第11話 故郷
サリクスが秘匿された稀石の話をしてくれたあとも、僕たちはできるだけ、それまで通りの生活を心がけて過ごした。毎日やることは多く、時間はあっという間にすぎていった。
日毎冷たくなる北風に急かされながら、僕たちは冬支度に追われた。冬になると山は雪で閉ざされてしまうらしい。サリクスはアルジャンから様々なものを融通してもらっていたし、いざとなれば魔法陣で学府へ行くこともできた。それでも、万一のためにと薪や炭を補充して、保存食も多めに準備した。それは高等魔法が使えない僕のためでもあったかもしれない。
もともと城には大量の薪が保管されていたが、念のために自分で山を歩いて集めたり、麓の村で買い集めたりもしたそれらを、よく乾かして屋内へ運んで積むのも一苦労だった。
やがて嵐がきて、雪が降り積もって根雪になった。冬が訪れたのだ。山は雪に覆われて、白地に針葉樹の黒い葉と裸木の描線ばかりになった。とりわけ明るい曇り空の日に城から望むその景色はさながら一葉の版画だった。
風は山肌を駆け下り、身を切る鋭さで城の外を吹き抜けた。冷え切った石の回廊を渡って『騎士の館』に通うのは、考えるだけで辛いことだった。けれど僕はちょうどその頃、サリクスに貸してもらった実験器具で試薬作りに励んでいたので、どうしても寒くて暗い回廊を行き来しなければならなかった。サリクスが暖かな毛皮の外套を貸してくれなかったら、きっと挫けてしまっていただろう。
長い冬のあいだ城の暖炉の火が絶えることはなかった。外は死に絶えたように静かで、ときどき物悲しい獣の声が聞こえた。一度、僕は騎士の館で居眠りをして寝過ごしてひどい風邪をひいた。それ以外はおおむね穏やかに日がすぎて、僕等は慎ましくも楽しく祭日を祝い、年を越した。
そうして遅い春が来た。寒さはまだ厳しかったが、着実に晴れ間が増えて、樹木の根元から徐々に雪が溶けはじめていた。
僕の試薬はサリクスの助言もあって、ひとまず区切りをつけた。結果から言えば失敗だった。けれどいくつも作った試作品のうち、ひとつだけ見込みのありそうなものがあったので、さらに素材を加えてみたり、温度を変えたり、配合を変えたりということを続けていた。
相変わらず、毎日試したいことが沢山あったし、雑多な仕事も山積みだった。けれど、僕はひどい寂しさに襲われて気持ちが塞いでしまうことがあり、そんな時はサリクスの工房で、彼の仕事を手伝わせてもらった。僕はこの工房の、ひときわ大きな暖炉のそばが一番心が安らぐのだった。
「サリクスは、僕が来るまでこの城に一人で、寂しくなかったんですか?」
今日も僕は『騎士の館』に篭る元気がなく、サリクスのかわりに護符を磨きながら尋ねた。サリクスは頭巾を脱いでいて、これから仕立てる宝石をルーペで覗いているところだった。
僕の方からは横へ流した前髪が目元を覆っていて、あまり顔がよく見えない。彼がいつも片目を隠すように前髪を下ろしているのは、人と目が合ってしまっても、片目ならばあの強引な異能を解除しやすいからだといつか教えてくれた。
「べつになにも思わなかったけれど……」
サリクスはルーペを置いて宝石を眺めた。彼の指の先で真紅の宝石がきらりと光った。
「でも、今思うと寂しかったかもしれないな」
「そうですよ。僕なんか『騎士の館』に一人でいるのだって静かすぎて寂しいのに。僕ならきっと半年くらいが限界です」
「君は友人が多そうだものね」
「田舎育ちだからですよ」
僕は、故郷ではいつも家族や友人がそばにいたことを思い出しながら答えた。
「そういう場所で人と関わらずに生きるのは、難しいことですから」
これは本当のことだった。けれど、僕はそれを疎ましく思ったことはない。サリクスも人が嫌いなわけではないと言っていた。人を避けてきたのも、おそらく止むを得ずそうするしかなったのだろう。
僕は自分の発言で彼を傷つけはしなかっただろうかと心配になって、サリクスを眺めた。そうやって僕がやや無遠慮に見つめても、サリクスがこちらを振り向くことは決してなかった。気付いていても、気付かないふりをしているらしかった。それがわかった今では、僕はもう遠慮もせずに彼の横顔を眺めたが、彼が振り返らないのはなんとなく寂しくもあった。
すっかり雪が溶け、気温が温まってきたのを実感できるようになった頃、サリクスは過去の資料を編纂し終わった。つまり、最後の稀石を試すときが来た。
「石の来歴と、以前たわむれに指にはめてみたときの経験から仮説を立ててみた。まずはそれを確認していくけれど、危険なのでこれは一人でやるつもりだ。山の北側で実験する。場所を教えるから、万一私が午後になっても戻らない時だけ様子を見に来て欲しい。他の時間には近寄らないように」
サリクスはいつもの調子で淡々と僕に計画を説明した。僕が不安そうにしていたらしく、彼はなだめるように付け足した。
「まだ身につけて試すようなことはしないし、慎重にやるから大丈夫だよ」
一月ほどかけてサリクスは用意した実験を一通りこなせたらしい。それを聞いた時、僕はほんとうに、心底ほっとした。毎日彼の帰りを待つのは気が気でなかったのだ。
その夜、サリクスは僕に帳面を示した。そこには、件の稀石がどういった魔法にどのような反応を示したかが書き付けられていた。この一月試していたのは、石にさまざまな魔力的刺激を与える実験だったようだ。
「そして、これはまだ仮定だけど、石の効果はおそらく《
サリクスはいきなり核心に触れた。
「基本的に、稀石は魔力がないとうまく扱えないから、いままで稀石を恐れず試した魔法使いは魔力に自信のある者たちだ。この石を調査した魔法使いたちも、みな力ある魔法使いたちだった。しかしそのせいで彼らは命を落とした可能性がある。この石はどうやら魔力を増幅するうえに、効果や向きも反転させてしまう。私が指にはめたときに現れた異常は反作用ではなく、自分の魔力自体が増幅し、逆流したのだろう。指輪を使ってなにかしようと思うよりも早かったからね」
そう言ってサリクスは自分の手元を見つめた。
「全て推測だけど、おそらく石はもともと小さなかけらだったのだろう。この石は物理的な衝撃も反射するようだけど、磨かれていた。研磨の衝撃の跳ね返りは、すぐにはそうと分からないかたちで職人を蝕んだのかもしれない。もちろん単純に魔力に当てられた可能性もあるが。とにかく、宝石商は危険性を知らないまま皇帝に献上したのだろうね。皇帝が命を落としたのは、おそらく自身の魔力が反転したせいではないかと思う。他の魔法使いもおそらくは同じだろう。最後の例は、石に加えられた物理的な衝撃が反転したのだと考えると筋が通る」
そこまで話してサリクスは珍しくため息をついた。
「まさか自分の魔力が強いために研究が困難になるとは。――けれど、稀石はけして人間のためにこの世に存在しているのではないからね。ただ自然のあるべき一つの姿としてそこにあるだけだ。今まで見つかっていた稀石が、偶然にも我々が利用できる性質を持っていただけのことなんだ」
ここからは詳しい効果や反作用について調べるつもりだと、サリクスは言った。つまり再び装着して使ってみなければならないのだと。
僕はこの期に及んで、まだどうにか彼を危険から引き剥がしたくて、思わず愚かな提案をした。
「動物実験とか、なにか他の手立てはありませんか」
「……普通の動物には魔力がないからね」
「竜を探し出すとか。竜には知恵もあるって聞きました」
「今では姿を隠してすっかり伝説になってしまった竜たちが、すぐ見つかるといいが」
サリクスは気のせいか悲しげな声でそう言って、すこし笑った。
結局、サリクスがありったけのキャパシタを身につけて試すことになった。魔力の貧弱な僕が試すことも提案したが、稀石自体が帯びている魔力が強いので、僕では触りが出るだろうからとサリクスは
「前も言いましたが、サリクスに何かあったときになにもできないくらいなら、巻き込まれた方がずっといいです」
「――まぁ、確かに山の中で倒れでもしたら、君に余計な迷惑をかけてしまうかもしれないな」
僕が頑なに主張すると、サリクスはそう言って提案を受け入れてくれた。実験場所は彼の寝室に決まった。寝室には魔力操作の魔法陣があるので他の場所より魔力が整うのだという。また魔力封じの結界も張ってあるので、多少のことなら外に影響が及ばないはずだった。
僕は記録係として起きたことを書き留め、サリクスを手助けする。場合によってはアルジャンへの連絡も僕の役目になった。
僕は念のため、魔力を相殺する護符でできたマント留めを身につけた。外から一定以上の魔力がかかれば、身代わりにもなってくれるはずだった。
「それでは試しにつけてみよう」
いつにも増して首飾りの音を響かせながら、サリクスは寝台に腰掛けた。最近では首飾りを減らしていたので、その音は一際大きく聞こえた。今の彼は、僕がここに来たとき以上の首飾りを身につけていた。
サリクスは珍しく手袋を使わず、肌に直接指輪を嵌めた。前回同様の急速な反応を警戒したのだろう。しかし、彼の長めの指にすんなりと嵌った指輪は、特に何事も引き起こさなかった。
「どうやら出力と反射量がうまく拮抗したようだ」
息を詰めて見守っていた僕は、ひとまず胸を撫で下ろした。
これで数週間から数ヶ月のあいだ様子をみて反作用を確認し、そのあと効果を確認する計画だった。その間、サリクスは一切魔法を使わないようにするつもりだと言った。
「サリクス。そういえば結界や城の魔法は、その稀石に影響しないのですか?」
「城を維持するための術はキャパシタを用いた装置で半ば自動化されている。私になにかあってもしばらくは動くよ」
僕はそんなことができるのかと感心する他なかった。
それからサリクスは寝室で過ごし、僕は食事を作ったり、工房で自分にできる仕事をこなした。たまに寝室をのぞいてサリクスの様子を確認したり話し相手になる他は、できるだけ彼に近づかないようにした。
思ったよりも平穏に一週間ほどが経ったある日、サリクスの手に異変が現れた。指輪の周りから徐々に皮膚が波打ちだし、やがて木の葉に生じる虫瘤のようにボコボコともりあがった。それは彼の形の良い手を醜く歪に変え、やがて指先へ、また手の甲へと広がり出した。
数日様子を見たあと、サリクスは次の段階に進めることにしたらしい。夕方ごろ、筆記具を持ってくるように言われた僕は、ばら紙とインクや
「反作用だろう。さすがに出現が早いね。そういえばすこし熱っぽくもある」
僕は指示されるまま、サリクスの手の異常を図と文とで書き留めた。
「なにか魔法を使ってみよう。反転しても害のなさそうな……光でも出してみようか」
サリクスはそう言って、僕を部屋の端に遠ざけ、自分は寝台の上に脚を崩して座った。そして、僕にも見えやすいように腕まくりをして手をかざした。彼が呪文を唱えると指輪がかすかに光った。禍々しく、青く揺らめく光だった。
次の瞬間、鋭い破裂音が響き、サリクスの膝や毛布の上に煌めく破片が散らばった。――浄化の腕輪と、首飾りの稀石が砕け散ったのだ。
見る間にサリクスの指輪を嵌めた手が青黒く変色し、そのあとから表面を赤い亀裂が走った。そして熟れすぎた果物をつぶしたときのように血が吹き出した。変色と亀裂は、蔦が蔓を伸ばすように枝分かれしながら腕を駆け上がって、一瞬でサリクスの肘に達した。
筆記具を放り出して駆け寄った僕が指輪を引き抜いたのと、サリクスが気を失って倒れ込んだのはほとんど同時だった。
「サリクス……!」
僕は指輪を毛布の上に投げ捨てて彼の肩を抱き起こした。右腕の袖を捲ってみると、すでに肘の上も侵されていた。僕はあわてて、やや乱暴に長衣をはだけさせた。異変は彼の肩口ちかくにまで達しているのがわかった。ついでに胸元に火傷跡のような異変があるのを視界に捉えながら、僕は治癒魔法を唱えた。しかしすぐに効果が芳しくないことに気がついた。
前回は、おそらく魔力の逆流によって血管などが損傷したようだったが、今回はすこし様子が違う。魔法が影響して、なにか良からぬ効果が加わった可能性があった。しかしなにがどうなったのか見当もつかない。光を出そうとしてそれが反転するというのはどういうことなのだろうか。そもそも光がなんであるかが分からない。
僕は治癒の魔法をかけながら必死で考えた。このまま続けてもきっとだめだ。けれど僕の手札はあまりにも少ない。いったいどうすればいいのか?何をすれば?這い上がってくる焦りと混乱を振りほどき、けれどこめかみを伝う冷たい汗が僕から冷静さを奪った。寒い。少し目を上げて暖炉の火を見た。いつも通りの温かな炎の色を見て、この寒さは精神的なものだと僕は自分に言い聞かせた。
そのとき、暖炉で薪が崩れた。わずかな火の粉がチラチラと舞いながら冷え、燃え尽きて消えた。炎、火、光、日差し。熱……。サリクスの手の温度を、僕は思い出した。熱。温度。エネルギー……?
サリクスの手を見た。指先の皮膚は形を失い出し、血が滴っている。まるで形を保つのを諦めてしまったようだった。
僕はとっさに治癒魔法を取りやめて、復元魔法に切り替えた。
そんなことがあるのかはわからないが、生命を維持するエネルギーそのものが損なわれたのかもしれないと僕は思った。そのために肉体を組織する均衡が失われてしまい、さらに魔力の逆流で損傷を受けたのだとしたら。――おそらくもう手遅れだ。すでに機能を停止した肉体に対して、自然治癒を促す回復魔法をかけても効果があるはずはない。
復元魔法は本来なら物に対して使われる魔法だが、サリクスは反作用の治療のためにこれを自分にかけたことがあると言っていた。前回、サリクスが倒れた後に新しく覚えた魔法だった。
幸いこれは手応えがあった。原因はともかく、物質をすこし前の状態に戻すこの魔法は高等魔法の範疇にある。時間が経てば立つだけ復元は難しくなるはずだった。僕の弱い魔力では時間との勝負になる。ある程度復元できれば、サリクスが自分で治すこともできるだろうが、まずそこまで回復してもらわなくては話にならなかった。
僕は首に下げた翠玉の護符を手繰り寄せた。復元の詠唱は終わっている。サリクスに触れた右手でそれを維持したまま、僕は魔力操作の呪文を唱えて印を切った。練習では集中が途切れてしまって出来たことがなかったが、奇跡的に重ね掛けがうまくいったのがわかった。これで魔力の流れを整え、散逸する魔力を抑えて効果を増幅することができるはずだ。僕はあらためて全神経をてのひらに集めた。
真夜中に一度力尽きて、僕は倒れ込んだ。激しい目眩を感じながらもなんとか体を起こして彼の手や腕を探ると、体温が戻り、脈を打っているのがわかった。念のため胸に耳をつけて、サリクスの呼吸と心音を確認したところで安心して、すこし眠ってしまった。
朝方に目覚めた僕は、サリクスがまだ意識を取り戻さないことに焦り、よろよろと身を起こしてアルジャン宛に鳩を放った。それから再びサリクスに治癒魔法をかけた。
彼が意識を取り戻したのは翌日だった。
「また君に助けられてしまったのか」
彼の胸の上に倒れ込んだ僕の頭を片手で抱きながら、サリクスはぼんやりと、気の抜けた言い方で呟いた。
僕は笑ったつもりだったが、声が出なかった。
「――そのために、僕はここにいるんです」
振り絞った声はかすれきっていた。サリクスの耳に届いたかどうか定かではなかったが、僕はそのまま眠ってしまった。
数日を経て僕はだいぶ元気を取り戻したが、サリクスの状況は芳しくなかった。あのあと、調べてみると僕の魔力相殺の護符も割れてしまっていた。サリクスによると、どうやら魔法が反転する時に強い余波が放たれ、それが魔力を吸収する性質をもった他の稀石を割ったらしい。
僕は毎日サリクスに回復魔法をかけたが、以前と比べても回復が遅いのが目に見えてわかった。僕は内心途方に暮れていた。近いうちにアルジャンが様子を見に来てくれるはずで、それだけが心の支えだった。
「こんなことなら、もう少し明るいヴェールも用意しておくんだった」
サリクスは寝台に横たわったまま力なく呟いた。実験中から、暗い寝室ではヴェールの向こうがよく見えないとぼやいていたが、事故のせいで缶詰の期間が伸びたので不満が募っているのかもしれない。
寝台の横で読書をしていた僕は顔を上げてサリクスを見た。
「席をはずしましょうか?」
「いや、そういうことではない」
「いっそ取ってしまったらいいのでは?」
「君の過去が覗けてしまう」
「僕は構いませんよ」
「――」
サリクスは驚いたように口籠ったが、ややあって呟いた。
「私が見たくないんだ」
「それは……失礼しました。でも、僕の父のことなら、あの、気に病むことは……」
とはいえ気分の良い物ではないだろうことは僕にもわかった。無理強いするのは控えようと思い口を閉ざしたが、意外にもサリクスが言葉を返した。
「そうではなくて……」
サリクスにしては珍しく、躊躇いがちな言い方だった。
「勝手な話だけれど、私は、リオと――君のお父上との思い出を、自分の故郷だと思ってきたんだ。私には故郷がなかったから」
サリクスは胸の上で手を組み、銀糸の刺繍が施された蔓草模様の枕に頭を預けたまま、天蓋を眺めているようだった。その厚い枕と、彼のうすい両肩を覆う絹の上を、黒い髪が柔らかに、美しく流れているのを僕はなんとなく見つめた。
「あの子は今頃どうしているだろうか、あの村の景色は変わっただろうか。いつか、きっとまた会いに行こうと、そんなふうに。けれど、君の過去を見て彼が死んだことを知った時、私の故郷は、もうどこにもないのだと……」
それは弱々しい言葉だった。僕は自分が知らぬうちに、彼をそれほど傷つけたことを今はじめて知った。出会った時の、彼の抑揚のない声と彼が持ってきたスープの味を思い出して、僕は胸がつまり、思わず下唇を噛んだ。
サリクスがそんなふうに思っていたのを知っていたら、僕は指輪を持って会いに来たりしなかった。指輪を見せなければよかった。
けれど、もしもあの時、指輪を持ってサリクスを訪ねなかったら、こんなふうに彼のそばにいることも叶わなかったのだ。
「サリクス、やっぱりヴェールをとりませんか」
彼は首を傾けて僕を見た。
「僕の過去を見てもらえませんか。今度は僕の思い出を、僕とあなたの故郷にできないでしょうか」
言いながら、自分の言葉にひどいお節介だと思った。それがサリクスにとって慰めになるのかどうかもわからなかった。けれど、故郷がないという言葉に纏ろう寂しさが僕にそう言わせていた。
僕は故郷を出てからのこの数年、環境にも人々にも十分恵まれていたと思う。それでも、ときおり疲れと寂しさを感じることがあった。そんな時に思い出す故郷の記憶が、どんなに僕を慰めてくれたかわからない。帰る場所があるということは、きっと本当に幸福なことだと思うのだ。
「村を出る時の僕を知って欲しいんです。あなたを探し出すために家を出たんですよ。――本当は、村を出るのはとても怖かったんです」
僕は本を置いてサリクスのそばに座り直した。
「あなたさえよければ、そうしてください。僕は、あなたに隠さなくちゃいけないことなんか何もない」
「……本気で言っている?」
「もちろん」
サリクスは戸惑っているようだったが、やがて頭巾に手をかけた。しかしそのまま止まってしまった。僕は笑って手を伸ばし、努めてゆっくり彼の頭巾を取った。
深い闇色の瞳との三度目の邂逅は、幸福なものだったと思う。相変わらず不快に耐えながら激流のような流れに身を任せていると、故郷の何ということもない日常や、祭りの準備の光景、春の野山や夏の夕焼け、小川の輝き、釣り場の柳が風に揺れる様子などが現れては消えた。些細な原因の兄弟げんか、糸を紡ぐ母の姿、弟の寝顔、食卓のランプ、無数の記憶がかすめていったが、どれも温かな色彩を帯びていた。やがて突然ふわりと解放されて意識が寝室に戻った。
サリクスの瞳の中に僕がいた。彼の瞳はもう僕の過去を暴かなかった。サリクスは驚いたように僕を見ていた。
「勝手に止まるんだな……いつも無理やりに視線を外していたから知らなかった」
「それはよかった。あなたの瞳がそうしたがっている間は、何度でも見てくださいね。本当にあなたものになるまで、何度でも。あの村は今もあなたの故郷ですよ。今度一緒に帰りましょう。きっとみんなあなたの訪いを喜びます」
サリクスはほんの少し目を細めた。
「君は、ほんとうにリオに似ているね……ほんとうに、そっくりだ」
まろやかな白い目蓋が彼の瞳を覆い、睫毛が頬に影を落とした。彼はさびしげに淡く微笑んでいた。
「別れ際に、彼が言ってくれたんだ。君の友達がいるこの村を、君の故郷にしたらいいよ、と」
僕は父のことを思い出して微笑んだ。父はそういう人だった。
「実は、君がここにやって来た時、私はリオが訪ねてきたのかと思ったんだ。恥ずかしいけれど、私は、度々自身に再生や復元の魔法をかけてきたせいで、年齢相応の見かけというのを忘れがちになる」
サリクスはどこか気まずそうだった。
「普通はもっと、自分くらいの年齢だと威厳が出るんだろうにね」
「サリクスは顔に皺なんてなくたって威厳がありますよ。僕は今のサリクスが好きです」
言いながら、自分でも照れ臭くなって僕はそわそわと立ち上がった。
「せっかく邪魔なものを取ったんです。本でも取ってきましょうか?」
「いや」
僕は思わず首を傾げた。
「じゃ、なにかカードでも?」
「……なにかする気力はまだないな」
「てっきりなにかやりたい事があってヴェールを取りたいのかと思っていました」
しかしサリクスは僕の顔を見て微笑んだ。
「ちがうよ。君の顔が見たかったんだ」
不意を突かれて口籠った僕は、相当面白い顔をしていたらしい。
「ほら……君を見ていると飽きない」
無邪気に笑うサリクスは少年のようだった。もう少し僕が冷静だったら見惚れていたかもしれない。けれど僕は動揺のあまり彼を直視できなかった。
「今までサリクスはヴェール越しに、安全に僕のことを眺めて楽しんでいたんでしょうけど、これからは僕だってあなたの顔が見れるんですからね!僕は今までの分もあなたのお顔を見ますから、覚悟してくださいよ!」
僕は混乱してよくわからない事を口走ったが、サリクスは「楽しみだな」と言って、また笑ったのだった。
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