルジャンの言葉で僕はやっと我に帰り、自分が喪失の只中にいる事を知った。僕は失われたものの大きさに驚き、実感のないまま途方に暮れて、サリクスの硬直した手を握り直した。
アルジャンに助けられながら、僕は彼の体を清めた。傷んだ肌に包帯を巻き、美しい髪を丁寧に梳いて結った。しばらくその胸のあたりの、変色した肌をそっと撫でて別れを惜しんでから、彼に一番上等な衣装を着せつけた。最後にうすく死化粧を施したその姿はとても美しかった。
サリクスを知る人も、そのほとんどが彼の素顔を知らないはずだとアルジャンは言った。僕はせめて、彼を知る数多の人々が、サリクスを顔のない異能の魔法使いではなく、一個の人間として記憶するようにと願い、その安らかな額に口付けた。
煩雑な手配はアルジャンが引き受けてくれた。訃報はたちまちのうちに知れ渡り、学府ではほとんどの者が喪に服した。遺体は運ばれて行き、セントラルの中央聖堂における盛大な葬儀ののち、その墓所に埋葬されたのだった。
サリクスが遺した資料は膨大だった。かつて彼が見せてくれた資料はほんの一端だったらしい。彼が封印していた書棚から出てきたのは数え切れないほどの巻数の帳面、その書き込みに加えられたおびただしい訂正と修正、実験に次ぐ実験の記録だった。それらに一通り目を通すだけでも僕には数ヶ月は必要と思われた。
アルジャンは、僕がそれらをまとめるべきだと言った。サリクスから資料の編纂を言付かっていたのは確かに僕だったし、いくら元気とは言えアルジャンは高齢だ。それは分かるのだが、一人でこれらに向き合うのはあまりにも無謀で孤独だった。
ひとまずサリクス亡きあと、城を管理するのがままならなくなるのは分かっていた。古い城は魔法が絶えてしまうと暗く、寒く、広すぎる。僕たちは城が『死に絶える』前に、そこにあるものを少しづつ選別し、城に残すもの、セントラルに保管するもの、アルジャンが保管するもの、僕が保管するものとに分けた。
その作業の中で、僕はアルジャンにあの白い小箱の中の黒い指を見せた。アルジャンは涙ぐみ、きっと事実を公表しようと言った。
さいわい稀石に関しては、サリクスがほとんど完成した形で原稿を用意してくれていたので、まずはここから手をつけることになった。秘匿された稀石については寝室でサリクスの口述を書き取った部分もあったが、最後は僕が加筆を加えて完成させた。サリクスの死の原因は、秘匿された稀石のためとは断定できなかったので、これは注釈を加えるに留めた。
こうして、どうにか一年後に彼の遺稿は世に出ることになった。監修としてアルジャンの名が、協力として僕の名が、サリクスの名前の下に並んだ。冒頭の献辞には、あの黒い指の犠牲者の名前があった。それはサリクスの手によって書かれたものだった。これを受けて、僕たちは巻末に、この事件の経緯を簡潔に添えたのだった。
アルジャンはこの本と黒い指を切り口としてセントラルで再調査を呼びかけて、今は亡き前学長の罪を暴いた。こうしてこの事件もやっと正しく裁かれることになった。けれど、サリクスが、償いのために命を賭して、現時点でほとんど完全な稀石の分析を行ったという事実を無碍にするものは誰もいなかった。
サリクスの名声が傷つくことはなく、あの黒い指もまた、今は中央聖堂に安置されている。
僕はしばらくアルジャンの伝手で学府の寮に身を寄せていたが、この本が出た後になってやっと悲しみが襲ってきた。それまではサリクスの遺志を叶えるのに必死で、自分の感情を振り返る余裕がなかったのだと思う。僕はすくなくとも数ヶ月を激しい悲しみに襲われながら過ごした。彼の手稿を目にするたびに泣き、彼が作った護符を見ては泣いた。彼のために買って帰ったお茶のあまりを淹れては泣き、安楽椅子を見ても泣くという有様だった。
そのころ学府で何らかの職についてはどうかというありがたい話もあったが、とても仕事どころではなかったし、自分が平凡な駆け出しの魔法使いであることもよく分かっていた。僕にはサリクスが遺してくれたものの他には何もなかった。ただ彼のそばにいることを許されるという幸運に恵まれ、彼の魔法にかけられていただけなのだ。もっと自分自身を高めなければサリクスに合わせる顔がなかった。けれどなにを見ても城での日々が思い出され、なにも手につかなかった。焦りばかりが募った。
アルジャンは僕のことを心配して、それとなく声をかけてくれ、お茶に招待してくれたりした。けれど他人が何とかできる事でもないと思っていたようだった。僕はしばらくして自然に危機を脱したのだが、「今にもサリクスの後を追いそうで、みんな気が気じゃなかった」とのちにアルジャンの助手に言われてしまった。
ドラーゲのもとに戻ろうと決めたのは、僕が彼にまだ負債を負っていることを思い出したからだが、僕にできる仕事からはじめたいという気持ちもあった。
数年ぶりのランカラは相変わらず賑やかで、他の町と比べるとひときわ路地が狭く複雑なことが改めて意識された。僕は入る路地を間違えて少し迷子になった。どうにか辿り着いたドラーゲの工房は、僕がいた頃とあまり変わらず、戸口のそばの箒もいまだにそこにあった。扉を叩いたあとの時間は奇妙に長く感じられた。ドラーゲが今の僕を見てどんなふうに思うのか、そもそもすっかり忘れられてはいないかという不安もあった。けれど、扉を開けたドラーゲは目をまん丸くしたあと、その太い腕で僕を力強く抱きしめてくれた。
ドラーゲはサリクスの訃報を聞いたとき、僕がサリクスに会えたのかを随分心配してくれていたらしい。その後、上梓されたあの稀石の本を見て、そこに僕の名前を見つけてどれだけ嬉しかったかと、彼は顔をくしゃくしゃにしながら語ってくれた。
ドラーゲはもちろんサリクスの話を聞きたがり、僕も彼に話して聞かせたい事が山ほどあった。けれど、僕はその頃、まだやっと抑鬱から立ち直れたかどうかというばかりで、いざサリクスの名前を口に出してみるとそれだけで涙が溢れ、取り乱してしまい、話す事ができなかった。
泣きじゃくる僕をドラーゲは困り果てながらも慰めてくれ、それからというものサリクスの事にはあまり触れないでいてくれる。
僕はいま、ドラーゲのもとで護符の制作を引き受けている。再びドラーゲの弟子にしてほしいという話はさすがに断られてしまった。サリクスの共同研究者を弟子にするなんて恐れ多い、というのが彼の言い分だった。そのかわりドラーゲは、僕を『居候の魔法使い』と呼んで、ほとんど対等な立場で僕を受け入れてくれた。それでいて、僕が至らない時にはきちんと指導してくれるのだから頭が上がらなかった。
最近やっと、僕はサリクスの遺稿に再び向き合えるようになり、少しずつそれをまとめはじめた。そしてサリクスの名前も口に出せるようになってきた。ドラーゲにはこれから少しずつ、お土産話を聞いてもらおうと思う――
†
紺青の空に遊んでいた初夏の気持ちの良い夜風が一陣、戯れに僕の小さな工房を通り抜けて、ランプの灯を楽しげに揺らした。窓の外では、ドラーゲの工房と自宅に囲まれた中庭が、向かいの窓の灯りに淡く照らされている。丸みのある小さな石を敷き詰めた地面はすり減って艶やかで、窓の下には香草が植わっていた。こじんまりとしているが、手入れの行き届いた気持ちの良い中庭だった。
「里帰りの準備はできたのかい」
ドラーゲの工房に通じる開けたままの扉から、その主人である魔法使いが顔を出してたずねた。
「ええ、もうすっかり」
古い傷だらけの作業台の前に腰掛けていた僕は、振り返って笑ってみせた。
「締め切りを守るのは得意なんですよ」
「そうだった。君の仕事ぶりを見ていればわかることだったな。俺たちからのお土産も忘れないで持っていってくれよ」
「もちろんです。あんなに上等な組み紐をいただけるなんて、母が喜びます。まっさきに荷造りしましたよ」
ドラーゲは肩を竦めて笑った。
「君が来てから良いこと尽くめなんだ。安いもんさ。長いこと帰ってなかったんだから、たくさん孝行しておやり。ではおやすみ、明日は早いんだろ?街の入り口まで見送ろう」
「そうします。おやすみなさい、ドラーゲ」
彼が扉を閉めたあと、僕は魔力封じの薬剤を塗っておいたあの指輪をとりあげ、仕上がりを確認して鎖を通しなおした。鎖を首にかけると、翠玉の護符のすぐ上で指輪の小さな石が煌めいた。
「おぅい、魔法使いのお兄さん。もうすぐ着きますぞ」
居眠りをしていた僕は御者のおじいさんに肩をたたかれて飛び起きた。道すがら仲良くなった農家の馬車に乗せてもらえたのだ。小さいながらも幌のついた荷台には、街で買われたかわいい子山羊が僕と一緒に乗っていた。白くて温かな子山羊を名残惜しいような気持ちで膝から下ろして、老爺の折れ曲がった背中ごしに前方を見やると、すでに懐かしい丘の連なりが広がっていた。
「あっ、もう降ります!ありがとう、おじいさん!行く道に幸あれ!」
僕はいくばくかの謝礼をおじいさんに押し付けてから、荷物を担ぎ、馬車を飛び降りて走った。すっかり体が鈍ったらしく、荷物が重いし息も切れた。けれど僕はどうにか走りきって、この辺りでいちばん高い丘の上に立った。
眼下にはなだらかな緑の大地が広がっていた。ポツリポツリと白いのは草を食む羊。つらなる石垣。空はこっくりした水色で、乾いていい香りのするそよ風が汗ばんだ額を冷やした。遠くに見えるのは丘の上の小さな教祠、光る小川、点在する漆喰壁の民家、楡の木、村の広場、三本のポプラ、そうだ、あれが僕の家――
僕は襟口から鎖を手繰った。そして服の中から引っ張り出した指輪と護符を、掌の上に載せた。
そうして、ここにひとつの指輪があった。
際立った特徴もない真鍮の指輪だ。滑らかな曲面に仕上げられた細くも太くもないその輪には、小さな石がひとつ嵌め込まれている。石は透明で、故郷のまばゆい日の光を受けて虹色に光った。
僕はしばらくそれを眺めていたが、勇気を出し、言い聞かせるように小さく呟いた。
「帰ってきましたよ、サリクス」
掌の上でさしたる重さもなく、鈍く光っているその指輪を、僕は指先でそっとなぞった。優しい記憶に彩られ、この世でいちばん純粋な魔法がかかった、小さな美しい指輪を。
(了)
稀石の魔道士 s.nakamitsu @nakamitsu
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