わたしから、あなたへ

 パソコンから視線を上げると、教室の窓から空が見えた。

 初夏の透明な青空、柔らかな陽射し。開け放った窓から吹く風に、クリーム色のカーテンがふわりと膨らむ。

 記憶の中の教室の風景と、目の前の風景が重なり合う。一瞬、今がいつなのか分からなくなる。


 「先生」


 現実に引き戻す声に振り返ると、ニコニコと微笑む男性教諭の姿があった。石倉先生はベテランの学年主任だけれど、気さくでよく声をかけてくれる。身内のような余所者のような、学校の中ではまだ微妙な立場にいる私にとって、ありがたい存在だ。

 「咲田、今日も来ましたよ。G.W.明けだから登校できるか心配でしたけどね。2年になって、いい調子です」

 「よかったですね。先生も、こまめにお母さんとやりとりされてますもんね。お母さん、欠席連絡して下さるようになりましたし」

 「いやいや、先生がよく訪問して下さるからですよ」

 「いやいや」

 私と石倉先生は、笑い合う。

 咲田さんは、石倉先生が二年続けて担任をしている生徒だ。去年、「中学校入学後、欠席が続いているから家庭に関わってほしい」と私に依頼がきた。人との関わりが苦手なお母さんと連絡をつけるのは一苦労で、訪問しても会えないことが続いた。先生と愚痴をこぼし、知恵を絞りながらやってきたケースだ。一年かけて、少しずつお母さんも打ち解けてくれるようになり、咲田さん本人とも会えるようになり。登校日数も徐々に増え、みんなでなんとかここまでやってきたのだった。

 「スクールソーシャルワーカーの先生って、ありがたい存在ですね。全てを教師だけで背負うことは不可能ですから。先生には、お世話になりました」

 「そんな……ありがとうございます」

 石倉先生の丸い眼鏡の奥の瞳が、優しく私を見る。

 「再来週まででしたっけね、先生の勤務」

 「はい。咲田さんには、今日伝えるつもりです。面接の約束をしているので」

 「そうですか。……また戻ってきてくださいね、先生。お待ちしていますから」

 石倉先生の言葉に、いろんな思いが込み上げる。私は頷き、深く頭を下げた。



 私は現在、スクールソーシャルワーカーとして中学校で勤務している。大学で福祉を専攻し、社会福祉士の資格をとり、学校現場に入った。「関係機関と連携し、環境を調整する福祉の専門家」とはいえ、大学を卒業したばかりの頃は戸惑うばかりだった。数年毎に異動を繰り返し、今の学校で四か所目。一年が経ち、だいぶ動きやすくなってきたところだ。

 私個人にも、いろんな変化があった。新しい苗字になり、初めて自己紹介をした時のことはよく覚えている。少しざわめいた子ども達に向かって、「変わった苗字ですよね」と説明をした。神様の前で、身を清める場所。あの日、彼に教えてもらったこと。

 私は手元のパソコン画面を閉じ、そっと立ち上がった。ここの職員室は、いつも静かだ。雑談をする人はあまりいなくて、皆黙々と仕事をしている。私もなるべく音を立てないようにしながら、出入口へと向かう。

 同じ中学校でも、それぞれでガラリと雰囲気が違う。校長先生はどんな人なのか、職員室の先生達は。様子を見ながら、話ができる先生を見つけ、関係を繋いでいく。職員室にも、人間模様がある。そろそろと、じっくりと、自分の居場所を確保していく。

 大人になって気付いた。職員室ここも、学校の教室の一つだったのだと。



 立ち寄った保健室に、養護教諭の姿は見えなかった。カーテンが閉まったベッドの向こうから、微かな話し声がする。どうやら具合が悪い生徒の対応中らしい。保健室登校の生徒の様子を聞きたかったのだけれど、出直すことにする。

 真っ白で柔らかな保健室の空気は、どこの学校でも変わらない。ここに来る度、胸の奥がツキンとする。遠い日の記憶が甦る。ベッドのカーテンの奥から現れた、華奢な腕。涙に濡れた瞳。



 千津ちゃんとは、今も手紙のやりとりを続けている。お互いスマートフォンも持っているのだけど、私達には手紙の方が合うらしい。ポストに見慣れた小さな文字を見つけると、思いがけないプレゼントのようで、嬉しくなる。

 千津ちゃんは今、沖縄にいる。大学進学を機に移り住み、その土地に強く惹かれたらしい。千津ちゃんの手紙に綴られた風景。荘厳な御嶽うたき、有刺鉄線越しに望むジュゴンの海。「私はこういう場所があるって、知らなかった。もっとこの土地のことを知りたいし、考えたい」。そう千津ちゃんは言っていた。最初は会社勤めだったのだけど、脱サラしたと便りが来た時には驚いた。コツコツ貯めた資金で、素泊まりのゲストハウスを始めたらしい。

 去年遊びに行ったけれど、こぢんまりした宿は、千津ちゃんらしいあたたかさに満ちていた。受付で微笑む小さなシーサー、ベッドに置かれた月桃の匂袋。シンプルな部屋の窓からは、透き通る海が見えた。吹き抜ける風、波の音。余計なものを手放して、自分自身に還っていくような気がした。

 経営は楽ではないのだろうけど、リピーターのお客さんも出てきたらしい。「疲れたら、ちょっと休みに来る。そんな場所にしたいの」と千津ちゃんは話していた。新たな土地で根を張って頑張っている彼女に、私も励まされた。

 


 静かな廊下に、チャイムの音が響いた。授業が終わった教室にざわめきが溢れ出す。女子生徒が数名、教室から駆け出してきた。笑いながら、私の横を通り過ぎていく。

 遠ざかる背中に、セーラー服の少女の姿が重なる。肩についてはいけなかった髪、周りに合わせていたスカートの丈。振り返った彼女が、立ち止まる。私達は見つめ合う。懐かしいのに、遠い面影。

 ……あなたは、かつての私。


 いつか遠い未来の瞳が振り返った時。今の私は、どう映るんだろう。


 あの頃、胸の内にあった問いかけ。


 私はあなたに微笑みかける。

 知っている。あの頃のあなたが、あなた達が、懸命に生きていたことを。耳に残る、砕けた陶器の音。泣きじゃくる背中。教室で振り絞った叫び。その先で、今の私達が生きている。

 あの頃の問いかけは、そのまま私に返ってくる。

 今の私は、あなたの瞳に、どう映るのだろう。


 あなたはただ、まっすぐに私を見つめている。

 託された想いを抱えて。

 私達は一緒に、未来へと歩いていくのだ。



 相談室の扉を開けると、既に咲田さんが来ていた。小部屋には机と椅子が置かれているけれど、座らず窓辺に立っている。無造作に束ねたポニーテールが、振り返る動きに合わせて揺れる。

 「御手洗先生!」 

 「ごめんね、待った? 今日はずいぶん早かったね」

 私が隣に立つと、咲田さんはもの言いたげな視線を向けた。

 「だって、先生が『話がある』とか言うからじゃん。気になるじゃん。なんなの、話って」

 「あぁ……気になったよね、ごめんね」

 面接の約束をしていても、学校を休んで会えないこともある彼女。できれば今日会えるようにと予告をしたのだけど、気を揉ませてしまったようだ。私は心の中で深呼吸をする。

 「実は、再来週から仕事を休むの。……私、赤ちゃんを産むんだ。その子を育てるために、一年くらいお休みをもらう」

 「えぇー!?」

 だいぶお腹も大きくなったのだけど、マタニティウェアのおかげか、咲田さんは全く気づいていなかったらしい。

 「赤ちゃん!? ていうか、結婚してたの!?」

 「うん、実は」

 「えぇ〜、そうなんだ……一年経ったら、戻ってくる?」

 「そうしたいと思ってるよ。保育園に入れたら、来年の4月から復帰できるはず。……驚いたよね。急に、ごめんね」

 「別に」

 「私が休む間、代わりの人が来るかどうかはまだ分からないんだけど。もし来てもらえることになれば、その人にも相談にのってもらえるから」

 「ふぅん」

 咲田さんは窓の外に視線を向けた。私も壁に背を預けながら、窓の向こうの空を見る。

 「G.W.は何してたの?」

 「特に何も。あー……川波さん達に誘われて、一緒にケーキバイキング行った」

 「へぇ」

 川波さん達というのは、新しいクラスになってできた友人だったはずだ。穏やかな女の子達で、傍からは、咲田さんはうまく溶け込めたように見えた。

 「ずいぶん仲良くなったんだね」

 「どうだろ……なんか、すごい疲れた」

 「う〜ん、まだ知り合ったばかりだしね。気疲れしちゃうのかな」

 「そうかな……」

 咲田さんは黙り込んだ。二人で、空を眺める。白い雲が、大空をゆっくりと流れていく。

 「誰とでもなんだ。一緒にいると、疲れてくる。うるさい場所や、複数相手だと余計に。相手の声とか、周囲のガチャガチャした音……いろんなのがいっぺんに押し寄せて、頭がパンクしそうになる。会話も、周りの音と声がゴチャ混ぜになって、うまく聞き取れない。皆は普通に話してるから、聞き返せないし。分からなくても、分かったフリしてなんとか話合わせて……でも、『変なとこで相槌うつよね』って言われたりする。頑張っても、ついていけない。離れたい、今すぐ一人になりたいって思う。……疲れる」

 「そうだったんだ……」

 初めて聞く話だった。私達にはありふれた日常のノイズが、咲田さんには全く違って聞こえるのだろう。学校を休む背景には、そんな理由もあったのだ。雑多な音に溢れた教室で、彼女が耐えてきた日々を思った。咲田さんは、ぽつんと言った。


 「一人で、生きていけたらいいのに」


 咄嗟に、返事ができなかった。あの日の彼の姿が重なる。血にまみれ、一人俯いていた彼。


 「苦しかったんだね……」


 誰とも関わらず、一人でいられたなら。傷つくことも、傷つけることもなく。

 でも、関わりたいと願うから、彼女はここにいる。私にそれを語ってくれているのだと思う。


 「咲田さんが、少しでも楽になる方法が見つけられたらいいな。そりゃ疲れるよね。時々学校休むくらいがちょうどいいのかも」

 「先生がそれ言ったらダメじゃない?」

 「……そうかも」

 咲田さんがクスッと笑う。その笑顔に、ホッとする。

 「休み時間だけでも、休めたらいいのにな。ずっと教室にいるの、疲れる。一人にしてって言えないし」

 「保健室の先生に相談して、保健室で休ませてもらうのは? 私も一緒に話すよ」

 「う〜ん……どうだろ。保健室も他の子がいるし。こういうとこがちょうどいいな」

 「相談室?」

 「静かだし、誰もいないし」

 「それなら、相談室でスクールカウンセラーの先生に会うのは? 静かに過ごせるし、咲田さんが楽になる方法も一緒に考えてもらえるし。一石二鳥かもよ?」

 「えぇ〜、どうだろ。カウンセラーとかは、あんまり……」

 「そうかぁ」 

 彼女の訴えは感覚過敏のような気がする。できればスクールカウンセラーにも話を聞いてもらいたいけれど、無理に繋いでもうまくいかないだろう。咲田さんは初めての相手が苦手だ。時間をかけて、少しずつやっていくしかない。

 「じゃあせめて、担任の石倉先生には知っておいてもらおうよ。大事なことだし」

 「えぇー、石倉先生にも、どうしようもないじゃん」

 「そりゃ、先生が治せる訳じゃないけどさ。でも、知ってるのと知らないのじゃ違うんじゃないかな。一人で無理してほしくないというか……味方は多い方がいいし」

 「……まぁ、別にいいけど」

 石倉先生は去年から咲田さんに関わっていて、信頼関係がある。きっと一緒に考えてくれるだろう。私も、産休に入るまでに考えよう。咲田さんのために、私達が力になれること。

 私は改めて、相談室を眺めた。木の机と椅子が置かれただけの、シンプルな小部屋。窓から射し込む陽射しが、あたたかく満ちている。校舎の片隅に位置するここは、別世界のように静かだ。密やかな空間は、あの頃の理科室と似ているかもしれない。

 「確かに、ここは落ち着くね。もしかしたら私達の方が、音や光が溢れた環境に慣れすぎて、マヒしてるのかも。体の疲れたっていうサインを、見過ごしてるのかもなぁ。咲田さんが感じてることって、大事なことのような気がする。咲田さんが心地良い場所は、私達みんなにとって、心から安らげる場所なのかもしれないね」

 俯いた咲田さんの、瞳が潤んだような気がした。咲田さんはくるりと背を向け、空を眺める。二人、黙って空を見ていた。私達の全てを包み込むように、どこまでも空は広がっている。



 教室に戻る咲田さんを見送った後、私は相談室の椅子に腰掛けた。しばらく立っていたから、お腹が少し張っている。大きく息を吐くと、ポコンと胎動が返ってきた。そっとお腹に手を当てる。

 ここに、私と真のこどもがいる。そう考えるとなんだか不思議で、愛しい。

 真は今、大学で講師をしている。真が大学院を出た後、大学で勤めることになった時は少し心配した。自分の研究だけでなく、講義をしたり、学生を指導したりしないといけないからだ。けれど出身大学ということもあり、真のことを分かっている研究室の先生や学生さん達もいて、なんとかなっているようだ。私達の結婚が決まった時も、研究室の皆さんがお祝いしてくれた。先輩や後輩に囲まれて笑っている真を見て、私も嬉しかった。

 考えてみたら、私達は二人とも学校に戻ってきたんだなと思う。「忘れ物を取りに来たようなもの」だと笑っていた、中尾先生の言葉を思い出す。学校は私達にとって、通り過ぎることのできない場所だったんだろう。

 ポコン、とまたお腹が揺れた。

 「まだまだ先だけど、いつか、あなたもここに来るんだよね」

 話しかけながら、お腹を撫でてみる。今はまだ、小さな小さな赤ちゃんだけれど。

 あなたはどんな子なんだろう。どんな世界を生きる人なんだろう。

 私にあなたの世界を教えてほしい。もしかしたら、周りとは違う世界だったりするのかもしれない。けれど、全ては神様からのプレゼント。私は知りたい。あなただけの、煌めく世界を。

 いつか、あなたが十代になったとき。学校ここで、あなたは何を見るのだろう。

 私達が見てきた光景が過る。美しいことばかりではない、この世界の残酷さも知っている。

 けれど、あなたは一人ではないよ。

 どうか、あなた自身の可能性を信じて欲しい。この世界は、どこまでも広がっている。きっと、あなたの生きる場所はある。あなたを知り、あなたに会いたいと願う人がいる。だから、この世界に産まれておいで。ただ一人の、あなたとして。

 お腹に当てた手のひらに、祈りをこめる。


 どうか、あなたがあなたらしく、生きていけますように。


         〈終〉


 

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