ユーグレナ

 教室はいつにもましてざわめいていた。学期末試験が終わり、授業の度に採点された答案用紙が返却されているのだ。

 「あ〜ぁ、英語死んだ。カナなんでそんな出来んの?」

 「選択問題で神が降臨」

 「そんな言って、実は隠れガリ勉?」

 「キャラじゃないし。次の数学で撃沈予定」

 一人ずつ名前を呼ばれる度、ざわざわと空気が揺れる。点数毎に並べられていく私達。見えない順位を確認しようと、声を掛け合う。笑顔の裏で錯綜する感情。ゆらゆらと、バランスが揺れる。

 「あれ、石崎ヤバいじゃん!」

 面白がるような声は、坂上君だった。私は視線だけをそちらに向ける。答案を覗き込まれた石崎君が、不機嫌そうに顔をしかめていた。

 「勝手に見るなよ」

 「俺より下なんて珍し〜。どうしたの? どうせ野球で推薦とれるだろうから、勉強しなくてもいいやってこと? この万年レギュラー」

 坂上君の笑みが深くなり、石崎君の瞳が険しくなる。その時、教師の一段と大きな声がした。


 「御手洗、百点」

 

 立ち上がった真はいつも通りの無表情だ。淡々と答案用紙を受け取り、無言で席に着く。周囲の視線に頓着しない。自慢もしないし謙遜もしない。ざわめく教室の中で、一人静かに佇む。彼だけ、バランスの外にいる。

 坂上君と石崎君の視線が、絡むように真に向かう。ざわりと、胸が騒いだ。



 授業が終わった後、やっぱり真は石崎君達に囲まれていた。

「御手洗すごいじゃん、満点って。人間としては0点なのにな。まともに話せない陰キャで、カースト底辺。生きてる価値無いくせに」

 「いくら勉強したって、どうせ将来ひきこもりだろ。てか、なんで学校来るの? さっさと不登校になれば。お前見てるとホント苛つくんだけど」

 坂上君と石崎君が声を立てて笑う。真は微動だにしない。その瞳は、何も映していないみたいだ。

 坂上君が、真のペンケースを取り上げファスナーを開けた。

 「あれ、いいもの持ってるじゃん」

 取り出したのはカッターナイフ。観察用の切片を作るために、真が持ち歩いているものだ。見ている私の、体中の血が凍り付く。坂上君は笑顔を張り付けたまま、橋本君を振り返った。

 「便所君へのメッセージ、机に寄せ書きしようぜ。橋本、やれよ」

 後ろで黙っていた橋本君は、困ったように首を傾げる。坂上君の瞳が細くなる。

 「橋本も言いたいことあるだろ、ほら」

 差し出されたカッターナイフ。刃はまっすぐ、橋本君に向けられている。橋本君は黙っている。バランスがぐらりと傾く。坂上君の瞳がさらに細くなる。獣の瞳だ。獲物をなぶる獣。標的が変わり始める。次の獲物に狙いが定まっていく。橋本君の手がゆっくりと、カッターナイフに伸びる。危うい均衡を保とうとする。

 「貸せよ」

 カッターナイフを奪ったのは、石崎君だった。真の机に荒々しく刃を突き立てる。坂上君がけたたましい笑い声を上げた。橋本君がそっと俯く。

 真は無表情のまま。けれど、机に刻まれていく言葉は、彼の心も切り刻んでいる。静かな湖面のようなその瞳が、かえって私は怖かった。彼は今、何を思っているのだろう。

 握りしめた自分の拳に目を落とす。白くなった指先。でも、私はいつだって見ているだけだ。唇を噛みしめる。


 優劣。強弱。スクールカースト。見えない順位が私達を隔て、窮屈なカテゴリーの中に押し込めていく。陰キャ、陽キャ。教室での振る舞いは、見えないバランスに縛られている。息苦しくて、でも、逃げ場は無い。そこから弾き出されてしまったら。坂上君の笑い声が響く。


 『生きてる価値無いくせに』


 私たちは、どうして……。



 見守る背中に、理科室で見つめる彼の背中が重なった。時間を忘れて、顕微鏡の世界を旅する彼。

 いつかの、真との会話が過った。

 


 あの日、真は葉っぱの葉脈を顕微鏡で観察していた。私は顕微鏡だけを見つめる彼の気を逸らせたくて、他愛もないことを話しかけていた。

 「植物もキレイなんだけど、さ。動かないからなぁ。私はやっぱり、微生物の方がいいな。ダイナミックで面白い」

 「動く植物もいる」

 「嘘ぉ」

 「ユーグレナ」

 「何、それ」

 「藻の一種。葉緑体で光合成をするけれど、鞭毛を動かして泳ぐこともできる。植物と動物、両方の性質を持つ。ユーグレナは学名。和名はミドリムシ」

 「なんだ、ミドリムシね。最初からそう言えば分かったのに」

 「ユーグレナの方が、響きがいい」

 「……確かに」

 真は顕微鏡を見つめ続けている。その背中に向かって、私は独り言みたいに呟いた。

 「葉緑体があるのに、動く。植物でもあるし、動物でもある。それとも、どちらでもないのかな。中途半端だね、なんだか仲間外れみたい」

 「そうかな」

 不意に顔を上げた真に、私は驚いた。穏やかな瞳に、いつになく強い光が宿っていた。

 「植物も、動物も、人間が考えた分類カテゴリーだから。最初は何も無かった。全てただそこに在るだけで、みんな同じだった。人間が一つずつ分けた。この世界を、もっと知るために。だから、全てが分類カテゴリーに当てはまる訳がない。本当は、こうあらねばならない、というルールは無い。花はただ咲く。ユーグレナも、ただそのように生きている。分類カテゴリーに沿って生きている訳じゃない。最初から、ユーグレナはユーグレナだ」

 私は言葉が出なかった。真は黙って私を見ていた。彼は分類カテゴリーの外にいた。教室、クラスメイト、バランス。全てから飛び出した、ユーグレナだった。



 そっと扉を開けると、西陽が射す教室には誰もいなかった。私は安堵の息を吐く。放課後の喧騒から切り離された教室は、静かだ。

 今頃、真は顕微鏡を覗いているのだろう。けれど、私は理科室に行かなかった。ささやかでちっぽけな、私なりの決意があった。

 彼の机に座る。視線を落とすとすぐ、無造作に彫られた文字が目に入った。


 シ ネ


 私は目の前の言葉と向き合う。一つ一つは意味を持たない文字は、組み合わさると魔法のように言葉になる。それは人を救いもするし、殺しもする。一度刻まれた言葉は、消えない。その人を傷つける。何度も、何度も。

 無言で佇んでいた真。彼は何を思いながら、これが刻まれていくのを見ていたんだろう。

 言葉も、記憶も、消すことはできない。それでも。

 カッターナイフを取り出す。真と一緒に顕微鏡を覗くようになって、私も買ったものだ。短く出した刃を、机に向ける。目の前の言葉が自分に突き刺さり、涙が零れた。

 何を言われても全て受け入れるみたいに、淡々としている真。本当に怖いのは、この言葉があなたの心に刻まれてしまうことだ。世界から疎外されているのだと、自分は死んでもいい存在なのだと思ってしまうことだ。

 文字を覆うように、丹念に曲線を重ねると花びらが浮かび上がった。真っ直ぐに茎を伸ばし、葉を描き込んでいく。一度刻まれた文字は消えない。それでも、全てを包み込むように。祈りを込める。生きるために。この世界で、一緒に生きていくために。

 花はただ咲く。ユーグレナも、ただそのように生きている。そして、あなたも。


 

 翌朝、真はいつものように無表情で教室に現れた。ざわめきの中で、誰にも声を掛けられることなく席に着く。一瞬、椅子を引いた彼の手が止まった。長い指が、机に触れる。そっと花びらをなぞったのが分かった。

 微かに、彼の口元がほころんだ気がした。雲間から一瞬光が射すような、わずかな微笑。視界が歪み、私は俯いた。真はこちらを見ない。何事も無かったように席に座る。教室のざわめきが私達を包む。今日も私は窮屈なカテゴリーに押し込められて、バランスに縛られて。だけど。

 陽に煌めきながら、悠々と泳ぐユーグレナ。本当は、この世界であなたを縛るものなんて無い。教室に一人佇むあなたが、そのように生きられることを願った。

 

 


 

 

 


 

 

 



 


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