再会

 門をくぐった先、真四角の研究棟が立ち並ぶ一角。ひっそりと佇む小さな噴水を認め、僕は足を止めた。木漏れ陽に光る水しぶき、水底で揺れる波紋。その透明な水の中には、どんな生きものが潜んでいるのだろう。

 「真! ボケッとしてんじゃねーよ」

 小突かれて我に返る。振り向くと、とおるはとうに駆け出していた。短い茶色の髪、忙しなく走り回る様は、小型犬を連想させる。

 「俺達の研究目的を忘れたのか? 何のためにわざわざ文系キャンパスまで来たんだよ!」

 「……『理系食堂より文系食堂の方が美味い』なんて、何の根拠も無い噂に過ぎない」

 「ちげーよ! これは『理系男子学生なんて何食わせても一緒だろ』っつー大学側の不当な扱いなんだよ!」

 「比較するにしても、サンプルが2人だけというのは無理がある。そもそも理系と文系でメニューも違う、余剰変数が多すぎる」

 「そりゃそうよ、文系には理系と違って女子が溢れてるんだぜ? この華やかさ! それだけで美味くなるって!」

 「……」

 いつものことながら、澄の話には脈絡が無い。僕は反論を諦めた。周りを見渡せば、澄の言う通り女学生だらけだ。高校は男子校、大学は理系学部に入学した僕には、かなり居心地が悪い。それでも、なぜか僕は澄に巻き込まれてしまう。何にでも首を突っ込み、楽し気に騒ぐ澄の傍にいると、巻き込まれるのも悪くないような気がしてしまうのだった。


 

 澄とは4年前、高校で出会った。理科部の入部初日、たまたま同じ日に入部した澄は、旧知の仲であるかのように一方的に話しかけてきた。僕が返事をしようとしまいと、お構い無し。喋らないことで変人扱いされてきた僕には、澄の反応は新鮮だった。口からするりと言葉が出たのに驚いたのは僕だけで、澄は変わらぬ調子で話し続けていた。

 なぜ人前で話せなくなったのか、僕には分からなかった。小学1,2年生までは教室で話していたような記憶がある。けれど、僕が話すと会話の流れが止まった。思ったままを口にしただけなのに、周囲は困惑し、呆れ、時には怒った。僕には当たり前のことが相手には通じず、良かれと思ったことが裏目に出る。僕だけがこの世界のルールを知らず、いつまでも正解に辿り着けない。皆から無視され、そしられるのは、当然のような気がした。教室で、僕は自分の存在を消してしまいたかった。喋らなくなったのは、僕なりの世界と調和する試みだったのかもしれない。僕の存在が消えれば不調和は無くなり、世界は正しい姿を取り戻すような気がしていた。


 澄は何故か部活外でも僕のクラスまでやってきた。彼はどのクラスにも友人がいて、僕は自然と澄の友人達とも一緒に過ごすようになった。

 教室で、僕の周りに人がいる。それは思いがけない出来事だった。けれど他人と関わらずにきた僕は、相変わらず相手を困惑させた。僕は再び、世界と僕との断絶を見た。僕が人と一緒に過ごすこと自体、間違いのような気がした。

 けれど口をつぐもうとした僕を、引き止めるものがあった。


 ……一緒に、いたいよ。


 かつて、そう言ってくれた人がいた。

 一人は安心で心地良かった。けれど理科室で、いつしか彼女を待つようになって気付いた。

 消えてしまいたいと思っていた。けれどそう願う強さで、僕は誰かと繋がりたかったのだ。ずっと。

 僕は断絶に手を伸ばした。この世界について知ろうと思った。僕が僕として、ここで生きていくために。



 昼時の食堂は混んでいた。列に並んでカウンターで受け取ったうどんは、既に汁の中でぐったりしている。

 「……日替わり定食が無難だったんじゃないだろうか」

 「理系食堂で最も不味いと言われてるのが麺類だ。比較するなら麺!」

 「……どちらも不味かったら?」

 「いや、文系の方が美味いって!」

 言葉とは裏腹に、澄が頼んだチャンポン麺も柔らかくふやけている。無言の僕を他所に、澄は上機嫌でテーブルへと進んでいく。

 ふと、テーブルに座る一人の女性が目についた。俯いた横顔を隠す黒髪のボブ。紺色のカットソーに、セーラー服が重なる。けれど顔を上げたその人に、記憶の面影は無かった。僕は後ろめたさに目を逸らす。まるで刷り込みのようだ。自分に苦く笑う。



 遠矢さんと会ったのは、中学の卒業式の日が最後だ。あの日も、僕は理科室にいた。彼女が現れた時は驚いた。最後のホームルームが終わった後も、クラスメイト達は教室ではしゃいでいたから、彼女も友人達と別れを惜しむのだろうと思っていた。

 3年生になり、僕と遠矢さんは別のクラスになった。一学期はまだ理科室で会うこともあったが、夏に僕が部活を引退し、彼女も塾に行き始めてからは会うことも無かった。久しぶりに目にする彼女は、少し背が伸びて、大人びて見えた。

 何を話したかは覚えていない。いつものように、二人で顕微鏡を覗いた。グラウンドから遠くざわめきが聞こえ、カーテン越しの柔らかな光が満ちていた。

 僕は遠方の高校に進学することになっており、それを機にスマートフォンを買い与えられていた。クラスメイト達はとっくに持っているようだったし、遠矢さんもそうだったのかもしれない。僕が言えば、彼女は連絡先を交換してくれたのかもしれない。けれど、僕はそれを口にすることができなかった。 


 柔らかな声、息をのんで顕微鏡を見つめていた背中。繊細なスケッチの線、机に咲いた漆黒の花。


 二人で顕微鏡を覗いた日々は、繋ぎ止めようとすれば壊れてしまいそうな気がした。柔らかな光に満ちた理科室の時間を、このまま残しておこうと思った。何もかもこのまま、僕の中で時を止めて。

 そうすれば、彼女を失わずに済む。あの頃は、そう信じていた。


 

 「真! 見てみろ、今入ってきた子すげー美人!」

 

 唐突な澄の声に、僕は現実に引き戻された。食堂のざわめきが耳に甦る。澄が麺を啜りながら指差す方向を見ると、背の高い女性が見えた。鋭利な武器のように尖ったハイヒールの踵。複雑に編み込まれた長い髪。整った顔立ちは、人間というより人形のようだ。 

 「なっ、美人だろ!?」

 「……別の星の生きものみたいだ」

 「お前は何を言ってんだよ?」

 思ったままを口にしただけなのに、澄は呆れ顔になる。それでも、彼が変わらず笑っていることに僕はホッとする。

 「真は全然女の子の話しないもんな〜。どんな子がタイプなわけ?」

 「……分からない」

 「そんな訳ないだろ〜。いいなと思った子はいるだろ?」

 「……そういうことじゃない」

 記憶の面影を、そんな言葉に重ねてはいけないような気がした。怪訝な顔をした澄に、どんな言葉を返せばいいか分からず僕は黙り込む。あの人を、あの日々を、どんな言葉で表せばいいのか分からない。分かるのは。


 「大事だった。でも、もう……二度と会えない。このまま、忘れていくだけだ」


 言葉にすると、胸の奥に痛みが走った。

 繋ぎ止めず、閉じ込めた記憶は、ゆっくりと風化していく。

 あの日、少し大人びて見えた彼女は、すっかり大人になっているだろう。彼女にとってはもう、僕は遠い記憶だ。

 この大学を選んだのは、関心のある環境生物学が学べたからだが、どこかで期待もあった。高校も大学も、県内の公立に進学すると言っていた彼女。もしかしたら、という淡い願い。けれど会えたとして、あの頃の彼女はもういないのだ。全ては移り変わり、留められない。あの頃の僕らには、二度と戻れない。

 もう、会えない。


 「お前なぁ、何言ってんだよ!」

 

 バン、と澄が机を叩いた。丼の汁が揺れ、僕は瞬きする。周囲の視線に構わず、澄はさらに続ける。

 「忘れていくだけなんて、そんな言い方するな。もう会えなくても、その人に会えた事実は消えないだろ。会えたから、今のお前がいるんだろ!」

 「澄……」

 「そんな言い方されたら、その人も浮かばれないだろーが……」

 澄の潤んだ瞳を見て、僕はやっと彼の勘違いに気付いた。

 「いや、死に別れた訳じゃない」

 「は!? 初めての恋人が亡くなったんじゃないのか!?」

 「いや、恋人じゃないし……たぶん生きてる、と思う」

 「なんだよそれ〜、思わせぶりな言い方すんなっつーの!」

 澄はがくりと項垂れ、ブツブツと文句を呟き続ける。僕は相槌を打ちながら、知らず微笑んでいた。いつの間にか頑なになっていた心に、澄の言葉がゆっくりと沁みていく。

 会えた事実は消えない。

 そう思えば、留められないことを受け入れられるような気がした。彼女がくれたものは、今も僕の中に息づいている。それを抱えて、これからも僕は生きていくのだろう。

 もう会えないとしても。あの頃の僕と一緒に居てくれたこと、ありがとう。

 理科室の扉の向こうで、記憶の僕らが微笑んだような気がした。

 「澄、ありがとう」

 僕が言うと、澄はきょとんとした後そっぽを向いた。カリカリと頭をかく。

 「あ〜も〜、そろそろ行くぞ!」

 トレーを抱えて立ち上がった澄に続き、僕も立ち上がる。

 「そういえば文系食堂の味は」

 「次回は日替わり定食を調査だ!」

 「まだ懲りないのか?」

 「ついでにお前のタイプ調査もしてやるよ、このムッツリ! お前みたいなのはなぁ、弾ける前のポップコーンなんだよ!」

 やはり澄の言葉は意味不明だ。トレーを返却し終えた彼は、足早に出入り口へと向かう。僕も彼に続こうとして、ふと足を止めた。僕らと入れ違いに入ってきた、前方の人影。


 緩やかに波打つ栗色の髪。耳元の小さな赤い石。鮮やかな花に彩られたワンピース。

 何一つ、記憶とは重ならない。けれど淡く化粧をした顔に、鉛筆でなぞるように記憶の面影が重なる。一瞬、澄のぽかんとした顔が見えた。気付けば、僕は彼女に向けて手を伸ばしていた。


 「遠矢さん」


 すれ違いざま、肩を叩かれたその人が振り返る。驚いたように見開かれた瞳が僕を見つめ、桜色の唇がゆっくりとほころぶ。僕の名を呼ぶ、懐かしい声。


 「……真」


 記憶の理科室で、さらさらと、時が流れ始める。僕らは再び向き合う。お互いの顔に浮かぶ微笑み。

 留まることはできない、移り変わる季節の中で。それでも、巡り会えたなら。

 新しい僕と、新しい君と。歩んできた道の先で、新たな物語を紡ごう。




 

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