破壊

 昼休みが終わる頃、教室に戻ろうとした私は、廊下に佇む人影に気付いた。まだ制服に着られているような、小柄な男子。きっと1年生だろう。教室の出入り口からつかず離れずの距離で、所在なげに俯いている。何故2年生の教室に、と首を傾げてハッとする。あどけない横顔には、見覚えがあった。

 「こうちゃん?」

 「泉ちゃん! ……あ、『遠矢先輩』だった」

 パッと懐かしい笑顔が輝いた。

 こうちゃん、こと航也こうや君。一学年下の彼とは、同じ小学校だった。委員会が同じだったこともある。人懐こい彼は、男女も学年も関係なく話しかけ、みんな下の名前で呼んでいた。

 「久しぶりだねぇ。こうちゃんから先輩なんて呼ばれるの、変な感じ」

 「中学の上下関係ってヤバいですよ。一年の違いが十年分くらいの感じ。俺、2年の教室とか初めて来ました。教室の前通っただけで、先輩から生意気だって怒られますもん。意味わかんねぇけど」

 「へぇ、そうなんだ。ひょっとして野球部?」

 私はこうちゃんの五分刈りの頭を見る。こうちゃんは笑って頷いた。うちの野球部は県内でも強豪校だ。部活の上下関係も厳しいのだろう。

 「小学生の時も野球チームに入ってたよね。上手だって聞いたことある」

 「いやいや、俺よりずっと上手い先輩いたし。中学でも一緒に野球したいって、思ってた……」

 言いかけて、こうちゃんは視線を落とした。明るかった表情が翳る。

 野球。先輩。何かが頭を掠めたけれど、捉えられない。ふと胸騒ぎがした。そうだ、何故こうちゃんはここにいるんだろう?

 今日はどうしたの。

 そう聞こうとした時、背後から低い声がした。

 

 「航也」


 振り返ったこうちゃんの顔が張り詰める。廊下の向こうから現れたのは、石崎君だった。眉をひそめ、こうちゃんを見つめている。私の中で糸が繋がる。そうだ、石崎君も、私達と同じ小学校だった。こうちゃんと同じ野球チームでプレイしていた。そして、中学校の野球部でまた、こうちゃんと一緒になったんだ。

 「あれ、なんで1年がここにいるわけ? 先輩に用があるなら部活で聞けよ」

 石崎君の背後から坂上君が顔を出す。笑顔なのに、瞳は笑っていない。こうちゃんは拳を握りしめ、顔を上げた。

 「石崎さん、なんで野球部辞めたんですか」

 え、と声を上げそうになった。「石崎君、2年なのにレギュラーに選ばれたんだって」。そんな話を聞いたのは、一学期だっただろうか。3年生も引退し、これから、という時なのに。

 石崎君は黙っている。坂上君がこうちゃんの前に立った。

 「わざわざそんなこと聞きに来たのかよ。辞めるのにお前の許可なんか要らないよな? 1年が口出すなよ」

 坂上君の目が細くなり、私の記憶が蘇る。躊躇いなく取り出されたカッターナイフ。私は思わずこうちゃんの腕を引いた。けれど坂上君を無視し、こうちゃんは声を荒げた。

 「なんでだよ。俺、約束通り野球部入ったのに。なんで約束破って、いなくなっちゃうんだよ!」

 坂上君の笑みが消えた。細い瞳が凶暴に光り、手がこうちゃんの肩に向かって伸びる。瞬間、それを横から払い除けた手があった。

 「石崎?」

 石崎君は問いかけに答えず、こうちゃんに向き直る。その顔には、何の表情も浮かんでいない。

 「そんな約束、もう関係ない。……お前だって、いつでも辞めればいい」

 淡々とした声に、初めてこうちゃんの顔が歪んだ。唇を噛みしめ、廊下を走り出す。その瞳に、いっぱい涙が溜まっているのが見えた。

 無表情なままの石崎君の肩に、坂上君の腕が回った。

 「アイツいい根性してるよな、ホント生意気。でも、俺も気になってたんだよね。お前、なんで部活辞めたの?」

 「言ったろ、成績下がって親から辞めさせられたんだよ。部活じゃなくて塾に行けって」

 「本当かなぁ? 野球で推薦狙ってたくせに」

 坂上君が舐めるように石崎君を見上げる。

 「これからが楽しいとこだろ。やっと俺等の番だってのに。……それともまさか、お前まだ引きずってるわけ?」

 石崎君が坂上君の腕を振り払った。坂上君は、はっきりと嘲笑を浮かべている。

 「今日なんて邪魔が入らないから絶好じゃん。お前もOB枠で野球部来れば? 可愛い後輩なんだろ、面倒みてやれよ」

 坂上君はそのまま教室に入っていく。後輩、生意気、絶好。残された不可解なパズルのピース。その、陰鬱な色合い。

 石崎君は、凍りついたように動かない。抜け殻みたいな表情。彷徨う視線が教室に向き、不意に一点で止まる。虚ろだった瞳に、暗い炎が浮かび上がる。

 そこには、真がいた。いつも通り、一人で佇んでいる。彼の周りだけ、音が吸い込まれたように静かだ。ただそれだけなのに、真を見る石崎君の瞳は獣のようだった。冷え冷えとして、切り裂くように鋭い。自分でも御せない、抗えない獣。

 「石崎君」

 思わず声を掛けた時、昼休み終了のチャイムが鳴った。動き出す人並みに呑まれ、私の声は届かない。石崎君は歩き出し、真も立ち上がる。目の前を過る制服の群れ。みんな遠ざかっていく。胸の中で、不吉な予感だけが膨れ上がる。


 伸ばした手の先で、砕け散った陶器の音が蘇った。


 石崎君と話をしなくちゃ。こうちゃんのこと、真のこと。何が起きているのか、何を言えばいいのか分からないけれど、このままじゃいけない。

 そう思うのに、チャンスはなかなか訪れない。掃除が終わって教室に戻ってきた石崎君は、坂上君と一緒だった。さっきの不穏さが嘘のように、二人で顔を寄せ、ささやき合っている。ふと、石崎君が白いビニール袋を後ろ手に提げているのに気付いた。それなりの大きさのものが入っているらしく、重みでたわんでいる。二人は教室の隅に置かれた掃除用具入れのロッカーに向かった。坂上君がさり気なく前に立ち、背後で石崎君がロッカーを開ける。二人がクスクス笑いながら席に戻った時には、ビニール袋は消えていた。

 ……何だったんだろう。胸の中に重苦しい雲が垂れ込めていく。

 帰りのホームルームは上の空で過ごした。今日は先生達の職員研修があるとかで、5時間目の授業は無い。坂上君はすぐ部活に向かうだろう。石崎君が一人になった時がチャンスだ。教室を出る前に捕まえなくては。終礼が終わるのももどかしく席を立ったけれど、坂上君は教室を出る気配が無い。それどころか、石崎君と一緒に真に近づいていく。仕方なく私も席に座り、そっと三人の様子を窺う。真の席は教室の中央付近で、私の席からも坂上君達の声が聞こえた。

 「俺たち、御手洗にプレゼントがあるんだ」

 くすくすと坂上君が笑う。真は席についたまま、黙って二人を見上げる。

 「御手洗、理科部なんだろ。観察してほしいものがあってさ」

 放課後の教室に人影は疎らだ。石崎君が堂々とロッカーに近づいて開け、中から白いビニール袋を取り出した。何人かが不審そうな眼差しを向ける。よく見ると、どこかで拾ってきたものなのか、白いビニール袋には汚れが見える。うっすらと赤黒い……。

 私は息をのんだ。

 「ほら! お前にやるよ」

 石崎君がビニール袋から放り投げたものが、真の机上に投げ出される。近くにいた女子が悲鳴を上げた。

 それは、猫の死骸だった。手足を投げ出したまま、ピクリとも動かない。毛並みは薄汚れ、見開いた瞳が虚空を見つめている。ベッタリと血糊が貼りついた腹部から、どろりと赤黒い血が広がった。机に私が刻んだ花も、血だまりに飲み込まれていく。真は、黙ってそれを見つめていた。瞬きすらせず、凍り付いたように。

 「道路でかれて死んでたんだ。外掃除の時に見つけてさぁ。俺と石崎で持ってきてやったんだよ、御手洗のためにさぁ」

 坂上君が歪んだ笑みを浮かべる。中央にいる彼らを取り巻くようにして、教室は静まり返っている。悲鳴を上げた女の子達が、引き攣った顔で教室から走り去っていった。

 「これ見ても、何ともないのか? お前、人間じゃないんじゃないの。何考えてんだよ、気味悪ィ」

 吐き捨てるように言った石崎くんは、じっと真を見つめた。

 「お前、放課後理科室にいるだろ? 何やってるか知らないけどさ」

 心臓を握り潰されたような気がした。石崎君はギラギラした瞳で真を見ている。その横顔は張りつめ、彼自身が追い詰められているように見えた。

 「これ観察してみろよ。解剖したっていいんだぜ。そういうの興味ありそうだよな。澄ました面してるけど、本当は全部ぶち壊したいんじゃないのか? 殺してやりたいとか、思ってるんじゃないのか」

 ひゃはは、と坂上君が笑い声を上げる。

 「マッドサイエンティストってやつ? 御手洗ならあり得る。なぁ、理科室行こうぜ。解剖してみろよ、御手洗」

 ひたひたと押し寄せてくるのが、怒りなのか悲しみなのか、分からない。真の机全部に赤黒い血が広がり、ぼたりと床に滴り落ちる。もう取り返しがつかない、という気がした。息がうまく吸えなくて、浅い呼吸を繰り返す。吐き気が込み上げた。

 ガタン、と椅子を引く音が響いた。

 坂上君の笑いが止まる。重い沈黙に満ちた教室で、一人動いたのは真だった。彼はそっと手を伸ばし、猫に触れた。小さな頭の下に左手を入れ、血にまみれた体の下に右肘を滑り込ませる。そのままむくろを抱え上げ、慈しむように胸に抱き寄せる。黒い制服に、血が滲んでいくのが見えた。

 呆気にとられて見ている坂上君達には目もくれず、真は歩き出した。教室の出入り口付近に佇んでいた男子が、慌てて扉を開ける。真は小さく頭を下げ、そのまま廊下へ出ていった。

 誰もが凍り付いたように動けなかった。石崎君も沈黙したまま立ち尽くしている。けれど坂上君だけは歩き出し、ひょいと教室の窓から廊下を覗いた。

 「アイツどこ行ったんだろ。本当に理科室行ったわけ? 俺らも行ってみるか」

 飄々とした声には、面白がるような響きさえある。どうしてこんなに遠いんだろう。届かないんだろう。人はその自覚すら無く、相手の心を破壊してしまう。静かな理科室の陽だまり。優しい繭の中のような、真の世界。それが、赤黒い血で塗り潰されていく。


 「もう、やめて」


 喉がカラカラで、絞り出した声は微かなささやきにしかならなかった。それでも、石崎君がこちらを向いたのが分かった。坂上君も不審そうに私に視線を向ける。鼓動が鳴り響く。見えない手に、頭を押さえつけられているみたい。体が石みたいで動かせない。誰かが胸の中で声を上げる。


 バランス崩せば……。


 それでも。

 私は、ここから飛び立ちたい。


 「やめて!」


 叫んだ瞬間、廊下からバタバタと足音が近づいてきた。慌ただしく教室の扉を開けたのは担任で、その後ろから駆けてきたのは飛び出していった女の子達だった。

 「どうしたんだ、これは」

 担任は血にまみれた真の机を見やり、その傍に立つ石崎君を見た。

 「俺がやりました」

 答える声は淡々としていた。窓の脇に立つ坂上君がちらりと石崎君を見たけれど、石崎君はそちらを見ず、担任に向き直った。手に提げたビニール袋を差し出す。

 「猫の死体を見つけて、御手洗の机に置いたんです。死体は御手洗がどこかに持っていきました」

 「なんだってそんなことを……」

 担任は面食らったように呟き、「ちょっと来なさい」と石崎君を促して教室を出て行った。呪縛が解けたように、教室にざわめきが戻ってくる。真の机だけが、ぽつんと取り残されている。何かを問いかけるように。

 私は立ち上がった。よろめきそうになるのを堪え、開け放たれたままの扉を抜ける。廊下には、既に人影は無かった。

 一人教室を去っていった背中が過る。赤黒い血だまり、浴びせられた嘲笑。この世界は、あなたの世界と、こんなにも遠い。

 それでも、ここにいてほしい。

 そう願うのは正しいのか、正しくないのか。彼のためなのか、自分のためなのか。分からないけれど、そうせずにはいられなくて、ただ彼の背中を追いかけた。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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