バランス

 あれは小学校の、何年生のことだっただろう。

 まだ男女一緒に遊んでいた頃。公園で、キャッチボールをしていた男の子達に交じって遊んだ。貸してもらった真新しいミットは固くて、初めての手には馴染まなかった。

 「こんなのでボール捕れないよ」

 諦めようとした私を、男の子は止めた。渋々構えたミットに向かって、ふわりとボールが飛んでくる。もっと速く投げられるのに、私に合わせてくれているのが分かったから、捕れないボールを追いかけ続けた。

 何度目のやりとりだっただろう。広げたミットの中に、ボールがまっすぐ飛び込んできた。ばしん、という小気味よい音。爽快感と安堵感。自分に向けられたものを確かに受けとめた、その手応え。

 「楽しいだろ」

 男の子は笑った。あの頃、石崎君は晴れやかに笑っていた。ミットはすんなりその手に馴染み、彼が投げるボールは遥かな空まで飛んでいくようだった。


 真を探しながら、そんなことを思い出していた。あの頃の私たち。何年かしか経っていないはずなのに、ずいぶんと遠い。

 理科室に真の姿は無かった。階段を上り下りし、宛も無く空き教室を覗き込みながら、生徒指導室の前で足を止めた。開けっ放しの扉から、石崎君が見えた。部屋の奥にぽつんと座り、窓の外を眺めている。少し躊躇った後、私はそっと扉をくぐった。色褪せた木の机に頬杖をついたまま、石崎君はちらりとこちらを見た。すぐに視線を窓の外に戻す。グラウンドには、それぞれ部活に励む生徒達の姿が見えた。

 「先生は?」

 「どっか行った」

 石崎君の答えは投げやりだったけれど、表情は憑き物が落ちたように静かだった。私は彼の向かいの、空っぽの椅子に腰かけた。石崎君の視線を追い、窓の外を見る。グラウンドの片隅、木の陰に佇む人影。


 真がいた。


 真は座り込み、一心に作業をしていた。こちらに背を向けているから、何をしているのかは見えない。けれど同じ動きの繰り返しを眺めるうち、彼が穴を掘っているのだと気付いた。傍らの草むらに、あの猫もいるんだろう。

 「遠矢、理科室にいただろ。アイツと」

 石崎君の呟きに、私はびっくりして振り返った。石崎君は私を見ず、窓の外を眺め続けている。

 「……なんで?」

 「部活辞めてから、暇で。校内うろついてたんだ。アイツ理科室で何やってんの、顕微鏡出して」

 「何って……」

 私は返事に詰まる。放課後の理科室。真の世界をどんな言葉で表せばよいか、分からなかった。

 不意に窓の外が騒がしくなり、先生達が駆けていくのが見えた。口々に何か叫んでいる。グラウンドに散らばった人影が、怪訝そうに振り返る。

 「……何かあったのかな。あれ、先生達は研修じゃなかったっけ?」

 「それどころじゃないんだろ」

 駆けていく先生達の中には、ここにいるはずの担任の姿もあった。男の先生ばかり、部室棟めがけて走っていく。

 「坂上達、止めなかったんだな」

 石崎君がぽつんと言った。ふっと、こうちゃんのことが過った。今日は邪魔が入らない。坂上君はそう言った。それはもしかして、研修で顧問の先生がいないことを指していたんだろうか。

 「野球部で、何か……」

 グラウンドを探す。塁に散らばる野球部員。ひときわ小柄な、こうちゃんの姿は見当たらない。坂上君の姿も見えなかった。

 「航也は、大丈夫だろう」

 「どういう意味?」

 「連れて行かれるのが見えたけど、先生達がすぐ止めに行ったはずだから」

 「それって……」

 言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。石崎君は頬杖をついたまま、他人事みたいに呟く。

 「馬鹿みたいだ。なんで、こんなことが続くんだろう」

 白球を追う野球部員。それを眺める石崎君の瞳は、ガラスみたいだ。空っぽで、何も映らない。

 「もともと厳しい部活だから、顧問や先輩から怒鳴られるのはしょっちゅうだったけどさ。練習中ミスがあったとか、声が出てないとか。そんな理由で決まるんだ。3年に部室に連れて行かれて。そこで……」

 石崎君の声が途切れる。言葉の意味が染み込み、じわじわと、体が冷たくなっていくような気がした。

 「最初は、一発叩かれて終わりだった。謝ればそれで済む。他の奴らも呼ばれてて、しごきの一環っていうか。でも、だんだん俺だけ呼ばれるようになって。……あの日、部室に連れて行かれたら、水が入ったバケツがあった」

 語られない光景が浮かぶ。

 絡みつく、いくつもの腕。力ずくで抑え込まれ、頭まで被った水の冷たさ。息苦しさに暴れると、抑えつける力が増した。哀願も悲鳴も、罵倒と嘲笑にかき消される。世界が崩れ去るような、恐怖。

「レギュラーとられた腹いせとか、そんなんなら良かった。……あいつら……ただ、愉しんでた」

 崩れ落ち、息も絶え絶えに咳き込む頭上に笑い声が降った。この世界との落差。自分の存在を、握り潰されたような無力感。

 「屑だと思った。こんなの、あいつらが引退すれば終わるって。でも」

 部室棟から、数名の2年生が出てくるのが見えた。周りを先生達が取り囲んでいる。その中に、坂上君の姿も見えた。遠くて表情は見えないけれど、その歩みは淡々としていた。

 「3年が引退したら、周りがあいつらの側に回っていった。『最初に締めないとな』って、陰で1年呼び出して。俺等もやられてきたんだからって、当たり前みたいに……」

 何故、と声を上げることはできなかった。無言の圧力。まるで、力ずくで抑え込まれたあの時のように。

 「まだ引きずってるのか」という坂上君の言葉を思い出した。まるで違和感を持つ方がおかしいみたいに。正しいことみたいに。

 1年生。その中には、こうちゃんもいたはずだ。石崎君を慕っていたこうちゃん。石崎君はどんな気持ちで、何も知らないこうちゃんを見ていたのだろう。そのうち、こうちゃんも部室に呼ばれてしまう。もしかしたら、自分もその場にいるのかもしれない。無理矢理抑えつける側として。

 「もう、野球をしたいと思えなくなった」

 ボールを投げようと構えたその先には、誰の姿も見えない。虚空に、嘲笑うような笑い声が降る。

 誰に向けて、何を思って。力を失ったミットから、ボールが零れ落ちる。

 「……俺は辞めた。逃げたようなもんだ」

 列の一番後ろに、こうちゃんの姿があった。俯いた背中は、泣いているように見えた。のろのろと進む行列を、グラウンドの野球部員が立ち尽くしたまま見つめている。

 石崎君の視線が窓から逸れる。一瞬、その表情が歪んだような気がした。

 「どうして」

 思わず言葉が零れた。先輩の標的にされた石崎君。その惨さを、理不尽さを知っていたはずなのに。

 「どうして、真には……」

 グラウンドの片隅で、今も真はしゃがみこんでいる。赤黒い血だまりが甦る。凍り付いたようだった、彼の表情。

 「なんでだろうな」

 ぽつんと呟きが宙に浮いた。石崎君は黙り込む。グラウンドのざわめきの中で、いろんな気持ちが湧き起こる。けれど、私はじっと待った。波立つ気持ちが静まった先で。沈黙の中で、ゆっくりと滴り落ちる心の一雫を。

 「……あいつ見てると、ムカついた」

 微かな声がした。石崎君の声はどうしようもなく固くて、微かに震えていた。

「何言っても平気な顔で。何でもないみたいに、無視されて。……ムカついて、どうしようもなかった」

 平気な訳ない、と言いかけて、飲み込む。石崎君は真に、何を見ていたんだろう。嘲られた自分を重ねたんだろうか。……怯えさせ、打ちのめしたかったんだろうか。あの頃の自分がされたように。


 『殺してやりたいと思ってるんじゃないのか』


 あれが、石崎君の真に向けた本音だとしたら。

 抑えつけられ、行き場を失くした感情は、はけ口を求めずにいられないんだろうか。誰もが傷つき、傷つけながらバランスを保っているのだとしたら、私達はなんて哀しい生きものだろう。

 「……傷つくよ。傷つくの、当たり前だよ」

 もう窓の外に、行列は見えない。グラウンドは元通りの喧騒に包まれていく。何事も無かったみたいに。

 「傷つかない人なんて、いないよ」

 消えることは、無い。石崎君の痛みも恐怖も。彼が真に発した言葉も、机に刻んだ傷も。

 私は顔を上げ、石崎君を見た。気配を察したように、石崎君が私の方を向く。虚ろな、ガラスみたいな瞳。

 何も言えないし、何もできないような気がする。だけど。

 「あのね、顕微鏡を覗くとね……綺麗なんだよ。透き通って、キラキラして……嫌なこと、忘れちゃうくらい」

 石崎君は瞬きをした。虚ろな瞳が、一瞬揺れたような気がした。私はガタンと椅子を引き、立ち上がる。グラウンドの片隅で、真もまた立ち上がるのが見えた。

 無かったことにはできない。私達は、傷を抱えて生きていくしかない。傷ついたことも、傷つけたことも。全て抱えて。

 その先で、いつか。石崎君が、晴れやかに笑える日がくればいいと思った。



 理科室には灯りも無く、静寂に包まれていた。けれど扉を開けると、部屋の奥で座り込んでいる人影が見えた。

 私が近づいても、真は顔を上げなかった。そっと隣の椅子に座る。二人とも黙ったままで、時が止まったみたいだった。

 真は背中を丸め、じっと床を見つめていた。手は洗った様子だったけれど、制服には消えようの無い血の痕が染み込んでいた。

 「埋めてあげたんだね」

 声を掛けても、真は動かなかった。冷え冷えとした沈黙だけが広がっている。

 ふっと、もう真は喋らないのかもしれないと思った。真とこの世界を繋ぐものは断ち切られ、ここから去ろうとしているのではないかと。

 微動だにしない彼は、全てを拒絶しているように見えた。私は結局、異質な侵入者だったのだろうか。初めて彼の理科室に来た時のことを思い出す。一人で顕微鏡を覗いていた真。その静謐な空間。

 ずっと一人でいられたら。誰からも傷つけられることなく、優しい彼の世界で生きられるのだろうか。

 けれど。

 「土に埋めたら、還るんだよね」

 黙ったままの真に、私は言葉を重ねた。支離滅裂だと分かっていても、言わずにはいられなかった。

 「この前言ってたよね。質量保存の法則。みんな、いなくならないんだって。見えなくても、ここに一緒にいるんだって。……ねぇ」

 声が震えた。真は動かない。耳の奥に残る、砕けた陶器の音。

 「……真は、いなく、ならないよね?」

 酷いことを言っている気がした。あんな目に遭って、助けることもできなくて、それなのに。

 それでも、ここにいて、なんて。

 「……らない」

 掠れた声がした。真はこちらを見ない。けれど絞り出すように、言葉を紡いでいる。

 「ここにいていいのか、分からない」

 見つめる彼の姿が、涙で歪む。

 「石崎君が言ったことは……本当だから。どうしても、僕は皆みたいにできない。普通になれない。喋らなくても、僕の存在自体が、不快で……。分からないんだ。ずっと、どうすればいいのか、分からないままだ」

 真を取り巻く、声無き声が聞こえた気がした。

 キモい、消えろ、死ね。

 傷は消えぬまま、呪いのように彼を縛り付けている。喉の奥から熱い塊がせり上がり、言葉が出ない。私はただ首を振る。必死で嗚咽を堪える。

 「僕は……本当は」

 真は顔を上げた。その顔もまた、泣き出しそうに歪んでいた。

 「僕は、人の死を願ったことがある。この世界が全て、消えてしまえばいいって。……そんな僕が、ここで生きていていいのか、分からない」

 ここに受け入れられないのなら。相手か、自分が消えるしかない。それが、バランスなんだろうか。ここにいられない誰かが、奈落の底へと落ちていく。

 目に見えない生きもの達は、補い合い繋がり合い、命を巡らせて生きているのに。

 分からない。分からないけれど。

 「……私は、理科室で、楽しかったよ。いつも、ワクワクして……真に会えたから、こんな世界があるって、知ったんだ」

 無口で、無表情で。何を考えているか分からなかった彼の印象が一変した、あの日。一見何も見えないプレパラートに隠れていた、煌めく世界。

 ねぇ、私はあなたに、消えたりしてほしくないよ。

 学校ここにいられないのなら、ここじゃなくてもいい。みんなと同じ場所じゃなくていい。空で、水で、土で、目に見えない生き物たちが、密やかに世界を支えているように。この世界に、あなたらしく生きられる場所はあるよ。

 それぞれに違うから、見えるものがある。できることがある。私達の違いこそが、共に生きていくためのバランスだと思うから。

 だからどうか、あなたのままで。

 「真と、一緒にいたいよ……」

 私の嗚咽に重なるように、振り絞るような泣き声がした。顔を膝に埋め、体を揺らし、堰が切れたように真は大声で泣いた。

 私は立ち上がり、その背中に手を当てた。小さな子どもみたいに泣きじゃくる背中を、いつまでも撫で続けた。



 柔らかな闇に包まれた理科室に、遠くから懐かしいメロディが響きだした。夕焼け小焼け。17時を告げるチャイムだ。

 「……帰らないと」

 うずくまっていた真が、椅子からそっと立ち上がった。暗がりで表情はよく見えないけれど、その声はもう落ち着きを取り戻していた。

 「遠矢さん、先に帰って。教室に鞄取りに行くから」

 「教室?」

 思わず声が上ずった。赤黒い血だまりが甦る。

 「……私も行く」

 強張った体を奮い立たせ、私は先に歩き出した。理科室を出ると辺りは薄暗く、なんだか心細くなった。廊下の先には、闇がわだかまっている。二人とも黙ったまま、人の気配が無い校内をひたすら進んだ。

 見慣れた自分達の教室は、無人だというだけでよそよそしい。照明をつけると、場違いなほど明るい光が溢れた。

 恐る恐る真の席を見る。机の上にも床にも、凄惨な血の名残は無い。引かれたままだった椅子も戻され、他の机と同じように整列している。置き去りにされた鞄だけが、机の横にぽつんと佇んでいた。

 「誰か、拭いてくれたのかな」

 ホッとして呟きながら、放課後残っていたメンバーの顔を思い出す。私とも真とも、繋がりの無い人たち。掃除をしてくれそうな子は、正直思い浮かばなかった。先生が綺麗にしてくれたのかもしれない。

 その時、真が小さく息をのんだ。指先が机に触れる。

 そこには、血だまりに飲み込まれたはずの花があった。けれど、それは墨を流し込まれ、鮮やかに黒く浮かび上がっていた。

 「どうして……」

 脳裏に、ある光景が過った。


 教室に一人佇む人影。丹念に机を拭いていたその人の手が、止まる。彫られた花に入り込んだ血は、いくら拭っても消えない。考え込んだその人が、不意に立ち上がる。戻ってきたその手には、墨汁。躊躇いながらも、その人は少しずつ墨汁を注ぎ始める。血を纏わせた花びらが漆黒に染め上げられ、甦っていく……。


 真と私は、顔を見合わせた。

 もしかしたら。もしかしたら、私達を見ていた誰かが……。

 真の長い指が、慈しむように花びらをなぞった。


 闇夜に輝く灯火のように。


 その姿は、私達の記憶に刻まれている。ずっと、今でも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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