+++17アイスクリーム+++

晴丸

+++第1話+++



 たとえばの話をしよう。

 たとえば。

 この世界には、僕らにはどうしようもできないことがたくさんある。

 たとえば、天気予報が外れて雨に降られるだとか、不慮の事故による怪我だとか、叶わずに終わった初恋だとか。

 小さなコトから大きなコトまで、それはそれはたくさんの『どうしようもないコト』がこの世界には溢れている。

 それでも、幼い頃の僕らはそんなことにはまるで気づかずに『出来ないことなんて無い』って信じて疑わず、がむしゃらに頑張って、不思議とそれでなんとかなってしまっていた。

 でも、僕たちは大きくなるにつれて気づくんだ。努力なんかじゃ『どうしようもないコト』ってのがこの世界にはあるんだって。

 僕たちにはどうすることもできない、本当にどうすることも出来ないコトがあるんだって。

 それを知った時。そしてそれが僕自身に襲いかかってきた時。僕は初めてそのことを実感した。

 けれど。そんなことはわかっていても。どうしようもないほど実感しても。

 それでもなお、その事実を受け入れられない時はどうしたらいいのだろう。

 たとえば、初恋の相手の家庭教師の女子大生が、教え子の男子高校生の子どもを妊娠して姿をくらましたとか。

 たとえば、ちょっと意地を張ってしまったがために、足を一生引きずってあるくハメになったとか。

 そんな、どうしようもないとわかっていても受け入れたくない出来事が起こった時は。

 

 どうしようもなくなった僕が選んだ答え。

 それは『あきらめる』ということだった。


 +++


「あっちぃ……」

 僕——江川春巳(えがわはるみ)——は、クーラーの効いた屋内から外に出て、むわっと襲いかかってきた熱い空気に、思わず声を上げた。

 季節は夏。夕方6時でも空はまだまだ明るく、路面のアスファルトが昼間吸った熱をはき出して、気温はいっこうに下がらない。

 あまりの暑さにげんなりとしながらも、僕は家に帰るため足を進めた。

 制服であるワイシャツの襟元のボタンを開けて、パタパタと風を送ってみても焼け石に水。まったくもって涼しくならない。むしろ生暖かい風が服の中に吹き込んで気持ち悪いだけだ。

 気怠く足を引きずりながら歩くことわずか数分で、それまでクーラーで冷やされていた僕の身体はあっという間に熱せられ、ぶわっと汗が噴き出して。

「やばい……このままじゃ死ぬ……」

 本気でそう思った。

「自販機……自販機……」

 とにかく冷たい飲み物が欲しかった。幽鬼のようにつぶやきながら、自販機を求めてふらふらと歩いていると、僕は通りの反対側に一台の自販機を見つけた。

 ところで。

 自販機、っていうのは『自動販売機』の略なわけで『自動販売機』っていうのは『自動で何かを販売している機械』という意味であって、必ずしもそれは飲み物を扱っているわけではない。

 なんて悠長な前置きはどうでもいいのだけど、そこにあったのはつまり、自販機は自販機でも『17アイスクリーム』の自販機だった。

『17アイスクリーム』——プールや駅のホーム、ゲーセンの中等々……あの自動販売機でしか売ってないアイスクリームである。

 そしてなにより僕にとって『17アイスクリーム』は、初恋の思い出が詰まった品物だ。

 僕にとっての初恋は、中学二年の夏。14歳の時。そのとき家庭教師をしてくれていたお姉さんが相手で。

 彼女が勉強の合間の息抜きに買ってくれたのがこの『17アイスクリーム』で。彼女はこの『17アイスクリーム』が大好きで。

 だから僕はこのアイスを食べるたびに思い出すのだ。

『初恋の相手の、その家庭教師のお姉さんが、教え子の男子高校生と駆け落ちしていなくなった』

 という苦い、苦い初恋の結末を。

「…………」

 そんな17アイスクリームだから、普段だったら避けて通るところなのだけど。

「あつい……」

 アスファルトから放たれる熱と空気のぬるさに僕はもう限界で。

「……買う……か」

 17アイスクリームには嫌な思い出があるけれど、この暑さではそんなことも言ってられない。

 買おうと思って通りを渡るため、横断歩道へと向かった。

 思い出は最悪だが、17アイスクリーム自体は僕は好きなのだ。失恋以来、数年食べていないけれど、今でもあの味は思い出せる。

 それを思い出したら、急激に17アイスクリームが食べたくなった。『飲み物の代わりに欲しい』程度だったのが『どうしても食べたい!』に変わっていった。

「アイス……アイス……17アイスクリーム……」

 取り憑かれたようにぶつぶつとつぶやきながら通りを渡るため、うだうだと足を引きずりながら横断歩道へと向かう。

 横断歩道で信号に引っかかり、そこで信号が青に変わるのを今か今かと待っていると、

「え〜、マジ? ちょっとそれありえなくな〜い?」

 ……チッ。

 後ろから聞こえてきた声に、僕は舌打ちをした。

「アハハ、えー嘘っしょ〜?」

 チラリと後ろを伺う。

 そこに立っていたのは、派手なメイクに、夏服のシャツのボタンを2つ外し胸元を大きく開けて。スカートはめちゃくちゃ短くて。いかにも遊んでそうな——僕が一番嫌いなタイプのイマドキな女子高生だった。

 しかも、その制服は僕の通っている学校のもの……というか、クラスメイトだ。あの派手な容姿は間違いない。向こうに気づかれたくないからもう一度振り返って確認なんてしないけど。

 こんなやつに学校外で会うなんて……そんな思いを感じつつ、とにかくアイスだ、アイス、と気持ちを切り替えて。僕はその女子高生から可能な限り離れたところで信号が変わるのを待つ。

 信号が青になると同時に僕は横断歩道を渡り、自販機へと向かう。

 アイス、アイス、アイス……そう念じて、足を引きずりながら懸命に歩く。それにしてもなんて暑さだ。自販機まではそんなに距離がないはずなのに、アスファルトから立ち上る陽炎で揺らぐ自販機は遠く思えて。

「……はぁ」

 ため息をついた僕は歩調を緩めた。

 別に自販機は逃げやしないのだ。無駄に急いで熱くなる必要なんて無い。ゆっくり歩いていけばいいのだ。ゆっくり。

 そう思い直して僕はさらに歩く速度を落として、自販機へと向かった。

 ほら、どんなにゆっくりでも、一歩進めるたびにちゃんと近づくのだ。あと20メートル……あと15メートル……あと10メートル……よし、あと5メートルで17アイスクリームの自販機に辿り着く。ほっと一息ついた、そのとき。

 ひょい、と。

 先ほどの女子高生が僕の横を追い抜いて。彼女はそのまま17アイスクリームの自販機の前で足を止めた。

「…………」

 クソ、と声を出すのはなんとか押しとどめた。横入りしやがって、と罵りたい心境だけど、自販機との距離を考えると別にそういうわけでもなく、単に僕がとろとろと歩いていたのが悪いわけで。

「はぁ」

 かわりに深いため息を一つ。なんとなく釈然としないが、一度買おうと思って自販機に近づいた手前、このまま去るのは嫌だった。彼女に気づかれるリスクはあるがそれでもこのまま去りたくはない。

 僕はその女の斜め後ろ、少し離れたところに立って待つ。

「うんうん、はい、じゃ〜ね」

 そんなことを言って電話を切ったその女は、長ったらしく迷った後、ボタンを押した。そして、出てきたアイスを取るためにかがみこむ。その拍子に短いスカートがさらに上がって、ふともものギリギリまでを見せつける。

 あらわになった真っ白な太ももにドキリとして、自分の視線が釘付けになっていることに気づいた僕は慌てて視線を逸らした。

 所在なく、なんとなく後ろを向いてみたりして気持ちを紛らわせて。

 再び前を向いた僕と、立ち上がり振り返ったその女の目が合ってしまった。

「あれ、江川じゃん」

 ……チッ、やっぱ気づかれたか。

 憎ったらしいその女は、クラスメイトの沢村夏希(さわむらなつき)。

 学校ではまず話さない部類の相手である。それでも彼女の名前を覚えているのは、こいつが目立つヤツだからだ。

 沢村は派手な女子のグループの中心にいて、いつもいろんな男達に囲まれている、そういうヤツで。学祭でミスコンに選ばれるようなヤツで。

 化粧なんてしなくても十分きれいなその顔を、メイクでさらに派手にして。スカートは膝上十センチ、ワイシャツのボタンも二つ外し胸元を大きく開いて。ゆるくパーマを当てた髪は、教師にうるさく言われない程度に茶色に染めてあって。

「後ろに誰か突っ立ってるから変質者かと思って焦ったじゃん……っていうかもしかしてアンタ、スカートの中のぞこうとしてた?」

 うげぇ、と顔をゆがめ、サイテー、と沢村は言った。

 自意識過剰でいかにも『イマドキの女子高生』って感じの、僕が一番嫌いなタイプど真ん中のヤツだ。

「なんか答えろっての。ねぇ、江川、アンタもアイス買うんでしょ?」

 無視しても後で面倒なので、軽くうなずいて僕は沢村から目をそらすと、目的であったアイスを買うために財布からお金を出して自販機に投入。

 さて、なにを買おうか。

「…………」

 隣から視線を感じて僕は仕方なくそちらを向いた。

 早く立ち去れば良いのに、なぜか沢村は僕が買うのをじっと見つめていた。

「ねぇ、どれにするの? 買うんでしょ?」

 おまえがいなくなるのを待ってるんだ、とは言えない。

「迷ってるならコレにしなよ、コレ」

 沢村はそういいながら僕の横に身体を並べて、アイスの写真を指さした。ふわり、と沢村から甘い匂いがした。香水なのかシャンプーなのか、それは決して嫌みというほど強くなくて、こちらの脳髄をくすぐった。

 同時に目に入った沢村の大きく開かれた胸元から覗く胸の谷間に、どうしようもなく『女』を感じて、僕は思わず身を引いた。

「? コレでいいっしょ? いいね。はい、けって〜い!」

 僕の行動にちょっと首をかしげた沢村は、そう言うと勝手にボタンを押してアイスを買いやがった。その味は、ワッフルコーンショコラ。僕が17アイスクリームの中で一番好きだけれど、一番嫌いな思い出の味。

「ハイ、オッケー、っと」

 出てきたアイスをかがんで取り出した沢村は、それを手にそのまま立ち上がって。

「よしよし、じゃあ食べよ」

 そう言うと、僕のアイスを持ったまま、となりにある公園へと入っていった。

「は? おい……えっと、沢村サン……?」

 呼び止めた僕を沢村は振り返って、嫌そうな顔をして。

「沢村サン、とかやめてよ。同い年でクラスメイトなのにその呼び方って、なんかきもい」

 きもい、とばっさりと切り捨てられて思わず僕は立ち尽くした。

「ほら、早くきなって。アイス溶けちゃうじゃん」

 そんな僕に沢村はそう言うと、さっさと公園へ入っていってしまった。

 彼女があまりにも当たり前にそう言うので、なんで一緒に食べなきゃいけないんだ、という疑問を持つ僕がおかしいのか、という気にすらなってくる。

 とにかく僕は盗られたアイスを追いかけて公園へ入り、沢村の後をついて行った。

「ここで食べよ?」

 公園のベンチに座った沢村はそう言うと、持っていた僕のアイスの包装紙を勝手に取って。

「はい、どうぞ」

「…………」

 勝手に包装紙を開けたことに対して文句を言おうかと思ったけど、どうやら沢村は親切のつもりらしくて、僕はなにを言ったらいいのかわからなくなった。仕方なく僕は黙ってアイスを受け取る。

 沢村は自分の分のアイス——とちおとめを使った苺味——の包みを開けて、うれしそうに目を細めて。

「いっただっきま〜す」

 ぱくり、とアイスにかぶりついた。

「ん〜冷たくて、おいしぃ〜」

 目をぎゅっと閉じて食べるその仕草がふと誰かに重なって、僕の目は沢村に釘付けになった。

「なにやってんの江川、溶けちゃうよ?」

「あ……ああ」

 怪訝そうに沢村に言われて僕は慌てて自分のアイスに口をつけようとして。

「……なんだよ」

 視線を感じて、動きを止めるとそう聞いた。

「わかるっしょ? ちょっと味見させて欲しいな〜って」

 ダメ? と上目遣いに伺ってくる沢村に、こいつは自分のかわいさとか魅せ方ってのを理解してて、いつもこうやって男に対してそれを使ってんだな、と関係ないことを思った。

「ねぇ、どうなの?」

「…………」

 む〜、と不機嫌な沢村に、無言でアイスを差し出す。パッと沢村の顔が輝いた。僕の差し出したアイスをパクッと食べた沢村はぎゅっと目を閉じて、「ん〜」とうなりながら首を振り。

「こっちもおいしい〜、江川がこれ買ってくれてよかった〜」

 おまえが勝手にボタンを押したんだろ、とツッコむべきなのだろうか。

「はい」

「?」

「おかえし。一口どーぞ」

 そう言って差し出された食べかけのアイスに僕の体はピタリと固まった。

「なにためらってんの? あ……もしかして間接キスとか気にしてるワケ? キモ」

「チッ」

「なによ、冗談だっての! 舌打ちしなくたっていいじゃん……食べたくないならないで、別にいいケドさ……」

 唇を尖らせてすねるようにそう言った沢村は、それっきり口をつぐんで、いじいじとしながらちょこちょことアイスを舐めていた。

 それから僕たちは二人で並んでベンチに座ったまま、黙ってアイスを食べていたのだけど。

「ねぇ……江川ってどういう女子がタイプなの?」

「は?」

「あんた普段いっつもぼっちでネクラっぽいし、かといってオタクのグループにいるわけでもないし? どういう女の趣味してんのかなぁ〜って」

 ほっとけ、という言葉を飲み込んだ僕は褒められてしかるべきだと思う。

 どうしてこの手の女子は『ただ事実を言っただけ』というようにナチュラルに他人をディスれるんだ? いや、たしかに僕はクラスにこれといって仲の良いヤツはいないしネクラでぼっちだが、たいして会話したこともないクラスメイトに言われるほどヒドいとは思わない……え、そうだよな?

「あ、ひょっとしてなんか勘違いした? そういうんじゃないし、別に深い意味はないから、そんな悩まれると困るんですケド」

 自身のクラスでの立ち位置を反省する僕を勘違いした沢村は手をヒラヒラさせて言った。

 ……こいつ、ホントになんなの。

 僕はやや腹立ちながら、言い返してやろうと口を開く。

「…………とりあえず、おまえみたいなのとは正反——」

「あ、電話だ。もしもし?」

「…………」

 自分で聞いといて、相手が答えてる途中に電話に出るというのはいったいどんな了見だ、と問い詰めたいがムキになったら余計に負けな気がして僕はただ押し黙る。

「うん、うん、今ちょうど……そうそう。うん、はいは〜い、わかった。すぐいく〜」

 声色から察するに、電話の相手は男かなんかだろう、ビッチめ。こういうヤツは、そのうちいい加減な男に孕まされて泣くことになるのだ。勝手にしやがれ。

「じゃ、わたし行くから。アイスさんきゅ! じゃあ、また明日!」

 大きく手を振って走り去る沢村を黙って見送った。

「…………」

 はぁ。と一つ僕は大きなため息をつく。

 妙に疲れた。

 一人になった公園で大きくのびをすると、手に持っているアイスが溶けかけてこぼれそうになった。

 あわてて僕はアイスを口に運ぶ。

「……ん」

 口の中に広がったワッフルコーンショコラは、昔の記憶よりも少しだけ甘く感じた。

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