第12話 リコ
アルジャンが城にやってきたのは数日後のことだった。とつぜん狩猟の間で鉢合わせたアルジャンの姿に、僕はひどく驚かされた。彼は転移魔法陣を使ってここへ来たらしい。僕がほとんど足を踏み入れたことのない、実験道具の物置と化した小部屋にその魔法陣は敷かれていて、アルジャンの研究室と繋がっているらしかった。
彼は以前「転移は酔うから苦手」だと言っていたので、僕はてっきり麓から上がってくるものと思っていた。高齢をものともせず、つい最近までそうして
流石のアルジャンもやや深刻な面持ちで、言葉少なにサリクスの寝室へ向かった。僕が先に寝室を覗くと、サリクスは依然として寝台で横になっていた。アルジャンの訪問を知らせると、彼は久しぶりにヴェールをつけてアルジャンを迎えた。
「ひとまず無事だったかね」
アルジャンはサリクスの枕辺に歩み寄り、ため息をつきながら彼を抱きしめた。
「まったく無茶をしおって……老いた友を心配させないでおくれ」
言いながらアルジャンはサリクスの頭を撫でたので僕は少し驚いた。さすがに、サリクスにもこんな調子だとは思っていなかったのだ。サリクスはすぐにその手をやんわりと払い除けたが、おそらくいつものやりとりなのだろう。そんな慣れた様子があった。
「やめてください。子供じゃないんですから」
「人にこんなに心配をかけるんだから子供みたいなものだよ。叱ってやるつもりで来たのだから、覚悟しなさい」
サリクスもアルジャンも、言葉の端に安堵が滲んでいた。特にアルジャンの慈しむような声に安心して、僕は外に出てそっと扉を閉めた。自分も隣にいたかったが、僕が同席していては話し辛いこともあるかもしれない。
僕は階下に降りて夕食の支度をしたが、仕事を済ませて戻ってもまだ寝室の扉はしまっていた。工房で待っていると、しばらくしてアルジャンが寝室から出てきた。お茶の用意をしていたので安楽椅子を勧めたが、アルジャンは「君の部屋へいこう」と言って微笑んだ。僕は自分の顔が強張るのを感じた。
『宿木の間』に足を踏み入れたアルジャンは「ああ、今はここが君のための部屋なんだね」と言って、暖炉の前の椅子に腰掛けた。そして杖を振って、弱まっていた暖炉の火をふたたび熾した。
僕は工房からお茶を持ってきて、それから暖炉に薪を足した。僕が暖炉のそばに座ると、アルジャンはありがたがりながらお茶に口をつけ、一息ついてから話し始めた。
「残念だが、良い状況とは言えんな」
ため息のようにそう言って、アルジャンは火の向こうを見つめた。
「サリクスは自分で分かっているようだが、彼の中身はもうぼろぼろなんだろう」
「そんな……復元の魔法をかけたのに……?」
僕はいよいよ目眩がひどくなった気がして、思わず床に手をついた。
「今までの無理が祟ったんじゃな。これまでは自分で常に治癒していたようだが、魔力が損なわれるほど消耗してしまった今、あとは時間の問題だろう。すっかり負の循環に転じてしまっておる。……ああ、泣くでない。君のせいではないよ。それは断じて違う」
僕は言われてから頬が濡れているのに気付き、あわてて袖で顔を拭った。アルジャンは膝をついて僕の背中をさすってくれた。
「可哀想に。君も疲れているようだね。寝台にお座り……横になっていてもいいよ」
「教授の方がお疲れでしょう。お忙しい中駆けつけてくださったのに」
「そんなことはない。長生きする年寄りを侮ってはいかんぞ」
僕は遠慮しようとしたが、半ばむりやり寝台に追いやられ、毛布をかけられ寝かしつけられてしまった。アルジャンは案外力が強かった。ひとたび横になってしまうと、自分が非常に疲れていたことがわかった。
アルジャンはそのまま寝台の縁に腰掛けて話を続けた。
「あの子から秘匿された稀石の話を聞いたよ。そんなものがあったとは私も初めて知った。あの子が口を割らなかったんで経緯はようわからんが……前の学長の仕業だと考えるのが妥当なところだろうかの。もしもそうだとしたら、あの子にそんなものを持たせるなんぞ、信じられん。どうかしとる。なにが養い親じゃ……聞いて呆れるわ」
はげしい感情を振り払うようにアルジャンは大きく頭を振った。僕はアルジャンがこんな風に怒るところを初めて見た。
「あの子もあの子だ。並の稀石でも体には負担が大きかったろうに、そんなものを一週間ばかりもつけていたと言うのだから」
「すみません……止められなくて」
居た堪れなくなり思わず涙ぐんで呟くと、アルジャンは慌てたように「君は良くやってくれたよ。自分の身だって危険だったろうにね」と言って僕の頭をなでた。気のせいでなければ、アルジャンもすこし瞳を潤ませて、大きくため息をついた。
「悲しい事だが、サリクスは生き急ぎすぎた。だが、そうしなければいけない理由もあったろう。それに、誰でもいつかはその時が来る。遅かれ、早かれな」
僕は何も言えずに黙っていた。わかっていても受け入れ難いことがこの世には沢山ある。僕が黙って、頷きもせずにいるのを見ていたアルジャンは、ややあって突然僕の手を取った。
「リコくん、私は君に謝らねばならん」
老いた手は乾き、骨張って冷たく、わずかに震えていた。
「君から指輪の話を聞いた時、私は君がサリクスの救いになるかもしれんと思って、この場所を教えてしまった。その時私は、君の安全や、君がこうして――傷つくかもしれないことにまったく配慮できておらんかった。君の情熱に頼んで、ある意味では巻き込んでしまった。すまない……私も教師失格だ……」
「そんなことはありません。謝らないでください」
「いいや、本当にすまなかったと思っているんだ。本当に」
僕はアルジャンの明るく潤んだ瞳を見つめた。僕よりずっと年嵩で、立派な魔法使いであるアルジャンが、なぜこれほど僕に謝る必要があるのだろうかと疑問に思った。そしてふと、ここに来た当初のサリクスの言葉を思い出した。「外部から干渉を受けて結界が歪められた可能性がある」。結局その理由は判然としないままだったが、アルジャンの仕業だったのなら納得がいく。アルジャンは本当に謝りたい事を口に出せずにいるのかもしれないと、僕は思った。
「いいんです。本当に。あの時、ここに来ることができなかったら、そしてもしも、そのまますぐに帰っていたら、僕はその後サリクスが与えてくれた大切なものを、全部受け取り損ねてしまうところだったんです。だから、本当に感謝しています。教授がしてくださったことを」
アルジャンはすこし目を見開いた。それから情けなさそうに笑った。
「ありがとう。ありがとう、リコ君。すまなかった……。私は、君が君であってくれてよかったと思う。私は本当に救われた。もしかしたら、私はサリクスも傷つけてしまうところだったのだから。君が賢く、愛情深い子で、本当に良かった」
アルジャンは今度こそ涙を流し、慌てたように目頭を指で押さえた。
「ああ、いかん。取り乱した。まだ泣くには早いな」
自分を奮い立たせるように明るい声を出し、背を伸ばしてアルジャンは天井を見た。そして深呼吸をした。
「サリクスは……今ではすっかり良き友人なわけだが、当時は、つまりあの子が学府にいた頃は、あまり一人の生徒に肩入れしてはいかんと思っていたんだ。だが、君ならわかってくれるかと思うが、昔からどうにも私は、あの子が好きでなぁ……」
彼はため息をついてから、思い出したように微笑んだ。
「サリクスが学府を去った後、残された実験器具などを私が引き取ったんだがね。あの子が知らぬ間に呪いをかけるのは、君も知っておるだろう?いくつかのものに呪いがかかっておったんだが、どんなだったと思うかね?――『大切に使われるように』だの『良い使い手の元にあるように』だの、そんなのばかりだった。ひとつ優美な注ぎ口のついた水差しがあってな、それには『口が欠けないように』と呪いがかけてあったわ」
呪いをかけるのにも手間が必要な普通の魔法使いは、滅多なことではそんな呪いはかけないものだ。よっぽど貴重なものに保護の呪いをすることはあっても、日用品にかかっているのはおおかた密かにかけられた邪な呪いであったりする。サリクスの呪いはさぞアルジャンを和ませたのだろう。そんな善き教え子の幸福を願う気持ちは、僕にもよく理解できた。
「あの子は名残惜しく手放すものに呪いをかけるようだ。これは魔力というよりは、思念が強いんだろうの。私はあの子のそういうところが好きなんだ。優しいが、とびきり意思が強いところがな。私から見て、あの子の最も良い素質は、魔力が強いことでも、頭が良いことでもない。特殊な能力ではもちろんない。そのまっすぐな心根ではないかと思うんだよ」
アルジャンの話を聞きながら、あの指輪にもその呪いがかかっていたのだと僕は思い出した。『この指輪が持ち主の手を離れることがないように』……。それはきっと『忘れないでいて欲しい』と言い換えることもできただろう。触媒のない呪いは、彼が秘めた願いの、切実さのあらわれだった。
「そしてリコくん。私はね、君にもあの子に似たものを感じておるんだよ。君はまだ駆け出しかもしれないが、きっと良い魔法使いになる。サリクスもそう言っておった」
老魔法使いは、そう言って再び僕の頭を撫でた。
「なぁ、若者よ。世の中には辛いことが多くある。しかし、どうかまっすぐであれよ」
アルジャンは食事のあと、夜にふたたびサリクスの部屋を訪ね、今度は僕も同席して話をした。
想像していた通り、一番喋っていたのはアルジャンだった。彼は最近見つけた、魔力を検知できる新しい素材について熱心に話した。サリクスも面白がっているようで、無責任とも思える提案をいくつか挙げてアルジャンを喜ばせた。
しかし、そのうち白熱してアルジャンは帳面になにか書きつけ出し、サリクスまでそれに加わった。静かで終わりのない議論が展開され、結局、僕が一番先に椅子で寝入ってしまった。あながち本当に、僕はアルジャンの体力を侮っていたのかもしれない。
「リコ」
翌朝、アルジャンが帰ったあとで僕がサリクスの寝室に入ると、彼が僕の名を呼んだ。これはちょっと珍しいことだった。
「なんですか」
心配になって寝台のそばに寄ったが、サリクスは薄く微笑んだまま僕を見ていた。僕は首を傾げ、なんとなくサリクスの手を取ってみた。彼は握り返してくるわけでもなかったが、僕はしばらくそうしていた。
「サリクスは、今でも一人の方が気楽ですか?」
純粋に、一人になりたい時には言って欲しいと思い、そう尋ねてみた。僕はサリクスのことを心配しすぎかもしれなかったし、彼がそれをどう思っているのかよくわからなかった。
けれどサリクスは静かに首を振った。それから僕の手を軽く握り返した。
「君がそばにいてくれたら、心強い」
その言葉が僕にとってどれほど嬉しいものか、サリクスは知ってて言ってくれたに違いない。けれど僕はうまく笑えなかった。嬉しすぎるとうまく笑えなくなるなんて、僕はそれまで知らなかった。サリクスは揶揄うように、涙ぐんで声も出ない僕の頬を撫でた。
「サリクスまで僕を子供扱いするんですか?」
僕は顔を伏せて、照れ隠しに抗議した。
「これは子供扱いじゃないよ。君こそ笑ってくれないのか?泣かせたいわけじゃなかったのに」
サリクスの甘い香油の香りがくすぐったくて、僕はやっと声を出して笑った。
「嬉しくて泣けてしまったんです。だから、これは笑っているようなものです」
「そうかな。ならいいけど」
「……僕、これからもずっとお側にいます」
「ありがとう、リコ」
僕が顔を上げると、サリクスはゆっくりと瞬きをして微笑み、僕の頬をもう一度指の背で撫でた。
サリクスの右腕が急速に腐り落ちたのは、アルジャンが帰ってから一月もたたないうちだった。
はじめは小さな綻びだった。彼の、前腕の皮膚が小さく捲れているのに気付いた僕は、嫌な予感がして治癒の魔法をかけた。しかし、それは次の日には潰瘍になり、出血しだした。僕は祈りながら再び魔法をかけたのだが、やがて急速に腐りだし、次の朝にはもう手の施しようがないことがわかった。
取り乱しながらも、僕はふたたびアルジャンに連絡を取った。今回は鳩ではなくて、アルジャンが置いて行った装置を使った。それは一見するとただの小さな呼び鈴だが、鳴らすとアルジャンが持っているベルに共鳴するという話だった。けれど応答はなかった。時間からすると授業や会議に重なって動けないのかもしれない。
サリクスはいまだに首飾りを必要としないほどの魔力しかなく、自分で治癒や復元の魔法をかけようともしなかった。ただじっと左手で右腕を押さえて横たわっていた。額に浮かぶ汗と固く閉ざされた目蓋だけが、彼が痛みに耐えていることを僕に知らせた。
僕はなかば無理やりサリクスの左手を引き剥がし、代わりに彼の腕を押さえた。そしてぐずついた感触に一瞬怯みながらも、復元の魔法をかけようとした。しかしそれはサリクスに遮られた。
「それはいらない」
僕は絶望のなかで彼の言葉をひたりと理解した。サリクスの苦痛に歪む顔を見て、彼の腕を見た。それから僕は、痛み止めの魔法を唱えた。万一の時のためにとアルジャンから教わったばかりのそれは、麻痺の応用で、本当にただ痛みを和らげるためだけの魔法だった。呪文を唱えながら、サリクスの胸や首の周りにも、変色や異変が現れているのに僕は気付いた。僕はとっさに固く目を閉じて、声が震えないように耐えた。
呪文を唱え終わると、サリクスはさきほど引き剥がされた左手で弱々しく僕の背に縋った。麻の襯衣越しに感じられるほど、その指は冷たく、震えていた。
しばらくの時間、部屋は静まり返った。やがてサリクスの緊張が解けて、すこし汗がひいたようだった。サリクスは小さく息をついた。そしてだるそうに目を開けた。
「リコ、もういいよ。痛くなくなった」
「馬鹿言わないでください」
魔法の効果なんですよ、やめたらまた痛むだけです、と言おうとしたが、生唾を飲み込んでいたせいで言い損なった。僕はサリクスの上に覆いかぶさるようにして、サリクスの左腕に両手を当てていた。僕の手も寝台も、血と体液で濡れていた。僕は慣れない魔法を維持するのに必死だった。
ところが、サリクスが僕の襟首を掴んだので、僕は体勢を崩した。サリクスはそのまま片手で僕の頭を抱き寄せた。
「こっちのほうがいい」
魔法は途切れてしまったが、サリクスが手を離してくれなかった。彼の
緩やかに波打つ丘の上の羊が見えた。連なる陰気な糸杉、うねりながら小山の向こうに消える小道、追いかける友人の背中、丘の上の教祠の門を飾る素朴な彫刻が朝日に輝き、刈入れの歌が聞こえた。秋の干し草の山、不器用な幼い手が編む柳細工、回る糸車の音……いつかサリクスを連れて帰るはずだった僕の故郷。記憶の中にしかない故郷。場違いに長閑で、平和な景色がそこにあった。記憶と現実の
「君の顔がよく見える」
我に返ると同時に、サリクスが満足げに呟くのを聞いた。そして僕の顔の上をサリクスの指先が辿っていった。かたちを記憶に刻もうとするかのような触れ方に、僕はただ口を閉ざして視界がにじむのを見ていることしかできなかった。
霧散していく命をいま一度掻き集め、この美しい人の中に戻して留め置く方法があるなら、僕はなんだってしただろう。いま悪霊が取引を持ちかけて来たらなんだってくれてやる。しかし悪霊も精霊も、僕らの前に現れてはくれなかった。僕はこぼれ落ちていくものをただ眺めていることしかできなかった。でもきっとそれでよかった。彼は人として生き、人として逝くのだ。
サリクスはかつて僕を残酷だと言ったが、僕を置いていくサリクスの方がよほど残酷だと思う。僕は彼を詰って縋りたかった。けれど、彼はずっと微笑んでいた。それがあまりにも綺麗で、僕は結局なにも言えなかった。
今やっとサリクスは、稀石を間に置くことなく、僕をその腕で捕まえた。サリクスには、もはや僕を消し炭にする力がない。感情が昂っても、ほんの少しも僕を害する恐れがない。彼はそれが嬉しいに違いない。そう考えると、僕もなんだか嬉しくて、にじむサリクスの微笑みに向かって精一杯笑いかえした。
やがてサリクスの指先が再び急に冷たくなり、一度震えて僕の頬の上で止まった。おそらく痛みのために、白い目蓋が彼の瞳を隠した。僕はサリクスの掌に右手を重ね、もう一度呪文を唱えなおした。
サリクスの心臓の音を聞きながら、やがてなにも聞こえなくなるまで、僕は魔法をかけ続けた。
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