雲は空に、雨は土に
静まり返った理科室に、真のひそやかな足音が響いた。戸棚の硝子扉がきしみながら開く。ぽっかりと空いた空間に、真は顕微鏡を横たえる。暗がりの中で、顕微鏡たちは静かに微睡んでいる。その眠りを妨げないよう、慈しむように扉を閉めていく。一連の儀式のような流れを、私はぼんやりと眺めている。
窓に映る茜空には、薄墨のような雲が広がり始めた。私達の時間は終わる。現実に引き戻すかのように、時計の針がひと際大きな音を立てた。思わず溜息をついた時、真が鞄から何か取り出した。平べったい円形の、硝子の容器。蓋を開け、机の上にそっと置く。硝子の底で、何かがきらりと光った。
何だろう?
萎みかけた気持ちがもう一度膨らむ。真はそのまま動かない。視線は壁時計に定まっている。どうやら時間を測っているらしい。
「それ、何?」
真は視線を動かさず、淡々と答えた。
「寒天培地。水と寒天と片栗粉を加熱したもの」
だから何なんだ、それは。答が答になっていないけれど、真剣な表情の真に悪気は無いのだと分かる。少し考え、質問を変えてみる。
「何してるの?」
「空中落下菌の測定。空中を漂う微生物が、寒天培地に落ちてくる」
「え、空気の中に微生物がいるの!?」
「いる。水にも、土にも、空にも」
私は近づいて硝子容器を覗き込んだ。硝子の底一面に広がる寒天培地。透明なゼリーみたいだけど、表面には何も見えない。
「もう観られる?」
「培養しないといけない。1週間後に観る。本当はもっと人の出入りがある時間の方がいい。うまくいくかどうか、分からない」
「でも、いるんだよね。……見えなくても、いる」
思いがけず声が震え、俯いた。真が時計から目を離す。屈み込んで硝子の蓋を閉めながら、ボソリと呟く。
「何かあった」
問うでもなく、断定するのでもない、そっと私に触れる低い声。顔を上げた真は私を見て、「しばらく学校を休んでいた」と付け加えた。私の不在を、気に掛けていたことに驚いた。ふわりと、あたたかなものに包まれたような気がした。
「お葬式が、あったから。……おじいちゃんが死んじゃったんだ」
まだ実感の伴わない言葉が、ふわふわと漂う。真は黙ったまま私を見ている。沈黙に沈む理科室で、ゆっくりと記憶が浮かび上がってくる。
連休を利用して、私達家族は県外にいるおじいちゃんに会いに行った。夏に癌が見つかったおじいちゃんは、だんだん動けなくなり、冬の最中に入院した。
病室に入った私は、その広さにびっくりした。個室だし、ゆったりしたソファーまで置かれている。ホテルみたいだと呟いたら、おばあちゃんが声を上げて笑った。
「ほんに、立派な部屋やねぇ。このソファーが、ばぁちゃんの寝床」
それで私は、おばあちゃんがこの部屋で寝泊まりしているのを知った。後で分かったのだけれど、おじいちゃんがいたのは緩和ケア病棟だった。末期の患者さんとその家族が、最期の時を過ごす場所。
ベッドに横たわるおじいちゃんは、僅かに頷きはするけれど、もう言葉が出てこないみたいだった。それでも、微笑んでくれたのが分かった。私達が他愛無い話をする様子を、おじいちゃんはじっと見つめていた。
「じゃあな、親父。また明日来るから」
お父さんがそう言って、私達はおじいちゃんに手を振った。お父さんの姉である千穂おばちゃんの家に泊まり、明日も病室に来るつもりだった。差し入れができると聞いて、地元の美味しいお菓子を買ってこようと話していた。おばあちゃんは今日も泊まると言うから、病室で別れた。そこがどこであっても、おじいちゃんとおばあちゃんは穏やかで、いつも通りの二人だった。その変わらなさに、私はホッとした。でも……。
また明日。そんな他愛無い約束さえ果たされないことがあるなんて、知らなかった。
翌日の早朝、電話のベルが鳴った。病室のおばあちゃんからだった。おじいちゃんの意識が戻らないと聞き、千穂おばちゃん達家族と私達は慌ただしく病院に向かった。
病室に入ると、ベッドの傍に座っていたおばあちゃんが顔を上げた。青白い頬。千穂おばちゃんに充おじちゃん、従姉妹の志穂ちゃん。皆でベッドを囲む。お父さんがおばあちゃんの傍に立ち、おふくろ、と声を掛けた。黙っていたおばあちゃんが口を開く。波が引いた後の浜辺みたいな、静かな声がした。
「お医者さんがな……今日中じゃろう、て」
横たわるおじいちゃんは、すやすやと眠っているだけに見える。昨日までは瞳を開けていた。一緒に笑っていたのに。突然世界が見知らぬ場所に変わったみたいで、全部嘘のお芝居のような気がした。
「ご家族、到着されましたね」
看護師さんが入ってきて、おばあちゃんに声をかけた。そのままおじいちゃんの傍に屈んで様子を見ている。おばちゃんもお父さんも、迷子の子どもみたいに頼りない顔をしている。看護師さんは顔を上げ、労るように言った。
「意識が無くなっても、感覚はあります。耳は最後まで聞こえていると言われます。皆さんで、話しかけてあげて下さい」
ふっとおばちゃんの表情が戻った。出ていく看護師さんに頭を下げ、テキパキと動き始める。
「朝ご飯もまだやったね。志穂、一階のコンビニで皆におにぎり買ってきて。あなた、佐穂がもうすぐ駅に着くみたいやけん、迎えに行ってやって」
隣県に住む大学生の佐穂ちゃんも、急遽帰ってくるらしい。凍りついたようだった病室の時間が動き出す。お母さんがおばちゃんに声を掛けた。
「ラウンジに給湯室がありましたね。皆さんにお茶淹れてきます。泉、手伝って」
お母さんについて扉に向かう。振り向くと、立ったままのお父さんが見えた。じっとおじいちゃんを見つめている。おばあちゃんがそっと手を伸ばし、おじいちゃんの動かない手を撫でた。
病室の窓からは、晴れ渡った空が見えた。カーテン越しに射し込む穏やかな光。今この瞬間にも、この世界ではどんなことだって起こり得る。その全てを包み込むような、深い青が広がっていた。
病室で、私達はおじいちゃんを囲んで朝ご飯を食べた。途中で佐穂ちゃんも合流し、「全員集合だ」と充おじちゃんが笑った。志穂ちゃんはコンビニで見つけたという都こんぶを一枚取り出し、「おじいちゃんもどうぞ」とその鼻先に近づけた。うすっぺらい小さな酢こんぶから、甘酸っぱい匂いが漂う。佐穂ちゃんも「懐かしいね」と笑った。私達が小さい頃、おじいちゃんおばあちゃんの部屋で振る舞われたおやつだ。久しぶりに食べた都こんぶは、優しい味がした。
私達はずっとおじいちゃんの思い出話をした。お父さん達がこどもだった頃のことを聞きながら、おばあちゃんは微笑んでいた。お父さんが酔っ払ったおじいちゃんに「将棋に負けたらテレビを買う」という賭けをさせ、テレビを買わせたという昔話。「親父に飲ませながら、こっそり駒の位置を変えたりしてな。最後は無茶苦茶やったけど、親父全然気付かんかったもんな」という、何度聞いたか分からない話に皆大笑いした。
おじいちゃんの呼吸が変わって、看護師さんを呼んだその時まで、私達はずっと穏やかだった。よく晴れて、静かで、あたたかくて。おじいちゃんを中心に、陽だまりみたいな時間の中にいた。
その後の記憶は朧げだ。
慌ただしく電話しながら、立ち止まって涙を零していた千穂おばちゃん。動かないおばあちゃんの背中を、ゆっくり撫でていたお父さん。
突然おじいちゃん達の家に出現した祭壇。次々訪れる弔問客。
祭壇の前で、布団に横たわったおじいちゃん。胸の上で手を組むのも、ちょっとだけ口が開いているのも、眠る時の癖だった。やっぱり寝ているようにしか見えない。おじいちゃんを取り巻く周りだけが変わったように見える。でも違う。でも同じ。
夜は皆で交代しながらお線香の番をした。私はお母さんと一緒に暗闇で線香を見つめ、その向こうにいるおじいちゃんを眺めた。ふわふわの眉毛、少し下がった優しい
ずっとここにいたらいいのに。
引き止められないのは分かっていた。でも、こんなにしっかり存在しているおじいちゃんが消えてしまうなんて、あんまりだという気がした。瞳を開けなくても、優しい顔が見られるだけでいい。何処だか分からない極楽浄土になんか行かず、私達と一緒にいてくれたらいいのに。そんなことばかり考えていた。
翌日、おじいちゃんは一筋の煙になった。
立派なお骨だと皆は言っていたけれど、白くて軽い骨とおじいちゃんのゴツゴツした手は、私の中でうまく結びつかなかった。
おじいちゃんがいつも着けていた腕時計だけが、おばあちゃんの手の中に残されている。私はどこまでも青い空を見上げた。
おじいちゃんは、何処にいっちゃったんだろう?
「真は今まで、誰かが死んじゃったこと、ある?」
「モコ」
「え?」
「モコ。家で飼ってたウサギ。去年死んだ。獣医からは手遅れだって言われて、家に連れて帰ってずっと抱いてた。夜、最後に声を上げた。体が一瞬伸び上がって、ゆっくり丸まって、だんだん固くなっていった」
「……モコも、骨になった?」
「火葬してもらって、骨は庭に埋めた。でも、モコは骨になったんじゃない。消えていない」
薄闇に包まれ始めた理科室で、私たちの時は立ち止まる。夕暮れと夜の狭間で、想いが巡る。過去と今について。願いと現実について。生と死について。私は真の静かな横顔を見つめる。
「消えていない?」
「質量保存の法則」
「理科の話? 実験の前後で重さが変わらない……水が電気分解で水素と酸素に分かれても、前後で原子自体は変わらない、だっけ?」
「化学変化の前後で原子の結びつきが変わっても、原子の種類と数は変化しない。生き物にも当てはまる。焼かれて骨になっても、肉体を形作っていた原子は空気中に拡散して存在する。空に昇れば雲になり、雨として還る。地球レベルで見れば、命は消えない」
「……見えなくても、いる?」
「存在する」
肉体が消えても、その人の存在は残る。それは心の中のことだけだと思っていた。でも、目に見えない世界であっても、現実に存在は消えていない。その事実は、不思議と私の心を落ち着かせた。
おじいちゃんは消えた訳じゃない。一緒に、この世界にいる。雲になり雨になり、土に還ればそこから新たな命が芽吹く。その巡りは、どこかで私の命とも繋がっているのかもしれない。
理科室の宙を見つめ、光る硝子容器に気づく。
「さっき、微生物もそうだって言ってたね。見えなくても、いる。水にも、土にも、空にも。空にいるって、不思議」
「空中を漂い、風に乗って移動する。高度数千mの上空でも微生物が見つかっている。微生物が核となって水滴の粒になり、雲になることもある。雨になって地上に還ってくる」
空に昇れば雲になり、雨として還る。さっきの真の言葉が過った。
「同じだね。みんな、同じ」
見上げても、理科室の天井には煌々と光る電灯しか見えない。けれど顕微鏡の瞳で見ることができたなら、私達の周りにはもっとたくさんの命が溢れているのかもしれない。私の体にも、実は大昔の人の原子が含まれていて、一緒に生きていることだってあるのかも。
窓の向こうに瞳を凝らす。ラベンダー色の空に、小さな小さな生きもの達を思い浮かべる。いろんな色、いろんな形。透明で繊細な体が、ふわふわと風に舞う。顕微鏡のレンズを回せば、ミクロの世界が映し出される。一面の光の中で、無数の粒子が煌めきながら舞い上がる。まるでサイダーをかき回したみたい。くっつき、離れ、弾けては再び現れる。形は変わっても、全て繋がっている。きらきらと輝く。
理科室の窓を開けると、ふわりと風が吹き抜けた。風は少し冷たいけれど、柔らかく私の頬を撫でていく。優しいごつごつとした手が触れたような気がして、私はそっと微笑んだ。雲は空に、雨は土に。巡る、廻る、還る。私たちは一緒に、この世界で生きているのだと思った。
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